曾爺ちゃん「その島は随分、広いようだったな」

 穴から外に出る。振り返り、改めてじっくりと見れば、出てきた穴は地面から生えた二階建ての家くらいの大きさの岩に口を開けていた。

 岩は苔生し蔦が絡み、岩の白みと丸い形からして、黴た饅頭によく似た感じだ。

 蔦を移植して穴を隠せば偽装は完璧かもしれない。

 外から穴を覗き込んでも暗い中の様子はよくわからず、そうと知りながら見れば塹壕と兵の姿が朧に見える程度。外を米兵が歩いても、わざわざ穴に入ろうとしなければ、存在が露呈することはあるまい。

 一応の安堵をして、改めて周囲を見回す。

 と言っても、穴のある岩の周囲は密林となっており、見渡すと言っても木々の他は見えない。

 木々の密度は低くく密と言うより点在とも言うべき有様だが一本一本が相当に太い。その断面は四畳半くらいありそうだ。

 そんな柱のような木が、まるで天を支える柱の様に立ち並んでいる。幹の途中に枝はないが、頭上高く枝葉が緑の天井となって空を覆い隠していた。

「木を登ってみよう。誰か、志願を」

 引き連れる中島曹長と一個分隊十二名の兵。その中から一人の新兵が一歩前に出る。角ばった顔の生真面目さを感じさせる醜男だ。

「自分が行きます」

「よし行け」

 命令を下すや、新兵は手近な巨木に手をかけ、するすると登り始めた。

 木の表面は凹凸が多く、蔦も絡んでいて、手掛かりには事欠かない。登りやすいのだろう、新兵の姿はどんどん上へと進んでいき、やがて天井の様に生い茂る葉の中へと入っていき見えなくなった。

 兵、下士官、将校関係なく皆で固唾をのんで待つ事しばらく。

 登っていた新兵が降りてきて、安堵の空気が流れる。

 降りてきた新兵は、木からまっすぐに僕の前へと走りくると、敬礼一つして大きな声で報告した。

「大尉殿に報告いたします! 北東に海岸線。都市および艦船の姿無し! 他は全て見渡す限り森であります!」

「北東と言えば、本隊のいる島の方角か。やはり、海を挟んだ別の島という事だろうな」

 北東が海と聞いて納得する。やはり、地下を通って別の島に出た様だ。

「大尉。ここが島の南西という事は、ここはパラオである可能性はありませんか?」

 中島曹長が険しい顔で問う。

「もしそうなら、友軍と合流し、その戦列に加わることも……」

「それはないよ。距離が合わない。徒歩でだいぶ移動したけど、パラオ諸島の何処かに辿り着くほどじゃあないはずだ」

 僕は中島曹長に否と伝える。ここは別の島だ。

「植生も違うなぁ。こんな木は、パラオには生えていなかった。南洋に詳しいわけじゃないけど、パラオには一時居たからね」

 こんなとんでもない巨木もパラオにはない。それも、ここがパラオではないことを示している。

「そう……ですか。米軍と一戦出来るかと思いました。残念です」

 珍しく落胆を見せた中島曹長。

 わからなくもない。戦う覚悟で島に来て、そしてその覚悟は宙ぶらりんのままなのだ。

「敢闘精神は汲み取ろう。気を落とすな。さて、これより周辺の偵察を開始する。目的は、この島の出入り口である穴の安全確保だ。全員、着剣、弾込め。発砲は命令あるまで厳に禁ずる」

 指示を出した後、僕も九四式拳銃に弾倉を装填した。指揮官の武器はこれと三式軍刀だけ。小銃が無いのは心細いが仕方ない。そもそも前線に立つ階級じゃないのだ。

 兵達も各々が九九式小銃に弾倉をはめ込み、銃剣をその先に取り付ける。

 わずかな時間、ガチャガチャと音を立てていたが、やがて全員が武装を終えて整列した。

「出発! 周辺警戒を厳に。音は極力立てるな。むしろ、どんな小さな音も聞き逃すな」

 僕は命令を下す。そして、僕と指揮下の兵隊達は、粛々と密林の中へと踏み入っていく。

 南洋の熱気に蒸しあげられた草木の匂いが僕らを包み込む。足元には逃げていく虫共の気配。遠く聞こえるのは姿も知らぬ獣の鳴き声。

 僕らは無言。

 頭上を木々の葉に遮られて光の届かない地上は、それでも数多の植物が茂りはしているものの、進むも困難といった態ではない。

 柔らかな腐葉土、道塞ぐは朽ちた倒木、それらを覆いつくす様な苔や羊歯、僅かな木漏れ日の下に育つ若木、日陰でも育つ種であろう灌木の茂み。

 歩くに不自由はないが、かといって視界が開けてるわけでもない。

 巨木の幹と、その合間に茂る植物が視界を埋めてしまう。

 元来た道も容易に見失う。遠く離れるつもりはないが、迷ってしまう危険は常に認識していなければならない。

 それでも、少なくとも僕は、そんな環境を楽しんでいた。何せ二ヵ月もの間、土と岩しかない穴の中を歩き続けていたのだ。緑色が何とも新鮮に見えてくる。

 ともすれば、自然の緑の方へと向かってしまう注意を、なるべく周辺警戒へと向けた。

 銃声砲声無し。航空機の音無し。

 少なくともこの近辺は戦場ではないようだ。日本軍がここらの島にいるという情報を聞いた事もないのだから、当然かもしれない。戦闘には敵と味方が必要だ。

 米軍の基地の存在を疑うべきだろうか?

 僕らは防衛のために孤島に基地を作った。だが、侵攻する側に立つ米軍が、こんな密林に基地を作るものか?

 おそらく、米軍はマリアナ諸島に基地を。航空機も艦船もそこからパラオ諸島に直行できる。中継基地は必要ない。

 地続きではないのだから、歩兵部隊や戦車部隊なんかの中継基地はあり得ない。

 楽観のしすぎか?

 ああ、それにしても緑が濃い。

 その時、視界の端で中島曹長が足を止めた。彼のその眼は、前方の藪を睨んでいる。

「どうした?」

 僕が問うと、中島曹長はスッと腕を上げて藪の一角を指さす。

「野ブタです。こっちを見ている」

 指す所、藪の少し高い辺り、そこに豚の顔があった。

 豚に詳しいわけじゃないが、中々大きく思える。真っ黒で、何処かふてぶてしく見える顔をしているが、間違いなくそれは豚だった。

「豚……」

 豚。肉。食い物。

 そんな感じの連想を誰もが抱いたのではないだろうか、兵の何人かが銃を野ブタに向ける。そして、僕を窺った。

 発砲は禁じている。

 しかし、肉だ。

 僕は迷う。

 米軍はいない。大丈夫だ。そんな楽観が囁く。撃って肉を得よう。

「……待て。撃つな」

 迷いを振り切る。

 安全は確認されていない。軽挙は許されない。

 いずれ撃つ機会はある。肉を食う機会がある。今じゃないだけだ。

 自分に言い聞かせた。

 僕の命令に、兵達は銃を僅かに下す。銃口を野ブタから外す。

 その時、闘志というものがあるとするなら、それが削がれたのだろう。野ブタに確かに向けられた殺意。それが薄まった。それを、油断や怯えとでもとったのか?

 直後、野ブタが咆哮あげ、茂みから飛び出してきた。

 大きい、影。

 その程度、認識するのがやっと。その間に、野ブタは僕達目掛けて突進してくる。

 撃つなと命じた直後。兵達も迎撃態勢は取れず、かくいう僕も野ブタが迫りくるのを見守るだけだった。

「来いやぁあああああっ!」

 中島曹長。彼は、彼だけは、この状況で動いた。彼が野ブタに駆け寄り、真正面から銃剣を突き出す。

 銃剣は確かに野ブタの体に当たった。

 しかし、その重量からくる突進力を押さえる事など出来ず、中島曹長は弾かれて僅かに宙を舞った後に地面に叩きつけられてゴロゴロと転がる。

 野ブタはと見れば、そこから少し進んだところで足をもつれさせるようにして止まり、腹に刺さった銃剣がつけた傷を見下ろし、手でその傷を押さえ……

 足がもつれる? 見下ろす? 手? ブタが? ブタに?

 疑問が浮かぶ。が、その疑問を検証している場合ではない。

 中島曹長も気にかかるが、助け起こしに行く場合でもない。

 今は、敵が見せた隙を叩く時だ。

「構え、撃ぇ!」

 一声。そして、率先して僕が九四式拳銃を構え撃つ。

 細かい狙いなどつけない。その巨体の何処かに当たればいいと大雑把に。

 着弾。野ブタの体に小さな血煙を発する。

 自動拳銃故に、そのまま引き金を引き、連続して弾を撃ち込む。

 銃声は音高く響き、その後を追って九九式小銃が高らかにコーラスを響かせた。

 残響が密林に染み入るように消えていく中、体から血煙を発した野ブタは、声を上げる事もなくその場に倒れ伏せる。

 僕はその姿を見ながら、撃ち尽くした弾倉を取り換えた。

 兵はと見れば、四名ほどが銃を構えている。三名が古兵、一名が新兵。

 その新兵は、先ほど木に登ってくれた男だ。名は確か……

「金田二等兵。慣れてるのか?」

「え? あ、はい。故郷では村田銃でありました!」

 狩猟経験者か。その態度はかなり落ち着いている。他の新兵が、この状況で棒立ちだったのに比べるべくもなく、たいしたものだ。

 古兵は反撃した者以外の残り三名はさっさと逃げていた。

 そんなだから生き残れて、そしてこんな島に送られたのだろうなと。

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