余計な話 弐
巨大な瞳から雫が落ちる。
女の子が相手なら拭うことも吝かではないけど、生憎相手は恐ろしい猿の霊異だ。それに、ハンカチはともかくバスタオルは持ち歩いていない。
『人が人を頼ることに何の覚悟が要るものか…… 儂は悔しくて堪らぬ。人自身が人の覚悟を軽んずることが……化生に相対する事など出来ぬと人自身が諦めることが、口惜しくて堪らぬのだ……!』
「君は人そのものじゃなく、先人の顔に泥を塗ろうとしたこの街の人間が、憎かったんだね」
霊異の恐ろしさを再度人に認識させようとした訳じゃない。忘れられた感謝を求めていた訳じゃない。
人間のために生きてきたこの大霊異は、過去の人間のために現在の人間を襲おうとしたのだ。
『日ノ本をどうこうしようなどとは考えておらぬ……かの人間達が侮られるくらいならば、この街ごと消してしまおうとしただけだ』
叶わんかったがな、と締めくくり、大猿は腹を向けた。
『さあ、
その言葉は真実だろう。放っておけば程なくして彼はまた街に降り、なんの抵抗も出来ない人間を虐殺する。
目に見えない驚異に初めは様々な理由がつけられるだろうが、それが続けば人はやがて霊異の恐怖を思い出すだろう。タチが悪いことに、彼にとってはそれが目的では無い以上、歴史に倣って人が彼を鎮めようと祭り上げても意味が無い。
大猿は、この街の人間を皆殺しにするまで止まらない。だから、それを止められるのはぼくだけだ。
「いやだ」
まあ
『貴様……!』
酷く憎々しげな目がぼくを睨みつける。身体が動けば殺してやるとでも言いたげだ。
そんな風に脅したって「自分では止められないから殺してくれ」なんて悲しいお願い、ぼくみたいなのが聞いてあげるわけないじゃないか。
性格の良い人間と悪い人間の違いくらい、見分けられるようにならないとこの先苦労するよ。
『同情か? 愚かな!』
「君ね、こんなにも長く人の世を護ってきておいて、今更さようならは無いだろ。君がいなくなったらちゃんと人が憎い霊異がたくさん人を襲うよ」
『それを止めるために貴様ら術師がいるのでは無いのか』
「こっちも暇じゃないの。恒久的に特定の街を護り続けられるわけないだろ」
まあ裏技は色々あるんだけど、それはさておき。
「要するに今まで通り君がこの近辺の守り神だと認識されていれば良いわけでしょ? 式神としてじゃなく」
『それは……そうだが』
「調べた限りじゃまだ君の言う通りの伝承はされていない。地誌にも昔話にも載っていないからね。多分地方創生の一環か何かで新しく伝承をでっち上げようとしてるんだろう。高名な術師ってのが誰か分からないけれど、空海とか行基とかその辺だろうね」
大穴で水戸光圀公とか?
名のある人物ゆかりの地として売り出すのは良くあることだ。今やるか、って感じではあるけど。
「だったらぼくが何とかするよ。こう見えて表にも顔が利くんだ。売れっ子だからね」
『……偽りではあるまいな』
「ぼくは自他ともに認める嘘つきだけど、これに関しちゃ信用してもいいよ。十年、二十年先の未来を楽しみに待っているといいさ。荒ぶる隻眼の猿を人の祈りが鎮め、末永く共生したって話にしておいてあげるからさ」
『そう、か』
大猿は満足そうに口角を上げた。
さて、これで一件落着かな。
木の枝にかけておいたコンビニの袋を回収する。
「肉まんは……あーあ、冷めちゃってるじゃないか」
純粋に人を憎む霊異だったら退治して終わりだったんだけどな。
まあいいや、温め直して食べよう。
「じゃあ、これからも人をよろしくね」
山を降りようと踵を返す。
『待て、術師』
「なに、今更不安になった? 指切りでもしてあげようか」
小指の差、100倍くらいありそうだけど。
『人を愚かと蔑みながら、何故貴様は人に味方する』
「ああ」
多分、君とそんなに変わらない理由だよ、人が大好きな神様。
「好きなんだよ、ぼく。虚構の上に成り立つ脆い幸せが。知って不幸になる真実なんて、無くていい」
なにせ、ぼくは嘘つきだからね。
応えが帰ってくるより先に歩き出す。
人はいずれ罰を受ける……これはきっと避けられないこの世の理。だけど、それは誰かが意図的に与えていいものじゃない。
人を不幸にするのも幸せにするのも、いつだって人間なんだ。
神も魔も、お呼びじゃ無いんだよ。
◇
仮の住まいに向かって歩くこと暫く、前方からカツカツと地面を叩く音が聞こえてきた。
闇から染み出るように現れたのは、黒いドレスを纏った少女だ。
「御機嫌ようお兄様」
「やあ、スイちゃん。お散歩は楽しかった?」
少女は優雅に一礼すると、白杖を鳴らしながらぼくの横に並んで歩き出す。
「お散歩だなんて……酷いですわ。酷いですわお兄様。
「ごめんよ。ほんの冗談だったんだ。ほら、お腹が空いただろ? 君のために肉まんを買っておいたよ」
「冷めているようですが、随分サービスの悪いお店で買ったんですのね」
「ああ、店員はピアスを10個も空けているようなガラの悪い男でね、気分が悪いったら」
「あんまり意地悪を言うようでしたらこちらにも考えがありますわよ、お兄様」
「新しいのを買いに行こうか」
うーん。少なくとも弱みを二つ握られている身としては逆らえない。
一方はどうとでもなるが、もう一方は中々厳しい。
「ところでお兄様の方も一悶着あったようですが、首尾はどうでしたの?」
「まあまあかな。多分問題無いと思うけど……何かあったら
「悪い先生ですこと」
「生徒が強く育って嬉しいよ。ぼくがお役御免になる日も近い」
「そしてまた貴方が求められるのでしょう?」
「さてね」
先のことは、分からないからね。
「それで、そっちはどうだった?」
「それなりに楽しめましたわ。鴟蛇はお兄様のやり方をきちんと踏襲しておりました。良い術師になったと褒めてあげるべきでしょう」
含みのある言い方だ。つまるところ、そういうことなんだろう。
一つ息を吐き、彼女の両目を覆う
「スイちゃん、ちょうだい」
「はい。どうぞ」
瞬間、頭の中に溢れ出す記憶。
彼女の見てきたもの……鴟蛇とかぐやの過ごしてきた時間、霊異と人の想いの絡まった一連の事件が、ぼくの情報になる。
伏せていた目を開ける。
「……なるほどね」
呟き、両手を広げた。
「良いじゃないか。かぐやは失った記憶を取り戻し、傷付きながらも前を向いた。この先虚構に怯えることもない」
「お兄様」
「霊異を恐れる心も持ち、人を疑うことも知った彼女はとても強い。そう、これこそ人間の持つべき強さだ。未来は明るい」
「お兄様」
「なるほど、鴟蛇は見ない内に随分と成長したみたいだね。ぼくも鼻が高いよ」
「お兄様、もう下手な嘘はやめませんか?」
スイちゃんは形のいい眉を顰めてぼくを見上げていた。呪帯の内側の目はぼくの顔ではなく、それこそ内側を見ている。
嘘だと分かっているのなら、今のぼくはそれはもう滑稽に映るのだろう。居た堪れないと言葉にせずとも、その佇まいが言っていた。
掲げていた両腕を下げ、肩をすくめる。
「鴟蛇が成長していると評したことも、それを鼻が高いと思っているのも、本当だよ」
「そんなことを言いたいのではないと、分かっていらっしゃるでしょう?」
「……スイちゃん」
彼女は白杖をカツカツと鳴らす。
「お兄様の考えは私も良く存じておりますわ。真実なんて無くていい。幸せであるならば嘘だって構わない。大いに結構です。私もそれに異論を唱えようとは思いません。ですが、真実を知りたいというのもまた、否定できない人の性」
彼女はスカートを翻し、ぼくに向き直る。くっと腰を曲げ、口元に笑みを浮かべ、上目遣いにぼくを見る。
「良いではありませんか。ここで貴方が何を言おうとも、誰も聞いてはいませんわ。不幸になる誰かなどいないのです」
「君は本当に……昔っから困った子だよ」
ませてて、知りたがりで、いたずらに人の心を掻き回す。
じっと視線で咎めるも効いた様子はない。
上下関係で言えば明確にぼくの方が上なのだが、この子はある意味、ぼくのウィークポイントそのものだ。こちらが頑なになれない以上、折れるしかない。
「先に言っておくけれど、これが正解だという訳じゃない。あくまで推測だ」
「ええ」
「ぼくがこの件に当たっても、鴟蛇と同じ結論を出した」
「それは重々」
深く溜息を吐く。
既にぼくの記憶になった、かぐやと人形の怪奇譚を想起する。
ああ、やっぱり、美談で終わってはくれなさそうだ。
「疑うべき点は確かにある。ぼくに聞くくらいだ、何か引っかかることがあったんだろう? スイちゃん、君はどこが気になった?」
よくぞ聞いてくれましたと、少女は可愛らしく咳払いをした。
「どうして人形は……庭月野かぐやの祖母は、孫を守るためとはいえ実の娘を殺したのでしょう? 孫を守るために他人を殺すのであれば、行き過ぎた家族愛で済んだのでしょうが……」
この問に「孫の方が娘よりも可愛かったからだよ」と言うことは簡単だが、彼女は納得しないだろう。
そう言って煙に撒けば、頬をふくらませて憤慨するに決まっている。少し見たくはあるが、気分ではないのでやめておく。
その答えは……性格の悪いぼくが導き出した真実は、残酷なものだ。
「実の娘じゃ無かったからだろうね」
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