▼密林の中 敗軍
密林の木々の合間をゴブリンの軍勢が森を歩いていく。
その顔には恐怖が貼りつき、彼らが敗北した事を雄弁に語っていた。
隊列の中程、木で組まれ獣骨で飾られゴブリンに担がれた輿に乗る者、ゴブリン王カカメアは腕の傷に薬草を押し当てながら苦い顔をしている。
と、カカメアのその顔がスッと上げられ、樹上を睨みつけた。
わずかに逡巡し、しかし意を決するのは早く、古来より伝わる約定の言葉を口にする。
「森に住まう者。クエレブレの糧の絆において!」
「……餌を減らすべからず。森はクエレブレの餌箱なれば」
答えを返し、枝の上に姿を見せたのはイハデスルヌベ・ニエベブリッサ、褐色肌のエルフの少女だった。
約定の言葉により不戦の取り決めが成立したが、油断はせずに吹矢を手に構えている。
だが、地面から石を投げても樹上のエルフには当たらない。カカメアにすれば、故の不戦。
それ以前に、エルフと戦争などという事になればゴブリンが大打撃を食らうのは決まっていることなので、賢い頭があるなら不戦を選ぶのは当然なのだが。
ゴブリンはそう賢くはないのが多い。しかし、カカメアは賢い。
「シャナが何の用だ?」
ニエベブリッサの装束からその役割を察し、カカメアは不機嫌に問う。
それに返ったのは、答えではなく、呆れと侮蔑交じりの問いだった。
「方角。軍勢。その様子。聖地に入ったの? 愚かな事をしたものね」
「呪いが消えた兆しがあった!」
苛立ちを露わに吠える。
「まさか?」
ニエベブリッサの顔が驚きのそれに代わるのを見て、カカメアはやり返してやったとばかりに小さく笑った。
「シャナよ。森を知る者よ。知らなかったようだな。ゴブリンは知っていたぞ?」
「教えて。何が起こっているの?」
「自ら探ればいい」
そっけなく言ってやり、それでエルフの僅かに悔しそうな顔を拝んだ事で、カカメアは少し留飲を下げた。
とはいえ、教えるも何もわかっていない事の方が多いのが正直なところだ。
きっかけは、配下が殺された事。
まあ、それはどうでもいい事でもある。
ゴブリンなど森の獣どもにとって餌でしかない。不運にもオークに襲われる事もある。考えなしにエルフにちょっかいをかけて殺されるような馬鹿は死んでくれた方が助かる。
ただ、話を聞いて、奴らかもしれないと考えた。
幾つもの群れが滅ぼされているのだという。生き残りが逃げ込んできて話は伝わって来ていた。だとすれば見過ごせない。
先制して打ち倒すべく、すぐに追っ手を差し向け、その足取りを追わせた。
幸い、襲った連中に何かあったらしく、騒がしく慌ただしい移動を追うのは難しくなかったようだ。普段から満足な仕事など期待も出来ないゴブリンにしては完璧な仕事だった。
結果からすれば、失敗していてくれればと思わなくもないが。
再び喉元にせりあがってきた苛立ちをままに、傷に押し当てていた薬草をのけてその傷をニエベブリッサに見せつける。
肉を千切られたように開く傷を。
聖地から離れた場所で高みの見物をしていたカカメアと、その周囲にいた王の精鋭たるゴブリン達に襲い掛かった恐ろしい攻撃の痕を。
聖地に踏み込んだゴブリンを一匹とて返さなかった者どもの存在の証を。
そして傷の痛みに負けじと吠える。
「シャナよ絶望しろ! 聖地は! より恐ろしい者どもに奪われたぞ!」
そうだ、あれは恐ろしい。
カカメアは賢い。だから、手を出してはならないものを知る事が出来る。
これから一族を連れて逃げるつもりでいた。それは困難な旅となるだろうが、この地に残るよりはましだ。
だが、エルフ共はどうか? 聖地がある以上、エルフ共は逃げられない。
ざまあみろと。
哄笑を上げるカカメアを前に、ニエベブリッサはカカメアの曝け出す閉じぬ傷から垂れる血を凝視していた。
刀傷でも矢傷でもないその傷が示す敵の姿を見ようとしているのだろう。だが、わかるまい。あのようなものと同じものはこの森にはないのだから。
見て浴びて生き延びた故にゴブリンの矮小な脳が知るそれを、森の全てを知るとのたまうエルフ共は知らない。
案の定、わからなかったのだろう。
苦悩して小さく首を横に振るニエベブリッサの姿に、カカメアは優越と愉悦を感じる。
この地を去る前に面白いものが見られた。旅の無聊の慰みになるだろう。
「さらばだシャナよ。クエレブレの贄よ。語るべきは少ない。我らは行く」
興に腰掛け直し、カカメアは別れ言葉に古い古い挨拶を付け加えた。
「願わくば滅びの吐息を避ける幸運を。いずれクエレブレの胃の腑に至る日までは」
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