曾爺ちゃん「……ま、若かったからしょうないさな」
──夢。
僕は教壇に立っていた。
分教場。日差しが満ちて薄ぼんやりとした教室。見覚えがある。
ああ、あれは僕が少年の頃に通った教室だ。
教室には机が一つ。生徒が一人。
女学生が、ニコニコと笑みを浮かべながら僕の授業を聞いている。
おかっぱ頭の柔和な笑顔。温かみを感じる娘。
知っている誰か。でも知らない誰か。
彼女が僕の授業を聞いてくれる。それが嬉しくて、何かを教えようと頑張るのだけど、今まで勉強した事は一つとして出なかった。
言葉に発する事が出来ないまま、僕は教科書を開く。
──それは、教科書ではなかった。いや、ある意味で教科書ではあるが。
それは軍に行く前日、「恋人も許嫁もおらず、かといって女を買うわけでもないお前が、童貞を抱えたまま軍に行くのは哀れだから」と悪友がくれた物だ。
中身は女の体とはどんなものなのかを文と絵と写真で説明してくれる医学書と指南書を兼ねたもので、いわゆる猥褻本とか猟奇本の類で、言うまでもなく検閲対象だ。
そんな物を何処から持ってきたのやら。よりにもよって女学生物だとか悪戯にしても悪意が過ぎるだろう。
僕は感謝の言葉と悪態とを並べて悪友を思いきりぶん殴り、友情を確かめる様に互いに殴り合い、大いに笑い合った後、その日は翌日に備えて早く床に入らせてもらった。
夢ゆえに、その時の情景が教室の風景を塗り替える。その認識すら出来ず、いつしか僕は、懐かしき寝所で布団を被りランプの灯りを頼りに読書にいそしんでいた。
本を読んでいるという事象に対しその内容が頭に入り込んでくるような感覚で内容を理解する。
深窓の令嬢に恋慕した教師の話だ。
思いを募らせど身分の違い故に踏み出せぬ教師は、差出人の無い恋文を送ったり、彼女の登下校を遠くから見守ったりして過ごす。ある暑い夏の日、山道で偶然出会った女学生の汗に濡れ透けたブラウスに血迷った彼は、女学生を道脇の茂みに押し倒して……
その後、ニンフォマニアの気のあった女学生に翻弄されて立場は逆転し、溺れ込んだ彼は破滅へと向かっていく。
心理描写に妙があって意外と普通に面白かった。それでいて、艶めいた描写も決して悪くない。文壇の巨匠が筆名を代えて書いたか、はたまた無名の天才か。
と……本を持つ手に、白い手が添えられた。
柔らかな重み。そして、女性の甘やかな声。
「先生」
本に書かれていた睦み事と同じく、僕の背に身を預けた女学生が、僕の手から本を取り払い、その温かな手を僕の手に重ねて握る。
振り返れば女学生の笑顔が見えて……
「大尉」
──その艶やかな笑みは確かに、
「大尉?」
もう一度呼ばわれ、僕は目を覚ました。
夢の気配は消えていき、現実が僕の脳を満たす。
ランタンに照らし出された暗い洞窟。地面にゴザを敷いただけの寝床。それは、僕らの拠点たる場所だった。
そして、心配そうに僕を覗き込む顔。それは夢の中で見た女学生と同じで……
「水橋少尉。心配を掛けた」
色々と胸中に湧き上がる葛藤を飲み込んで一言。
部下を女に見立てて欲情とは罪な夢をとか、まさか僕に衆道の趣味がとか、そんな事を考えている場合じゃあないと自身に言い聞かせるように。
と、手の中にある暖かみと重さは夢の中のままだった事に気づく。
気付くついでに見れば、僕は水橋少尉の細い手をしっかりと握りしめていたのであった。
ぼんやりと、小さい手だなと思う。直後、まだ夢を見ているのかと怖気立ち、その手を放した。
水橋少尉は僕に握られていた手を胸元に戻し、幼子の悪戯に向けるような困り顔混じりの笑みを僕に向ける。
その笑みに、夢の中の女学生の姿を求めてしまいそうになる自分を恥じて目を逸らした僕に、水橋少尉の声だけが届いた。
「心配しましたよ。毒は抜けましたか?」
「え? ああ……」
手足を動かしてみる。痺れは残っていない。口の中の渋味もまた消え失せていた。
体に残るような毒では無かったのだろう。
「大丈夫だ。僕が倒れてどれだけ経った? その間、問題は無かったか?」
「中島曹長が部隊を掌握して帰還しました。それから一夜が経ちまして、今はもう翌日の正午頃です。今のところ、大きな問題はありません」
「そうか……」
安堵する。僕が不甲斐ないばかりに、部隊に危機を招いたのでは。
いや、ああなった時点でもう部下を危機に追いやっていたのだ。原田少佐に言われた事、何一つ活かせていないとの実感はどうにも情けない。
しかし、ここでそれをぐじぐじと思い悩んだところで意味は無いだろう。
生還したならば、動かなくては。
僕は立ち上がろうとする。
すると、水橋少尉が自然に身を支えてくれた。
その柔らかな体、そして微かに感じる汗の匂いに何故か鼓動が跳ね上がる。
馬鹿め。変な夢を見るからだ。あまりに勘違いが過ぎると、むしり取るぞ我が息子よ。
硬度を増して収まりが悪くなる下半身を内心で叱咤して抑え、立ち上がると出来るだけ自然に水橋少尉から離れた。
「ありがとう。だが、もう大丈夫だ」
「もう少し、休んでいらしても良いのでは? 後の事は、私が」
労ってくれる水橋少尉に感謝したい所だが、責任ある者としてそうはできまい。
「いや、今回の件、報告をして来なければ」
今回の件を一刻も早く報告し、指揮官にあるまじき行いへの裁きを受けなければ。
それで、僕が……あるいは僕の隊が、この密林の探索任務を外されるかもしれない。それは妥当だし、仕方の無い事だ。始めた任務を途中で放棄するのは悔しいが……
僕は、親や教師に叱られに行く子供同然の気分で歩き出そうとする。しかしその時、水橋少尉が深い溜息をつくのが目に入った。
「大尉、原田少佐から通達です。大尉が起き上がって、真っ先に報告に来そうならと」
「なんと?」
もう報告がされていたのか? いや、一日近く経ってるとなればそれくらいされるだろう。では、すでに沙汰は下されているのか……
「森本大尉! 足を開き、歯を食い縛れーっ!」
戸惑う僕に、水橋少尉の鋭い声が投げられる。
訓練中。あるいはその後も、上官に度々やられたアレだ。
条件反射で足を開き、腕を後ろで組み、殴りやすいように顔を突き出して歯を食い縛る。
そこに、水橋少尉の拳が襲い来た。
「な、何を?」
痛くはない。水橋少尉の全力だったように見受けられるが、手加減でもされたのか。
ともかく、痛いかどうかではなく、部下に殴られるという状況がわからない。
水橋少尉は、殴った手の方が痛かったのか、殴った手を自分の手で撫でさすりながら答えた。
「帰還すぐと、早朝に大尉の寝息が落ち着いたのを確認した後の二回、原田少佐には報告済みです。最初は心配されてましたが、二度目の報告時に鉄拳制裁代行の命令を下されました」
「鉄拳制裁の代行など初めて聞く」
「私も初耳ですが、少佐直々の命令でしたので……ともかく、『無事に起き上がったならば良し。他隊の動揺を防ぐため、何事も無かった事とする。反省したら任務を継続せよ』だそうです」
他隊の動揺。中隊長が毒で倒れたとなれば、さすがにそうなるか。
木叢島での食糧採取は、本島の部隊にも期待されているらしい。それがダメになったという認識を与えるかもしれない。
そうなった時、先行きの不安が如何なる影響を及ぼすか。そう考えるならば、死ななければ幸い、無かった事にしろという命令も在りうるのかもしれない。
「しかし、良いのか? 失敗した僕が責任も取らずに……」
「そんな責任の取り方を望まれてはいないのでしょう?」
水橋少尉はそんな僕の反応を見透かしていたようで、少しきつめに言葉を返す。
「他の隊も、やるべき事はありますから。それを中断させて作業を振り分け直す事での混乱を避けられたのでは? それに、食糧事情は逼迫しつつあります。私達にかかる期待は大きい。それが小さな事でも失敗したと聞けば、兵達は動揺もしましょう」
それは僕も考えた事だ。
つまりは今、僕だけが納得いかないと駄々をこねる状況なわけだ。
僕を鉄拳で修正したあげくに一兵卒にでも降格してしまえというのは僕だけが考えていることで、他の誰もそんな責任の取り方は望んでいないと。
「理解はする。納得は難しい」
「大尉。投げ出したいですか? 罰されて失ったと思えば、自分から捨てたと思わずに済みますか?」
言われ、ハッとして水橋少尉を見やる。水橋少尉は目を伏せ、自らの言葉に戸惑いを見せつつも更に言葉をつなぐ。
「失礼しました。大尉がお疲れに思えて」
愚にもつかぬ事をと笑えれば良かった。侮辱するなと怒れれば良かった。
しかし、水橋少尉のその指摘は、僕の胸の中に重い音を立ててはまり込んだ。
そうなのか? そうなのかもしれない。
己が責任を振りかざしながら、それを最も蔑ろにしようとしていたのが自分か。
「……僕は大尉なんて柄じゃないんだ」
同じような事を以前に中島曹長にも言った。しかし、今のは明らかに弱音だった。
「ままならないものですよね」
水橋少尉はそれだけを言って、有無を言わさずに僕の頭をその胸に抱きしめる。
思わず母の名を叫びたくなる自分の不甲斐なさを噛み殺す。
胸を借りて弱みを吐き散らすなど誰が出来よう。望まぬ立場とは言え、自分は彼らの上に立つ者なのだ。
弱まっている時にこの抱擁は反則だ。だが、意地を張る事はまだできた。
「今のは何も聞かなかったことにして欲しい」
その僕の懇願にも似た申し出に、水橋少尉は抱擁を解きながら答える。
「ええ、何も」
……その笑顔も反則だろう。
水橋少尉の笑顔に見惚れて口をつぐむ。水橋少尉が少し不審げに小首を傾げたことでそれに気づいた。
「あっ……その。何でもないのだが」
おかしい。僕はおかしい。
何故、水橋少尉に女を感じる? そういえば頭に感じる水橋少尉の胸が妙に柔らかな様な? どういう幻想だ? 溜まっているのか?
重苦しい苦悩の淵から、あっさりと男の生理の悩みへと切り替えられる。それだけ余裕が出てきたという事か。
安堵の気持ちを抱く。と──
「敵襲ーっ!!」
僕らがいる部屋から遠くで声が上がったのは、その時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます