曾爺ちゃん「あの時は、ずっと腹を鳴らしとったわ」

 あれから二ヵ月。完全に孤立した僕達に、食糧確保の手段などありはしなかった。

 節約して食いつなぎ、命がけの漁労で不足を補い、まだ何とか決定的な破局は来ていない。それでもそれは先延ばしにしただけに過ぎず、いずれ食糧の尽きる時は来る。

 今でさえ、一食に茶碗半分の飯に、焼き魚の小片や海藻の塩汁がつくかつかないかだ。兵に至っては、それがさらに半分にもなる。

 食糧の分配が少なくなったことで栄養不足に倒れる兵は日を重ねるごとに増えていた。

 不平不満。何より、不安が兵達の中に見える。

 原田少佐はまだ箝口令を敷き続けているが、そろそろ限界だろう。その時は、今はまだ漠然とした不安でしかないものが、餓死の恐怖という明確な形をとる。

 そうなった時に、兵達はまだ軍人としていられるだろうか。

 本土にいた頃、風の噂に聞いた人食い軍人の噂を思い出す。遭難した彼は、飢餓の中で部下を殺して食ったという。

 ああそうだ。噂に過ぎない。

 でも、僕がそうならないという保証なんてない。僕の部下がそうならない保証もない。そうなった時、僕はどうするのだろう。

「……大尉殿、歩調が」

 中島曹長の厳つい声に僕は思考の内から醒める。

 いつの間にか小隊から脱落しかけていたようだ。

 とはいえ、隊長の自分を置いていくわけにはいかないから、隊は歩調を落としており、その結果として隊列を乱している。

 この迷宮で隊列を乱すのは危険だ。隊列が乱れれば隊の分断離散の危険が増し、誰かが隊から一度はぐれたなら二度と戻らないかもしれない。

「ああ、すまない。少し、余計な事を考えていたようだ」

「余計な事……ですか。それは、大尉がこんな前線まで同行している理由に関係することでありますか?」

 中島曹長。長身で細身なれど鋼のごとき筋肉を秘めた益荒男。この小隊の指揮官であり、本物の歴戦の兵士である彼には助けられるばかりだ。

 本来なら将校の少尉が任につく小隊長を下士官である彼が務めている事実からも彼の有能さはわかろう。もっとも、僕の大尉という階級と同じく、本物の少尉を出し渋った結果の人事だという想像は外れてはいないだろうが。

 ともあれ、彼のその鋭さを今、発揮しては欲しくなかった。

 中隊長である僕は、本来なら後方に指揮所を置いてそこで指揮を執るべきなのだ。

 今の状況で、ただ座して待っている事が出来なかったのは、ひとえに僕の弱さだ。

 何もせずにいると、それこそ本当に余計な事ばかりを考えてしまう。今は、何かをやっていたい。もっとも、それも上手くいってるとはいいがたいが。

 とはいえ、指揮官が「悩みを抱えて、指揮も満足にできません」なんてのを兵に見せるわけにはいかない。

 だから、僕は努めて明るく言った。

「関係ないよ。本当に、つまらない事だ。恥ずかしいから、追及はしてくれるな」

 そしてこれでは、指揮官が現場に同行していることの説明にはならないので付け加える。

「だいたい僕はね。大尉なんてついてるけど、少尉の真似事しかした事がないんだ。四個小隊を手足のように動かせったって無理だよ。一個小隊、兵50人だってお腹いっぱいなんだ」

「お腹いっぱい、食いたいもんですなぁ!」

 中島曹長が兵達に聞こえるように声を上げる。

 うん、将校の自分が、自分の能力を疑うようなことを兵に聞かせるわけにはいかなかったな。それを誤魔化してくれたか。

 兵達には中島曹長の声の方がよく届いたようで、誰もが抱える空きっ腹の話だと思ってくれたようだ。

 わずかにだが、笑い声も聞こえてくる。

 中島曹長の気配りを無にするわけにいかない。僕もその流れに乗ることにする。

「お腹も空いたし、もう少し進んだら本隊に戻ろう。かなり進んできたから、帰る時間も考えないとな!」

 実際、僕らはずいぶんと先に進んできていた。

 本隊のいる地下壕を中心とした一帯、基地として利用するに十分な範囲は既に探索を終えており、さらに深く、さらに遠くへと進んできているのだ。

 まったく、狭いとまでは言わないが孤島に過ぎないここの地下に、これほどまでに広大な地下道が広がっているなんて。

 自然の神秘という奴は、時に凄いことをやってのけるものだ。

 と、そんな事に思いを馳せかけたところで、兵の一人が前に進み出てきた。

「その事ですが森本大尉。よろしいでありますか!?」

「なんだ!」

 足を止め、気を付けの姿勢で声を上げるのは、徴兵される前は確か炭鉱夫だったという山谷上等兵。

 彼は、こういった地下に慣れており、この探索行ではよく役立ってくれていた。

「はっ! 外の匂いがするであります!」

「外?」

「穴の底に溜まった空気とは違う、新鮮な空気の匂いであります」

 山谷上等兵は手振りで緩やかな斜面を描いて見せつつ説明する。

「最初、自分らは曲がりくねりつつも南西へ向かって下っておりましたが、途中からはずっと緩やかに上がっておりました。おそらくは外が近いものと」

 歩いてるだけで方角や高低差というか深度というかを知るなど僕にはできない事だ。

 僕は素直にその情報を受け入れる。疑いの余地など、今まで一緒に探索した時間の中でとっくに消えていた。

「わかった。では、前進して、穴がどこにつながっているかを確かめる。本隊の近くだと面倒がなくていいな。では、出発!」

 号令を発すると、僕らの話の間に足を止めていた兵達が再び歩み始める。

 しばらく進むと、その行く先が仄かに明るくなっているのが見え、そこに来て初めて僕は地下とは違った空気の匂いを感じた。

 外には代わり映えのしない荒野が広がっているのだろうが、それが何であれゴールが見えると急ぎたくなるのは人の性か、兵達の足が若干早まる。

 僕も彼らに歩調を合わせ、最後の何十mかを歩ききった。

 ついに光溢れる出口を覗ける位置へと至る。

 地下の暗さに慣れた目を刺す光に目を眩まされるのも一瞬の事。目が慣れれば、外の風景が……

「緑?」

 わずかに間を置いた後に目へ飛び込んできたのは出口の外一面の緑だった。

 南洋の熱い日差しと空気は変わらない。

 地面は草と苔に覆われ、視界は蔦や枝で絡み合った無数の木々に塞がれている。

 どう見てもそれは密林というものだった。

「島にこんな場所はなかった」

 岩と穴だらけのあの島に、こんな密林は存在しない。それは確かだった。

「そうか、地下で別の島につながっていたのか」

 口からそんな独り言を漏らしつつ、僕の目は周囲を探っていた。

 久々に見る緑。

 体に不足している野菜の事を思い起こさせる。

 故郷の野山で採った山菜の事なんかが走馬灯のように……

 が、さすがにそこで理性が僕を止めた。

 ここは南洋の密林だ。僕の知ってる野草などありはしない。

 気づけば、飢えた目で密林を睨んでいる兵が幾人もいた。僕もあれの一員だったのだろう。

 頼りになる中島曹長はと見ると、彼は警戒した目を密林に向けていた。

 ああ、そうだ。ここは見知らぬ場所だ。戦場や、米軍の占領地である可能性もある。警戒しなければならない。

 それにやることもある。

「中島曹長。4人選別しろ。伝令を出す。2名は後方待機の小隊へ向かい、案内して連れてこさせろ。残る2名は本隊へ報告」

 そこまで言って僕は、腰から軍刀を抜いて穴の外へ出ると、適当な草を切り採って戻った。

「これを証拠として持たせて『地下を抜けた先に密林を発見』と報告させろ。必要なら、道案内を務めるように」

「わかりました。道に通じる者を選んで送ります」

 と、中島曹長は傍らの山谷上等兵を見やる。そして、その他に兵三人を指名。

 山谷上等兵が先頭に立って穴を戻っていったのを見送り、僕は次に移る。

「他の兵は、穴の出口……入り口か? ともかく、穴の中から外を監視できる位置で陣地構築!」

 命令の下、兵達は円匙を取り出すと塹壕を掘り始めた。

 塹壕掘りは軍隊の仕事の基本。兵達は慣れている。とはいえ、土と岩が混じり合った地盤なのはここも変わらない。さっそく岩に苦戦していた。

 見たところ、穴を出てすぐに地質は変わっているようで、外はいかにも掘りやすそうな土だが、敵に発見される危険を冒して外に築城は出来ない

 穴の中ゆえに横幅は狭く、ほとんど縦穴を掘るだけだが、それは一度に作業できる人数が少ない事を意味している。なので数人が並んで穴を我武者羅に掘り、疲れたらすぐに交代して、途切れなく掘り続けていく。

 小一時間も過ぎたか。穴を横切るように深さ80cmほどの塹壕ができ、掘り出した土はその前に50cmほどの高さで積まれて壁となった。手榴弾を投げ込まれた時用の穴も掘られている。

 手慣れた作業で、防御陣地の構築完了。

 と、穴の奥から足音が聞こえてくる。

 やや待てば、穴の奥からは呼び寄せた僕の指揮下の小隊が姿を現した。

「隊長。お手柄だと聞きましたよ」

 先頭に立つ水橋少尉。僕の副官。他の兵達より頭一つ分は低い小柄な体躯に、少し丈の合わない軍服。軍人らしからぬ、おかっぱ頭。あどけない少女の如き柔らかな顔に笑みをのせて僕に言う。

「ご飯。食べられるんじゃないかって、伝令の兵が」

「あまり、期待を煽るべきじゃないな。仕方ないとはいえ」

 僕は顔をしかめた。

 半ば、飢餓状態に陥りつつあったのだから、予想外の出来事に大きな期待を抱くのは仕方ない。しかしだ。

 確かに外には草木の緑がある。そこから食糧が得られるかどうかは別の問題だ。

 とはいえ、自分だって期待を抑え切れていないのだから、自分を棚に上げるというまんまの事をやらかしている自覚には、恥じ入るものがある。

 言いにくい思いをしていると、水橋少尉は僕から目線を外してその後ろ、穴の外を目を細めながら眺めた。

「……緑を見るのは久しぶりで、眩しいですねぇ。これだけでも、自分には大尉のお手柄と思います」

 話題をそらし、そして僕を立ててくれる。気の利きようには、ぐうの音も出ない。

 水橋少尉も、僕と同じく速成少尉らしい。軍の事については僕よりも知らない事が多いが、人を手のひらで転がすことには長けていた。

 この二ヵ月で必要な事を教えた後では、指揮所で指揮を執る将校として、僕よりも活躍してくれている。

 少尉殿に全ておっ被せて、大尉殿はふらふら遊び歩いて、まるで紐だ。紐将校だ。

 でもまあ、水橋少尉になら紐にさせてもらうのも悪くない。そんな風に思わせる妙な魅力が水橋少尉にはある。

「水橋少尉。ご苦労様です」

 中島曹長が口を挟んだ。その目は、僕の事を子供のようにあやすなとでも言いたげだ。

 言いたいことはわかる。大尉という階級にある者が、前線で得た手柄で無邪気に喜んでいるのは間違っている。

 そんなのは前線指揮官である少尉辺りに任せておいて、大尉なら後ろでその手柄を褒めたたえるのが正しい立場という奴だ。

 大尉が前線を駆け回って、後方にい少尉に褒められているのでは逆ではないか。

 場を流すため、僕は中島曹長の目は見なかったことにして、水橋少尉に命令を伝える。

「水橋少尉と残置の兵はこの位置より後方、入口から射線の通らぬ位置で待機。塹壕には見張りの兵を配置せよ。敵が来たら息をひそめる事。交戦は敵が穴に踏み入ってくるまで厳に禁ずる」

 本来、前線を歩くのは僕の仕事ではない。わかっているがやめられない。

「中島曹長。一個分隊と共に続け。偵察へ向かう」

 僕の命令に、頼りになる中島曹長は文句も言わずに返す。

「了解しました。兵を揃え、大尉殿に続きます」

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