■現代 蟹を食う
北海道と言えば蟹。
この街は陸の真ん中で海は無く、当然の様に蟹には縁が無いのだが、産地が遠いというわけでもないので何やかやで食べる機会が年に何度かくらいはある。
その日の夕食の御馳走にも、一人に一匹ずつの蟹が配られていた。
敷居の襖が取り外され、仏間と居間は一つにつながって大きな部屋にされている。
そこにテーブルが幾つか並べられ、親戚一同、皆での食事だ。
少年の前、テーブルの上、カレーライスでも盛る様な大きな平たい丸い皿に、どんと一匹、蟹が乗っていた。
タラバやズワイではなく毛蟹という奴で、全身をチクチクしたトゲと毛に覆われている。
こいつを各々がキッチン鋏で解体し、箸先で身を穿って食べるのだ。頭の中には蟹味噌がたっぷり詰まっていて、非常に味わい深い。
指にチクチク刺さる殻をしっかり掴まえながら鋏で切り裂き、こじ開けた隙間から純白の身を穿り出す。口に入れた時の旨味!
少年は、生まれてこの方ないほどの集中力で蟹に立ち向かっていた。
「坊、美味いか?」
少年のあまりの真剣さに目を留め、隣に並んで座っていた曾祖父が問う。
「んー」
少年は唸る事で、肯定とも否定とも取れない返事を返した。
いや、その全身を見れば美味さに大興奮しているのは一目瞭然。唸ったのは、肯定と、その至福の一時を邪魔してくれるなと言う抗議を混ぜ込んだからかもしれない。
曾祖父は満足げに頷き、言った。
「長万部のおじさんが買ってきてくれた奴だからなぁ。あそこのは美味いぞ」
「んふー」
少年の返事はほとんど変わらない。
今は、足の付け根の所から身を穿って皿の上に貯めている。一口でたっぷり頬張って、口の中いっぱいに蟹の味を楽しむつもりなのだろう。
取り出した蟹の肉に、蟹味噌を少し混ぜて、一遍に口に入れる。
──美味い。ひたすらに美味かった。
何がどう美味いのか、表す語彙など少年には無い。
ただ、曾祖父もこんな感じだったのかなと、ふと思った。
「小屋くらいある蟹かぁ」
恍惚といった態で少年は声を漏らす。
「これくらい美味しいなら食べてみたいな」
一口分なんて言わず、もっと山盛りにして掻き込むのだ。
一口でこれだけ幸せなら、もっと有ったらどれだけ幸せだろう。
「あー……そうだな。あいつは味は良かったな。毛蟹とは違ったけども」
曾祖父は、かつて味わった味覚を思い出そうと宙を睨む。
美味かった。美味かった記憶はある。
毛蟹と違うなと思った記憶もある。あれは、日本に帰ってからの事か。
「どんな味だったかは……覚えてないなぁ」
若かったあの頃の味を思い出す事はかなわない。それは仕方のない事だとは言え、寂しさを覚えてしまう。
今、あの蟹を少年と一緒に食べたなら、自分は何を思うのだろう?
そんな事を考えながら曾祖父は自分の蟹に鋏を入れた。その殻は、かつての南洋の島で戦った蟹のそれと比べるべくもないほど容易くその刃を受け入れる。
南洋の森の中を走る巨大な蟹が不思議と懐かしく思えた。
伝手を頼って、少し探してみようか?
いや、遠い国の物でも日本で買える時代だ。もしかしたら、意外に買えるかもしれない。
そんな想像は、少しばかり寂しくなった気分を盛り上げてくれる。
「そうだ、坊。お前の母さん、こないだアマだか何だか言うので買い物したって。買えない物は無いんだって言うから、一つ頼んで南洋の蟹を買ってもらうか?」
通販サイトの事かな? と、思いつつ、蟹の頭の殻をスプーンで掻いて蟹味噌を最後の最後まで食べ尽くそうと努力していた少年は答える。
「……売ってないと思うなぁ」
いくらなんでも小屋くらいある巨大蟹は売ってない。売っていたら欲しいけど、絶対に売っていない。
「そうかー。でかくて凶暴だもんなぁ」
曾祖父はそれほど残念そうにはせず、何処か楽しげに思考を巡らせながら、新たに蟹の爪を割って中の身を穿り出すのだった。
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