曾爺ちゃん「曾爺ちゃんも蟹は好きだけど、あの時の蟹はおっかなかったわ」

「銃だけは忘れるな! 森の奥へ走る!」

 慌てて釣り紐を投げだす兵達に注意と命令を下す。

 焦って銃を拾う者あり。しっかり背嚢まで背負う者あり。

 ともかく、命令から若干の間はあれど、全員が従って走り出す。

 巨大蟹は、逃げ出す僕らを見てか、その巨体に似合わぬ速さで横走りに走り出した。

 最初の出現位置から僕らの場所まで距離はあったが、それは瞬く間に縮められていく。

「散らばるな。続け!」

 僕は森の巨木の際を走り抜けた。張り出す根に躓かぬよう、苔を踏んで滑らぬよう、それでいて決して速度は落とさぬよう。

 兵達は見事にこれについてきた。狩猟経験者を集めただけあって森で走り回るのは慣れている様で安心する。

 いや、兵達は僕を追い越して逃げたりはしないだろうから、むしろ僕が兵達の足を引っ張る事を恐れるべきだろう。

 さて、後続の巨大蟹はどうか。

 あの巨体では機敏な動きなど出来まい。あわよくば衝突も。そう期待しての事だった。

 果たして巨大蟹は僅かに足を緩める。だが、それだけだ。安全な速度まで足を緩めて木を避け、すぐに速度を増して追走してくる。

 森の中では巨体を持て余すだろうと考えたのは間違いだった。

 海生動物ならば海から離れれば戻らざるをえまいという考えも、どうやら外れだったらしい。それなりに森深く走り入ったはずだが、巨大蟹に帰る様子はない。

 小回りはこっちが勝つが、足の速さと、おそらく体力は巨大蟹が勝つだろう。

 遠からず、僕らはあの鋏の攻撃範囲に捉えられる。

 仕方ない。

 決断し、僕は腰から九四式拳銃を抜いて、若干苦心しつつ走りながら弾倉を押し込んだ。

「発砲許可! 用意出来次第、足を止めずに撃て! 後続を撃つなよ!」

 先鞭をつける為、僕は拳銃を後ろに向けて狙いもそこそこに引き金を引く。巨大蟹の大きさ故に、斜め上を狙ってやれば後続の味方を撃つ事もない。

 響く発砲音。

 無理な姿勢で撃った銃は、撃つごとに銃身が跳ねる。

 命中には期待ができない。だが、これは兵達へ射撃を促す号砲みたいなものだ。

 命令を聞いた兵達は、走りながら九九式小銃を操作。各々が思うままに後ろへ発砲する。

 振り返り見たわけではない。兵達がそれをした音だけを聞く。

 横並びに走っていた中島曹長が、左腋に挟むようにして銃身を支え、背後に銃を放ったのだけは確認した。

 中島曹長はチラリと背後を見やり、なんて事もない調子で話す。

「殻は貫きました。が、効きませんな」

 僕も後ろの巨大蟹を見る。奴はまだまだ元気だった。

 そもそも背面撃ちではまともに当たった弾も少ないのだろうが、それでもいくらかは当たっている。体の各所で甲殻に罅割れが出来ていた。

「奴さん、体が単純でしかも図体がでかいから、小さな弾が少々食い込んだところで死にはしないんだろう」

 人間を効率よく殺傷するための銃だから、人間以上の規格の生き物には分が悪い。

 ある種の動物の頑強さは、人間を上回るものだ。この巨大蟹もその内に含まれる。ただそれだけの事。

「虫けらはしぶといというわけですか」

 納得した様に中島曹長が頷く。そして、少し声色を固くして続けた。

「米軍ならまだしも蟹相手では望む所とは言い難いですが、自分が残って遅滞戦闘を行いますか? 隊を逃す時間くらいは稼いで御覧に入れます」

「いや、それには及ばない。こうなったら、毒を食らわばだ」

 鞄を探り、それを取り出す。

 九九式手榴弾。

 装備の使用が制限されている今、奥の手という奴だ。

「大尉殿、自分が」

「全員、速度上げ! 中島曹長に続き、僕を追い越す勢いで走れ!」

 中島曹長が手榴弾を受け取ろうと手を伸ばしたのを遮るように命令をぶつける。

「中島曹長、先頭を行け! 後も見ずに走れ! 撤退だ!」

 これから僕がする事が危険な試みだと察しているだろう中島曹長は、僕の命令にわずかに逡巡する。だが、自分が行かねば兵がついていかないと察したのだろう。すぐに命令に従って走る速度を増した。

 僕は逆に速度を落とす。

 兵達が僕の両脇を駆け抜けていく。それで良い。

 九九式手榴弾。こいつの遅延時間は四秒。殺傷半径が5メートル、もちろんその範囲の外は無害というわけでもないのだから余裕は欲しい。

 巨大蟹との距離は……近い。ガサガサという足音が間近に聞こえる。

 僕は進行方向に木を探す。木の傍は、奴も速度を落とす。幸いここで木に事欠くことはない。

 僕は一本の巨木を目指して走りつつ、九九式手榴弾の蓋を取って引索と輪を出し、輪を右手小指にはめる。ここまでは訓練通り。

 本来ならそのまま投げるものを、僕は手榴弾を左手に持って引索だけを引いた。

「四」

 数え。そして手榴弾を巨木の根本に落とす。

「三」

 大地に張り出す巨木の根を跨ぎ越える。

「二」

 走る。

「一」

 跳躍し、大地に身を投げ出し──


 零


 轟く爆発音。背を爆風が越えていく。燃えた火薬の臭い。

 痛みはない。いや、打ち付けた腹が少々痛い。それ以上痛い所はない。ならば手榴弾の爆発からは無傷だ。

 蟹はどうなった?

 音にやられ、キンと耳鳴りを発し、音でそれを探ることは出来ない。

 僕は身を起こし、後ろを振り返る。

 巨木の根元、そこに巨大蟹はいた。

 腹の辺りを黒焦げにして、腹に無数の罅割れをこさえて、静かに身を震わせている。

 口からあふれる泡。その両脇にある目が、確かに僕を見たように感じた。

 巨大蟹は再び動き出す――

「――撃てぃ!」

 中島曹長の声。そして銃声。同時に巨大蟹の顔が砕ける。

 巨大蟹はビクリと大きく身を震わせ、さしもの奴も耐えかねたか、ついに足を折ってそこに頽れた。

 僅かな時間、注視する。しかし、動き出す様子は無い。

 死んだ。

 確信した僕が身を起こしてみると、僕より僅かに離れた場所に兵達が銃列を敷いているのが見えた。その一斉射撃が、とどめをさしたのか。

 それを指揮したのは中島曹長だろう。僕の指示に従った上で、僕が仕留め損ない、とどめの必要に備える為に兵を指揮したか。

「支援感謝する」

 言うと、中島曹長は重々しく頭を下げた。

「いえ、撤退命令を無視し、勝手な事をしました。罰は受けます」

「緊急時だが……そうだな」

 感謝はしていてもこれは軍での事。部下に自由な指揮を任せれば、指揮系統の混乱を招く。

 兵達に、今のは中島曹長の独断専行であり誤りであると示す、言ってしまえば一芝居が必要だろう。

 だからといって、無為に罰則を重くするのは愚かだ。

 僕が有用な指揮を執れない時など、この先に幾らもあるだろう。

 罰則覚悟で気を回してくれる部下は必要だ。

「罰として、残置装備回収の統率を命じる」

 巨大蟹の襲撃は急であった為、装備の一部を残してきてしまった兵がいたのは仕方ない。

 さすがに小銃は全員が持ってるものの、背嚢や、銃剣を使った槍などまで持ってこられたのは部隊の半数ほどだ。

「各兵の装備を確認の後、装備を残置して来た者を率いて戻り、可能な範囲で回収せよ。ただし、巨大蟹との再戦を避けるよう厳命する。また、猶予となる時間も短い。故に、回収不能と判断した場合には、状況の報告だけでいい」

「了解であります。直ちに、兵を率いて向かいます」

 言葉過たず直ちに取りかかる中島曹長。

 一方で僕は、残る兵達に指示を下す。

「残りの兵はアレを解体せよ。足ぐらいは持って帰るぞ」

 無論、巨大蟹の事だ。胴体は真下から浴びた爆風と正面から浴びた一斉射撃にボロボロになっていたが、その巨大な足は形を保っていた。

 残された兵達が鉈をふるって、巨大蟹を解体していく。

 甲殻は分厚く堅く、手持ちの鉈など刃を通さないので、比較するに甲殻の薄い関節から壊していく。それでも苦戦は免れない。

「森本大尉殿。こいつを見てください。砕けてはいますが、随分と分厚い殻です」

 切り落とした足の一部、弾痕顕わに砕けた場所を示して金田二等兵が僕を呼ぶ。

 甲殻の厚さは2センチばかり。そこに当たった銃弾は甲殻を貫通はしていた。

 金田二等兵は甲殻の亀裂に、銃から外した銃剣をねじ込み、銃弾を穿り出す。

 その作業を眺めつつ僕は呟く。

「潰れた銃弾は、入った側の反対側に位置する。殻を抜き、肉は貫通して、再びの殻で止まったか」

 如何に堅く強靭とはいえど、装甲と言えるほどではない。

 おそらくは想像の通り、巨体と、体の単純さから、小さな銃弾では致命傷を与える事が出来なかったのだろう。

 それ以外の所見としては……

「それにしても、美味そうな肉をしてるな」

 白く半透明な肉が、堅い殻の中にみっしりと詰まっている。それはいかにも美味そうに思えた。

 毒じゃなければいいのだが。

 しかし、毒というのは狩猟や護身の手段の筈で、これほどまでに巨大で強い蟹にそんな能力が必要とも思えない。毒虫がいても、毒象はいないという理屈だ。

 食えるならいい食料となるだろう。爪や足だけでも、肉は相当な量だ。

「今日は蟹入りの塩汁ですかねぇ。大尉殿」

 金田二等兵は笑い。他の兵達も表情を緩めた。

 うん、食い物の話が出来るのは幸福な事だ。少し前は、そんな事さえも出来なかったのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る