16
瞬間、視界に飛び込んできた景色が、頭蓋の内側を激しく殴打した。
「あっ、ぐ!?」
じわじわと虫が這うように脳を蝕んでいた鈍痛が、余りにも鋭利に変化する。視界が反転するほどの衝撃。立っていることなんて到底出来なくて膝を折る。
卒倒したいのに痛みでできない。死と生の境目を引きずり回されているような感覚に、ここは地獄かと錯覚する。
思わず俯いた私だったが、鴟蛇さんが無理矢理に顔を上げさせた。
「鴟蛇、さん……」
「見るんだ」
霞む視界を挟んで、鴟蛇さんの強い目が私を射抜いていた。どこか他人事のように感じられるほど遠い言葉は、しかし私の意識に届く。
見ろと。彼女は見ろと言った。
この部屋を。私に苦しみを与える元凶を。
「違う」
違う? 違うって、何がだろう。見るべきはこの部屋じゃないのか?
視界に映るのは、何の変哲もない畳敷きの和室。ちゃぶ台が立てかけてあって、箪笥があって、鏡やらお手玉やら簪やら茶碗やらが散乱していて、こざっぱりしていた他の部屋とは明らかに異なり、生活感が残っている。
しかし、特に異常は見受けられない。
霊異の姿は、見られない。
「キミを苦しめているのは、この部屋じゃない」
鴟蛇さんの細い指が、私の頭を軽く叩いた。
「キミ自身の記憶だ」
言い切って、彼女は傍らに落ちていた私のトートバッグから人形を取り出した。鮮やかな赤が痛みを助長するが、既に限界を突破している苦しみの中じゃ、気のせいほども変わらない。
「だからキミは思い出さなくてはならない。考えなくてはならない。何故そんなにも苦しいのか。何故過去を思い出そうとする度に頭が痛むのか。何故記憶が欠けているのか」
人形を持ったまま、ゆっくりと彼女は歩き出す。散乱している物の間を縫い、部屋の奥、ぽっかりと空白になっている床の間に向かって。
「そして何故、祖母を嫌うのか」
そしてそっと、そこに人形を置いた。
その在り方を見た瞬間、「ああ、そうか」と、意識の内側で私が呟いた。
ここが、かつて過ごしていた場所なんだ。
「――――!」
気づいた途端に、濁流のように内側から溢れ出す記憶。穴あきのフィルムのようだったそれが、一息に修復されていく。
この家で見てきたもの。関わった人々。そして生じた感情。私が失ったと思っていたものが、甦っていく。
「正五角形とは、五芒星に外接する図形だ」
唐突に流れ込んできた情報を処理しきれず、半ば放心している私に向かって、鴟蛇さんは言う。
「そして五芒星と言えば、僕は五行を思う。五行とは万物が金、水、土、木、そして火の五種の元素から成るという思想。それらを色分けすると白、黒、黄、青、赤となる」
現実と乖離した意識の上澄みが、勝手に彼女の言葉を解釈しようとする。古びた記憶と一緒に、真新しい記憶が想起される。
そうだ。その色分けは、先ほど見た物と同じ。
「五芒星はそして、魔除の意味を持つ。魔除け、即ち結界だ。壁の内の物は、その結界を構成する要素だった」
彼女の声と共に、何か固いものがぶつかり合うような音が聞こえる。未だ現実感の取り戻せていない私の目は、そのせいか部屋に散乱している物を動かしている。
「結界。外から入ってくるモノを拒み……内から出ようとするモノを阻むもの」
独り言のようなその台詞も、最新の記憶に在った。
過去と現在が私の中で混ざり合う。とびとびだった映像が、連続したドラマになろうとする。
意識が内側からようやく浮上し始めた。
しかしそれでもまだ夢半ばの脳みそは、やっぱりカタカタという硬質な音と、無機物の動く様を私に見せる。
「この家には隙がなかった。いや、隙間がなかった。正五角形の内に作るなんて奇怪なことをしているくせに、わざわざ穴を開けなければ鼠1匹……ハムスター1匹入り込めないほどに、外部からの侵入を拒んでいた。それはつまり裏を返せば、内側のモノを閉じ込めていたと言える。何をって? それはもちろん、この子達だろう」
既に全ての感覚が現実に戻ってきていた。
それでも尚、部屋に散乱しているモノ達はひとりでに動いている。
地震? 現実にあってはならない光景を前に、有り得そうな夢想を口にする。そんなわけないと知っているのに。
そう、これが霊異。現実に無いが、現実であるモノ。大抵の人々が、有り得ないと口を揃えて嗤うモノ。
そして私はマイノリティだ。これが現実だと……枯尾花の正体が霊異だと知っている側。
だから私の身体の震えも、地震のせいなんかじゃない。
「付喪神。長く存在した物に魂が宿り、持ち主に恩を、酷い扱いをした人間に仇を返すという――霊異」
部屋に散乱したモノは、ガタガタと……まるで怒りに震えているように、確かに動いている。
そしてその向こう側。かの人形もまた、同じく。
「何を怯えることがあるんだい。こんなことは予測して然るべきだろう。無人であるのに綺麗すぎるこの家。キミはどう思った? 誰かが未だに住んでいるみたいだと、思わなかったか?」
モノは、震えているだけではない。
徐々に徐々に、私に近付いてきている。
何を怯えるか? そんな、分かりきったこと。
目の前に霊異がいるからだ。
ヒトを殺すモノが、明確に私を狙っているからだ。
「いやっ!」
びゅん! とモノが私目掛けて飛んできた。足なんかついていないくせに、まるで蛙か兎のように。
頭を抱えて蹲る。閉じた瞼の向こうで、バチィ! と物理からかけ離れた音が響いた。覚悟していた衝撃が来ないことを訝しみ、恐る恐る目を開けると、骨董達は宙で何かにぶつかったかのように止まっている。
これも霊異としての力かとも思ったが、そうでは無い。彼らの前に立ち塞がる鴟蛇さんが掲げた、五芒星の描かれたお札に阻まれているのだ。
魔除の五芒星。これが、結界。
「そう。この家には霊異が住んでいた。ここに閉じ込められていた。一体誰に? なんのために?」
「そんな、どうでも、いいこと」
震える唇はまともに機能してくれず、それは全身が同様だった。末端は自分で分かるほどに冷えきって痛いくらいだ。
有り得ない。有り得ないけど今ここで起きている。常識で考えては目が曇る。霊異とは、霊異以外の何物でもない。そう在るだけ。だから、後は受け取り手の心持ち次第。
真を見出したいのなら、どれほど信じ難いことが起きようと、起きてしまったことを現実だと受け止めなければならない。
常人には見えないけれど、見えてしまったのなら、それはそういうモノだ。
だけど、そう認識していても、恐ろしいものは恐ろしい。
未知故に恐れられる彼等だが、だからといって正体が知れれば恐るるに足りない訳では無い。
ヒトを殺すモノが、怖くないわけないだろう。
「ねえ、かぐや? この家に結界を張り、彼等を閉じ込めた人物は誰だ? キミに訊いているんだよ」
そんなどうでもいいことを、何故今問うのだろう。
疑問の声も、恐怖に竦んだ身体じゃ挙げられない。
パクパクと開閉するだけの口を見てか、それとも縋る目を見てか、鴟蛇さんは呆れの溜息を吐いた。
「やれやれ。落ち着いてもらわなくちゃ話も出来ないね」
すっと伸ばされた手にびくつく身体に自分で驚く。鴟蛇さんの手にすら怯える程に、今の自分は冷静ではないらしい。
綺麗な顔に不快さを示す線が引かれる。
「傷つく反応だなあ! 僕は別にキミ――ぐっ!?」
不快さを示す縦皺は、すぐ様苦悶のそれに変わった。
「……え?」
その苦悶の顔が唐突にブレた。一瞬で視界の外に消えた鴟蛇さんを探そうとする前に、何かが爆発するような凄絶な音が耳朶を打つ。
理解の追いつかない出来事を前に、心の方が置いていかれた。あんなに出なかった声はいとも容易く困惑を示し、あんまりな現実を前に、意識がまたも逃避しようとする。
そこには黒い絹のような何かに四肢を戒められた鴟蛇さんが、壁に押し付けられていた。
いや、押し付けられたのではない。叩きつけられたのだ。背後の壁が罅割れるほどの勢いで、あの華奢な身体が。
一体何が。
その答えが出た瞬間、無慈悲なことに心が現実に追いついた。
「あ、ぁあ、ああああ……!!」
人形――――!
どこまでも黒い髪。淡々とした表情。五十センチメートル程の小さな体躯が、赤い着物が、空間を占めた黒に映える。
目の前の光景が、薄暗い景色が、脳に焼き付いて離れない映像と被る。デジャヴする。トラウマが、フラッシュバックする。
ラジオのノイズに良く似た雨音。宙にぽつんと浮かぶ赤。黒の滝。滝に溺れる大事な人の苦悶の瞳――――死。
「う、あ、あぁぁぁああ!!」
死。母の死。苦悶の瞳。助けを求める右手。冷たい体。開き切った両目。雨かどうか判別のつかない程に撒き散らされる体液。
覚えてる。
覚えてる覚えてる覚えてる覚えてる覚えてる――――!
鴟蛇さんの四肢の軋む音がここまで響いてきた。どれほど凄絶な力で締め付けられているか、私の浅い人生経験では伺い知れなかったけど、それがどれだけ人体にとっていけないことなのかは分かった。
何故なら、鴟蛇さんの四肢はどす黒く鬱血していたから。
黒く、黒く。ひたすらに黒く。なんとかしたいけどあたしの足は震えるばかりで何の訳にも立たなかった。
なんとかしようとする意志だけが、喉を通って声になる。だけど空気の揺れが、この場において何になるというのか。
次の瞬間、あたしは自分の無力を思い知らされた。
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