曾爺ちゃん「あの時、食べた豚が、一番美味しかったなー」
「誰か!?」
穴の入り口に踏み込むと、その奥から声がかかる。
「森本隊、偵察任務を果たし、帰還した」
「大尉、おかえりなさいませ」
答えれば塹壕の向こうから水橋少尉が顔を見せ、そして僕らが持ち込んだものに気づいて笑顔を驚きの表情に変えた。
「それは……人?」
まあ、ちょっと見ただけではそう見えても仕方ない。ましてや、ここは洞窟の入り口。当然、光は僕らの背にある。逆光では影しか見えまい。
「いや、野ブタだよ。襲われたので殺し、食糧となるか試すために持ち込んだ」
言って、野ブタの頭を掴んで、良く見える様に位置を動かす。
外から差し込む光の中に入った豚の頭が、その形をはっきりとわからせる。
「驚いた。随分と変わった豚ですねぇ、お相撲さんに見えましたよ」
言って水橋少尉は笑った。
その笑顔に疲れを癒されるものを感じつつ、僕は兵達に命じる。
「金田二等兵。地下水路で野ブタを解体しろ。他の者は運搬の後に体を洗う事を許可する」
「了解しました!」
野ブタは洞窟の奥深くへと兵たちの手で運び込まれていく。
と、一つ思いついて僕もその後に続いた。
「今日のご飯はお肉が食べられそうですか?」
塹壕を越えてすれ違う時、水橋少尉がランタンを一つ差し出しつつ聞く。受け取りつつ僕は。
「まずは毒見。毒じゃなければ残りをって所かな」
「楽しみですねー」
水橋少尉が夢見る眼差しを宙にさまよわせる。
水橋少尉ほどには乙女めいた仕草ではないが、この塹壕にいる他の兵達も同じく肉に思いを馳せている様だった。
そんな彼らを置いて、僕らは地下へと進む。
やがて、水の流れる音が聞こえてきた。地下水脈が川となって流れているのだ。
その地中の小川は飲料水としてはもちろんの事、特に洗濯や行水の場に重宝されている。流れがあるので、汚水が溜まらないからだ。
僕はランタンを壁のくぼみに置き、地下水路のほとりが淡い光に照らされるようにした。
兵達はその場に野ブタを下ろし、直後に慌てて服を脱ぎながら水に飛び込んでいき、水の冷たさに悲鳴を上げる。
中島曹長はその騒ぎに関心を寄せることなく、たき火の準備を始めていた。外から持ち込んだ、よく乾いた流木を何本か組み合わせて積み上げ、木屑を置いて火打石を叩く。
運搬に携わっていなかった金田二等兵は、ここからが自分の役目だとばかり、私物らしき短刀を研ぎ始めた。
「森本大尉殿」
と、声をかけたのは水浴していた兵の一人。水の冷たさに少し震えながらの具申だった。
「どうした? 虫は落ちたか?」
「はい。いえ、それが虫の奴ら、皆死んでまして」
虫が死んでいた?
兵は振り返り、水浴していた仲間を見る。首をかしげる者、頷く者、色々。
だが、首をかしげていた兵の一人が答える。
「虫がいつ死んだかは知りませんが、川で流した時には皆死んでおりました」
「水に毒気があるということか?」
僕が問い返すと、この場にいた兵達がギョッとした目で僕を見た。水に毒があるとなれば、漬け込んだのブタなど食えないし、だいたい今までそこの川の水は飲料としてたっぷり飲んでいる。
「いえ、どうも水に入る前には死んでいたらしく。自分は潰してやろうと洞窟を移動中に手探りで何匹か抓んだのでありますが、その時には」
それでは水は関係ない?
「うーむ、豚の血以外は受け付けない虫だったか?」
そんな事あるのだろうか? 昆虫学者ではないからわからないな。
「何にせよ水には問題なしならそれでいい。虫に悩まされないのも好都合だ」
ことが寄生虫。部隊全部に蔓延する事の面倒さを考えると、勝手に死んでくれるなら都合がいい。兵達もそれで納得したようだ。
さて、一方の野ブタ。
金田二等兵の指示により、焚火から燃える薪を取って兵達が毛を焼き始めていた。
猪などは湯につけて毛を毟るそうだが、この野ブタは毛が少ないし、何よりこの巨体を漬け込む湯を用意するのが難儀なので火で毛を焼くのだと。
毛を焼く煙は洞窟の天井に流れていき、そこから先の行方は知れない。密閉空間ではないという事だろう。日本兵の燻製等という食えないものを作らずに済むのは僥倖だ。
それが終われば、いよいよ解体だ。
「本当は、獲物を捌く手順というものがあるのですが」
「戦火の下だ。臨機応変にいこう」
金田二等兵が独り言の様に漏らした台詞に僕が返し、返るは了承の声一つ。
「了解であります」
そして金田二等兵の手の刃が手際よく動き、ざっくりと腹を開けて内臓を出し始めた所で僕は命じた。
「胃の中を見せてくれないか?」
「胃、ですか?」
僕の意図がつかめないのだろう。首をかしげながら、金田二等兵は野ブタの胃袋を切り離し、地面に置くと切り開いた。
ふむ……
薪から細枝を一本拝借して、胃からあふれ出した物を観察する。
「芋らしい塊があるな。緑の細片は草。原型がわからないのが残念だ。骨片に毛。虫の殻。雑食だな、この野ブタ」
「なかなか大食らいのようで。それで何かわかりますか?」
中島曹長が覗き込んで問うのに僕は答えた。
「芋っぽいのが量が多い。おそらくこれが主食だな」
胃の中にあるものは当然、元は食物だ。豚が食えるなら、人間が食えてもおかしくはない。
察したのだろう中島曹長が頷く。
「次の偵察の時に探してみますか」
「そうだなぁ」
食糧確保が必要だ。野ブタ一匹で喜んではいられない。
植物性の食糧も有りそうだというのは朗報だった。
さて……と。
「……金田二等兵。適当に一切れくれないか?」
「森本大尉……」
責めるような目で僕をねめつけたのは中島曹長だ。
言いたい事はわかっている。そして、彼が正しい。
万が一、この肉が毒で、将校が失われては取り返しがつかない。毒見なら兵にやらせるべきだ。失われても被害が小さい者から危険にさらすべきだ。
わかっている。それでもだ。
「食えると言ったのは僕だ。示しをつけないとな。金田二等兵。肉を」
「は、はい……」
僕と中島曹長の対立に戸惑っていた金田二等兵に強く要求する。
彼は僅かに逡巡し、そして開かれた野ブタの腹の中から肉を一切れ削ぎ取ると、僕に差し出した。
僕は、薪の中から新たに一本、小枝を拾い上げ、肉を受け取るや小枝にさす。
即席の肉串。
そこで、いつ準備していたのか、中島曹長が塩壺を僕に差し出した。
「大尉。一緒に焼きましょうや」
「……そうか。……そうだな」
塩壺を受け取り、中から少し湿り気を帯びた塩を指で穿り取り、肉へと塗り付ける。
その間に中島曹長は僕と同じく、ただ部位は別にして肉を貰い、肉串を作った。
僕は、一足先に肉を炙る。
香ばしい、肉の焼ける匂い。溶け出す脂のパチパチ爆ぜる音。赤から白へと色を変じ、さらに焦げの茶色を帯びる色味。
どれもが酷く久しぶりで、これが毒見だという事は重々承知ながらも、口中に溢れる唾を抑える事が出来ない。
ややあって火中にもう一本、中島曹長の肉串が突っ込まれる。
そしてその頃には、偵察を共に行い、ここにも一緒に来ていた兵達が、その視線を僕らに集めていた。
いやまあ、最近の食糧状態で、この肉の匂いは堪えられまい。
「毒見役志願者は、金田二等兵から肉を受け取れ。二時間ばかり見て、全員が体調不良を覚えなければ、残りの肉を水橋少尉に渡すよう。彼なら、肉を公平に分配してくれる筈だ」
堪えきれない様子の兵達に命令を下す。
と、その場にいた全員が金田二等兵の元に群がった。
……これが毒なら、この分隊は全滅か。それもどうなのか。
良いのかこれで? と、疑問を弄びつつ、良い感じで焼けた肉串を口にする。
――っ。
よく炙られた肉は、サクリと心地よい歯ごたえを残して口の中でほどける。
肉の歯ごたえ、肉の味。ただそれだけだ。それだけなのに美味い。
僕は串に残る肉を一篇に口に入れ、夢中で噛み締めた。
ああ、肉だ。肉の味だ。
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