▼密林の中 聖地
聖地。
密林の奥。大岩に口を開けた深淵に至る穴。
イハデスルヌベ・ニエベブリッサは近い木の枝の上、慎重に穴を窺っていた。
聖地は禁足地。踏み入る事は出来ない。
あらゆる命を近付けぬ瘴気に満ちており、高位精霊の力を借りて身を守ろうとも踏み入れば僅かな時間しか生きられはしない。
そうだった筈だ。
しかし今や瘴気は薄れ、ほぼ消えている。あれでは虫を殺すのがせいぜいという所か。
聖地は開かれた。ゴブリン王カカメアの言葉は正しかった。そして、聖地が奪われたという言葉もまた。
何者かの出入りがある。幾度も何人もに踏まれたであろう下草が教えてくれた。
奴らか? しかし、それらしさを感じない。世界は歪められていない。もっとも、聖地で、世界を歪めるなど出来るとは思えないのだが。
と、穴から誰かが出てくる。
ニエベブリッサは見つからないように身を縮め、気配を殺した。森に隠れたエルフを見つけ出せる者などいない。本来はいないのだ。
出てきたのは背格好からして男が十人。
警戒しているのは明らか。
短槍だろうか? 石では無い何かの刃が付いた棒を持っている。あれでゴブリン王の軍勢を押し返したのならば、ああ見えて相当の手練れ揃いなのだろう。
見慣れぬ服……獣皮でも樹皮でもない服を着ている所は奴らに似ている。
関係はあるのだろうか?
しかし、肌は浅黒い。自分達ほどではないけれど。奴らとは違う。一人二人混じってるなら毛色が違うのが混じった程度の話かもしれないが、全員がそうであるならばその違いは大きい。
関係はないのか?
ニエベブリッサが考えている内に、彼らは周囲をエルフ基準ではかなり荒く見回って穴へと戻っていった。
森を歩くのに慣れていそうな者もいないではないが、歩き方からしてこの森の住人などではないと知れる。
何者か? 奴らも森の外から来た。
彼らもそうか?
そうなら……彼らは何処から来た?
わからないことだらけだ。
ニエベブリッサは枝の上で大きく伸びをして、緊張していた体をほぐす。
まずは村に戻って報告、連絡、相談。それが正しい。
が、ニエベブリッサはそうは思わなった。
もう少し、踏み入ってみよう。
平静ならそんな判断は下さなかったかもしれない。だが、今のニエベブリッサの心には、ゴブリン王カカメアの言葉がトゲの様に刺さっていた。
自ら探ればいい。
なるほどその通りだ。自分はシャナであり、事は聖地で起こっているのだ。ゴブリンに頭を下げて聞くとか、持ち帰って古老に相談するとか、それがシャナのすることか?
いいや違う。
竜の顎にかかるその日まで、自らはシャナであり、そう在らねばならない。
ならば……と。
声も出さずにニエベブリッサは枝上から身を落とし、下の枝やら樹皮に刻まれた皺やらを足場としつつ地上へと降りた。
草を踏む音さえも無音。
だが、ここで初めて声を出す。
「影よ。影よ。全てに寄り添うものよ。我をその衣にて包みたまえ」
瞬間、ニエベブリッサの足元の影が石を水に投じたかのごとく噴き上がり、ニエベブリッサの体を飲み込むとそのまま地面へと戻る。
ニエベブリッサの姿はもうそこにはない。
ただ、より色を濃くした影だけがそこに残されていた。
影は動き始める。穴へと向かって。
影の精霊の力を借りた隠身の術だ。強い光で影を剥がされると、たちまち術が破れるという欠点はある。
だが、穴からは一つの光も漏れていない。ならば、中に入るくらいまでは使えるだろう。
その判断は正しかった。
穴。伝承されるその成り立ちゆえに自然窟ではありえないその中。
入って少し奥に見張りがいる。二人だ。
何か複雑な形の棒を眼前に突き出し、その端を抱え込むようにしている者。
細長く複雑な形の板を持っている者。
それらは、いったい何なのだろうか? 見張りだとすると、普通に考えれば持つのは武器。だが、そのどちらもが武器として使える物とは思えなかった。
二人の分なのか、外に来た男達が持っていた短槍めいたものも二つある。武器だろうそれを何故持たないのか?
彼ら見張りの者は、外にその存在を知られる事の無いようにか光を灯さず、床面に掘られた溝に身を隠し、闇の中に丸くぽっかりと開いた穴の外の光景をじっと見つめている。
彼らから世界の歪みは感じない。
本当にただの棒と短槍なのか? そんなもので、よくゴブリンの軍勢を退けたものだと。
疑問に思わなくもないが、エルフの戦士ならば小枝であしらう事も出来るのがゴブリンだ。そういう事もあるだろうと疑問を頭の隅に追いやった。
影となった身に、穴の中の暗闇は好都合。床壁天上と問わず、影を伝って移動が出来る。奥に行くと明かりが灯されている場所もあったが、そこは迂回していく。
中には多くの何者か達がいる様だった。回廊を歩き回る姿を度々見かける。どれも皆、同じような恰好をしており、エルフで言う所の男しかいないようにも思える。
女はいないのだろうか? そういう種族か?
「あ、いや。そんな事はないのね」
呟いて思考を切り替えた。
そんな事より、人数の方が問題か。ニエベブリッサの村よりも多いかもしれない。争う事になれば、他の村の助力が必要となるだろう。
そう、争う事になるのか。否かだ。
考えながら進んだその先。
地下河川の河原。ひときわ明るく照明されたそこに辿り着く。
シャナが禊に使う場所というのがそこか? 伝承にある道順を正確に辿れたわけではないから確証はない。
そこには何者か達が大勢いるようで、意味も分からない声がよく聞こえる。
大勢いるという事は、それなりに重要な場所なのか?
禊の場所だというのが確かなら、何か儀式めいたことに使っていてもおかしくはないし、霊力がある場所だろうから統括者の居室とされても不思議ではない。
これは調べねばならない。
ニエベブリッサはそう決めたが、光の満ちたそこには影をまとっては入れない。
ならばと、進める所まで進み、影を脱ぎ捨てるように剥がして自身を現す。
壁面が磨かれたようなこの場所では隠れる場所などない。誰かが通りかかればそこまで。全て一瞬と決めてニエベブリッサは光の中に進み、そこを覗いた。
──見た。
衝撃的な光景に息を呑む。
ああ、これはどういうことなのだろう?
何者か達が蠢いていた。作業を行っていた。
禊の場は血に汚されていた。
伝え聞く邪な儀式を思い起こす。
しかし、満ちた霊力は穢れも歪みもなく。
それはまるで自然の営みであるかのように。
食べるのは良い。獲物を食うのは自然の営み。
エルフだって虫や小動物を狩猟して食べる。時々増えすぎるので間引きの意味が大きいが、肉を食べなければ体調を崩すのだ。
それ以外の獣だって、必要なら食べる。
さすがにゴブリンともなれば約定もあるので殺しても積極的に食べるとことはなく、だいたいは相手の部族に死体を返す。だが、食べてはいけないという事もない。
むしろ、殺すだけ殺して、食うでもなく、亡骸を捨てていく奴らの方がおぞましい。
クエレブレの糧を粗末にする者に災禍あれ。
だからといって、聖地で血を流さなくても良いだろう。
その辺の観念は共有していると思うゴブリンに聖地を奪われるよりも、この何者かもわからぬ者達が聖地を我が物顔で汚しているという事が何より衝撃だった。
「ク……クエレブレの怒りよ我が身を避けたまえ」
思わず、不用意な呟きを漏らすほどに。
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