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「――ッ!」


 短く鋭い呼吸音が、シンと部屋を響かせたことを知覚した。けたたましい叫び声を上げたと思っていたこちらとしては混乱の種なのだが、我が物顔で闇が寝そべるこの時間を考えればむしろ、私の喉が人間の限界以上のヘルツを出せないことに感謝しなければならないだろう。


 ふと、右手に感じた冷たさで、無意識に額を抑えたことに気が付いた。随分と汗をかいてしまったようで、寝巻きが身体にぺたぺたと張り付いている。ほんの瞬き一つ分前まで眠っていた癖にだ。その間に脳も心臓もマラソンでもしたらしい。未だに呼吸は荒く、心臓の拍動は全身を揺らす。


 身動ぎするとキシキシと安物のベッドが鳴った。薄い木版の悲鳴もハッキリと聞こえる程の静寂なのに、身体の内が酷くうるさい。

 心臓が全身を叩く音。それに合わせるような呼吸音。そして何よりも、耳から離れないラジオのノイズにも似た雨音。


「はっ……は、あ……」


 落ち着け。深く息を吸え。それから、

 一瞬でも視界を塞ぐと、思い出してしまう。あの日から夜毎に見る夢を。あの日のことを。


 そう、母が――。


「――考えないで!」


 先程の呼吸音とは違う、真に悲痛な声が部屋にぐわんと広がった。慌てて口を抑えるが、放った声は戻ってこない。そのままベッドの上で小さくなって数秒、それが溶けて消え去り、夜の静寂しじまが甦っても、隣室から抗議の声は聞こえなかった。


 無意識にほっと息を吐く。この期に及んで他人に迷惑をかけることを恐れる自分の小心者加減には呆れるが、お陰で息は多少落ち着いた。未だに心臓は激しく鳴り続けているが、直にそれも収まるだろう。


 脳裏に焼き付いた光景を駆逐するように、自室をぐるりと見渡す。目はとうに暗闇に慣れていて、カーテンに遮られた月光でも物の色まで判別できるくらいだった。


 白い壁紙。毛足の長い絨毯。椅子替わりのクッションに、短足の丸テーブル。山吹色のカーテンが陽光を眩しく染めてくれなければ、もう少し遅刻の回数は増えるだろう。変わりのない日常と安寧の象徴がここだ。何も恐れることは無い。


 自分の心にそう言い聞かせるように、今度は意識的に息を吐いた。心臓も息もほぼ平常時と違わない。


 落ち着くと、急に汗を吸った寝巻きが気になってきた。誰かにプレゼントでもするのかというくらいにぴったりと私をラッピングする寝巻きは、春ももうすぐ終わるとはいえ、この時間では非常に冷たい。そもそもこの量の汗を許容できるほど、私は女としてまだ終わっていない。


「着替えなきゃ……」


 喉も渇いている。シャワーを浴びて水を飲もう。

 そうしてベッドから降りた瞬間、足の裏で感じたのはいつもの少しくすぐったい絨毯の感触ではなかった。


 固くて冷たい、陶器のような


 反射的に足元を見た刹那、全身が粟立った。


「――!」


 ひゅっと短く息を吸うのと、を蹴飛ばすのはほぼ同時だった。

 ガツっと硬質な音を立てて壁にそれが激突した。自身の行動の過激さに暫し呆然とし、床にゴミみたいに転がるそれを見て、心臓がまた激しく鳴り出す。


「……どうして」


 ぐちゃぐちゃとした思考に脳が支配される。支離滅裂な情報と益のない言葉が溢れ返り、挙句にあの日の事が夢よりも尚鮮明に想起した。



 鼓膜以上に心を震わせる雨音。

 見たことも無い母の苦悶の顔。

 力の失われていく四肢。

 触らなくても分かるほどに冷たくなっていく命。


 それから、


「いやっ!」


 気が付けば、汗に塗れた寝巻きのことも忘れ、外に飛び出していた。

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