6
叫ばないように必死に両手で口元を抑える私を後目に、鴟蛇さんはゆったりと寝そべる獅子に背を預けた。大人しいと言ったのは嘘ではないようで、獅子は気にすることも無く大きな欠伸をしている。
ちらりと背後を見る。襖は開きっぱなしだ。
この期に及んで逃げようというのは往生際が悪すぎる気もするが、なにせ生きた心地がしないのだ。鋭すぎる眼光とか、肉に穴を空けるために特化した牙とか、間近で見たら心臓がそのまま止まりそうなくらい怖い。
獅子の額をくすぐりながら、鴟蛇さんは目で笑う。
「そんなに怖がらなくても。こんなに可愛いのに」
「猫とは違うんですよ、猫とは……」
「そういうものかな? 人に危害を加えなきゃどちらも変わらないと思うんだけれど。ね?」
鴟蛇さんの呼び掛けに応えるようにして、獅子はぐっと首を伸ばして顔を舐めてきた。ざらついた感触が頬の表面を撫でる。
その舌よりも粗く肌が粟立った。
「きゃああああ!?」
我慢の限界だった。今の今まで全力で締め付けていた喉が開き、お腹の奥から声が出る。畳と襖の部屋は余り反響しなかったが、夜中に叫んだあの日よりも大きな声だったに違いない。
思考するより先に立ち上がって逃げようとする身体だったが、当然腰は抜けている。足なんて生まれたての子鹿のようだ。密かに自慢だった下半身のカモシカさんは、捕食者を前にしてお亡くなりになったらしい。
一歩も動けない被食者こと私は、平身低頭して震えることしか出来ない。
「こ、こんなちんちくりん食べても美味しくないですよう。可食部分少ないですよう!」
「あっははははは!」
まるでレンちゃんみたいに大笑いする鴟蛇さんに腹を立てることも出来ない。弱者は自由に心を動かすことも許されないのだ。世知辛い。
「ああ、おっかしい……ごめんごめん。いや、緊張してるみたいだったし、リラックス出来るかなってさ。ほら、アニマルセラピーってあるじゃない」
「猫とは違うんですよ! 猫とは!!」
「ネコ科カフェとかあったら流行りそうじゃない?」
「ほぼ肝試しですよそんなの……」
ようやく落ち着いてきた。いや、心臓は未だにうるさいし、本能は絶えず警鐘を鳴らしているのだが、頭が危害を加えられないことを理解した。
居住まいを正し、「それで」と口火を切る。
「そろそろ、霊異の話をしてもよろしいでしょうか」
「うん、どうぞ」
咳払いをする。あの日のことを思い出すと、頭の奥が痛む。今日は晴れだというのに、雨音が聞こえてきた。
「人形が動くんです。赤い着物の市松人形です。どこに置いてきても戻ってきて、凄く怖いんです」
「うわあベタ」
「か、髪も伸びます!」
「ベッタベタじゃないか!」
「悪いですか!?」
笑う鴟蛇さんを睨み付ける。
本当に困っているのにそんなに笑うことないでしょう。
薄々気づいていたが、性格はそんなに良くなさそうだ。見た目と中身の良さは比例しないらしい。
「ごめんて。で、その人形はどこ?」
「猫に盗られました」
どうせ笑うんでしょう。
拗ねてそう言うと、しかし予想に反して鴟蛇さんは「ああ」と納得したような顔をした。
「これ、キミのか」
獅子の後ろから、人形を引きずりながら猫が現れた。
間違いなく人形を攫った猫だ。屋敷に入っていったからそうだとは思っていたが、やっぱりここの子だったらしい。
力持ちな猫は人形を咥えながらぴょんと獅子の背に飛び乗ると、鴟蛇さんに人形を渡してまたどこかへと消えていった。
「ふーん。勝手に動く。髪が伸びる、ねえ」
呟いて、鴟蛇さんはまたニヤッと笑った。
「じゃあ、もうこれは一個の生命と呼べるんじゃないかな」
「はい?」
人形を膝に乗せ、その髪を撫でながら彼女は言う。
「だってそうだろう。動く。髪が伸びる。それは即ち、この子の時が動いているという証拠だ」
「でも、人形は人形です」
「じゃあ、キミは何を以て『
思わず黙る。
反論しようとする意思だけが空ぶってパクパクと口だけが動くが、言葉が喉から上がってこない。
生命の定義。
例えば、心臓が動いている。呼吸をする。血液が流れている。思考する。子孫を残す。
しかし、これに当てはまらない生物もいる。
考えたことが無いとは言わない。
でも、結局行き着く答えはいつも同じだ。
自分がどう判断するか。つまるところ、見ればわかるのだ。
私が見る限りでは、人形は生きていない……と、思う。
「意地悪を言ったね」
鴟蛇さんは目を伏せて口元だけで笑った。
「でも、人形の髪が伸びるとか、動くとか……非生物に人間性が宿った時は、もうそういう生き物と定義した方が話が早い」
「人間性が、宿る」
「そう。人間性じゃなくても、生物性が宿った時は。そうだね、付喪神とか有名じゃないかな。長く使った道具に生物性が宿り、霊異となって酷い扱いをした人間に仇を、よく使ってくれた相手に恩を返すという。特に人形は人を模している分、器になりやすい」
「では」
頭の奥の痛みが強くなる。雨音は更に近い。
「この人形は、私に恨みが?」
「さてね。何か心あたりでも?」
頭を振る。恩を返される程良い扱いをしたとも言い切れないが、記憶の限り何か酷い扱いをしたことも無い。
そもそも大した思い出もない。人形と私の関係なんて、人と人形以上のものでは無いのだ。
まあ、私に限って、記憶云々というのは酷く頼りないものなのだが。
「ふむ。じゃあ語ってもらおうか」
すっと鴟蛇さんの黒い瞳が細められる。彼女が姿勢を正すのに合わせて、私も背筋を伸ばした。
「動くにはまだ情報が少なすぎる。教えてくれ。キミと人形が歩んできた時を。そこに絡んできた感情を。キミの覚えた恐怖の味を。出来うる限り正確に、ね」
真っ直ぐに私を見つめてくる瞳は、まるで真実を映すという鏡のようで、ただ黙って頷くしか無かった。
瞼を閉じて、記憶を掘り返す。やはり頭が痛んだが、気付かない振りをした。
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