曾爺ちゃん「南洋の野ブタは、そりゃあでかかった」

「棒立ち新兵と逃げた奴。後で根性を叩き直してやる」

 僕の台詞ではない。

 地面に転がっていた中島曹長が、おもむろに上体を起こしながら言った台詞だった。

「無事か。曹長」

「心配には及びません。大尉」

 どうという事もなく中島曹長は立ち上がると、手中に残っていた九九式小銃の具合を確かめるように捧げ見た。

「九九式小銃殿も御無事なようで」

「どういう技か知らんが、君は頑丈だな」

「一刺しして逃げる。それだけですが、しかし野ブタって奴は意外に勢いが凄いものですなぁ。奴の体を蹴ったら、そのまんま吹っ飛ばされました」

 ケロッとした顔で言ってのける頼りになる中島曹長。

 うん、綺麗に転がっていたから深刻な心配はしていなかったが、それでも傷一つ無しとは。

 感心して中島曹長を眺めていると、彼は野ブタの方に目をやって怪訝げな表情を浮かべた。

「ところで、こいつは野ブタですかね? 人ですかね?」

 何を馬鹿な事を。野ブタだったじゃないか、人だと?

 言われて僕も野ブタを改めて見て、そして固まった。

 それは、顔は確かに豚だった。

 しかしてその体。

 その体は、人の形。

 筋肉と脂肪がみっちりと乗った、相撲取りの体を思い起こさせた。

「原住民を殺したなら問題だな」

 襲い掛かって来たのだから正当防衛だ。そんなのは何の意味もない。

 原住民がいるとして、それらとの抗争など何があっても避けたい。そんな事で戦力の消耗などしていられないからだ。

 逆に友好関係を築けられれば、何かしらの助けになるかもしれない。第一、八紘一宇の精神から言ってもそちらの方がよろしい。

 そこへ来て、どんな事情があるとしても、こちらが先に殺したという意味は重い。

「顔はこしらえ物でしょうか」

「だろうか。仮面にしては表情豊かに思えたが?」

 中島曹長に答えながら、僕は倒れた野ブタに歩み寄る。中島曹長は、銃をしっかりと野ブタに向けつつ、僕の後に続く。

 野ブタはこれ以上なく死んでいる。

 腹の刺し傷。そして胸の銃痕。この辺りが深手。体に散る小さな銃痕を見るに、僕の拳銃も当たりはしたようだが、この巨体相手では少々威力が足りないようだ。

 ざっと眺めて状態を確認し、次は傍にしゃがんで詳細に調べる。

 手を伸ばして顔を抓る様に引っ張った。肉と皮の感触。口が開いて、大きな牙があらわになる。

 うん?

 顔を親指で押して輪郭を探る。堅い皮膚の下に、さらに堅い骨の感触を得る。

 これは。

「……仮面じゃない。こいつ人じゃないな。」

 違いはすぐに分かった。顔が仮面でもなんでもなく、本物なのだ。

「南洋には豚に似た人がおるという事では?」

「似てるとかそんなんじゃなく、人では有り得ない形だよ」

 中島曹長と話しつつ検分を進めていく。

 頭骨は明らかに人の形をしていない。獣の様に前へ突き出た形状をしている。

 体も、人に似てはいるが、尻尾があるなどの違いがある。

 そして、その体に歪な所がない。これは、そういう生き物なのだ。

「やっぱり、野ブタ。あるいは猿みたいな生き物かもな。南の方だと、猿も随分大きいのがいると聞くからね」

 新種かもしれない。が、まあ、実際のところは浅学な僕が知らないだけだろう。

「さすが大尉殿、博識だ」

「大尉殿は大学を出ているからなぁ」

 僕の解説に兵達は頷き合う。理解してもらえたようで何よりだ。

 大学……出てないけどな。途中で軍に行かされたよ。

「人でないのは良かったとして、ではこいつをどうします?」

 中島曹長が、野ブタの頸動脈を銃剣で突き切りつつ聞いた。

 首から溢れ出る血が地面の上に流れ出ていく。あまり見たくはない光景だったが、血を見て吐くような感性は、もう僕にはない。

 さて、体を見ると食欲は失せるが、顔を見れば立派な豚だ。

 中島曹長は、首に続いて、手首足首と傷を入れている。

 僕が命ずる事を想定しているのだろう。

 さて、他の兵士共は?

 半数ほどは、あまり良い顔はしていない。だが、残りの顔には期待が見えた。食い物を見る目という奴だ。

 いろいろ考えるべきことではある。だが、やらねばならん事だ。

「哺乳類で肉に毒があって食えないって生き物はいない筈だ。供養でもある。食おう」

 これは、僕らが手に入れた食糧だ。

 この先、もっと楽に安全な食糧が手に入るかもしれない。入らないかもしれない。

 何にせよ、これから先、僕らは食糧不足に窮していく。

 余力のある今のうちに、食糧の安全の確認を行わなければならない。

 同じことは既に漁労をしている仲間たちが既にやっている。

 南洋の、どの魚が食えて、どの魚が食えないのか? 誰も知らないのだから試すしかない。何人か不調を訴えたが、まだ死者は出ていない。

 今度はそれを僕らがする。そうなるだろう。

「か、解体しますか!?」

 金田二等兵が声を上げる。心得があるのだろう。志願してくれるとは有り難い。しかし、だ。

「いや、近くに敵がいた場合、銃声を聞いて集まってくる可能性がある。この場での解体は避けよう」

 一刻も早い撤退のために野ブタを捨てていく事も考える。

 だが、食い物だ。

 捨てる事は英断であり、それを下せるのは英傑かもしれない。ここで肉に固執してグズグズしている僕は愚物だろう。

 愚物なりに最善を尽くすか。

「しかし、血の匂いのする獲物を運べば、肉食の獣が追って来るやもしれません」

 うん、金田二等兵。良い事を言ってくれる。狩人としては、ここで解体して血や内臓は処理してしまうのが正しいのかも知らん。

「肉食獣より米軍の方が厄介だ。獣は食えるが、米軍はそうもいかんからな」

「よし、棒立ち新兵、こいつを担いで運べ」

 中島曹長が話を断ち切る様に命令を発する。

 聞いた新兵五人は顔をしかめた。

 相撲取りくらいある奴を担いで運べと言われればそうもなるか。

 しかし、この程度で、抗命する事など有り得ないわけで、彼らはすぐに動いて各々が野ブタの体にとりつき、掛け声一つ担ぎ上げた。

「逃げ古兵三名は後方警戒。しんがりの名誉をやる」

 中島曹長の差配が終わった所で、僕は全員に指示を下す。

「各員、周辺警戒! 入り口に帰還する!」

 幸い帰路に大きな問題は発生しなかった。

 獲物を担いだ新兵が息切れを起こし、古兵達にも交代で担がせたくらいか。

 今後があるなら、もう少し楽に運べるように考えたい。

「僕も担ぐか?」

「大尉殿。奴さんが死んだんで、蚤やら壁蝨やらが引っ越しの最中であります。お担ぎになられますか?」

 野ブタ担ぎから解放された新兵が体を掻いているのはそれか。

 僕は忠告してくれた中島曹長に答えずに、兵達への命令という形で返す。

「帰還後、水浴びと洗濯、虱潰しの時間を与える。仲間と合流する前に、可能な限り虫を駆除しろ」

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