曾爺ちゃん「それで、やっと蟹にありつけた」

 夜分遅く。僕は木叢島陣地に帰り着く。

 と、向かう洞窟の道の片隅、小さな焚火の火が灯るのを見る。そこにはやはり、焚火の傍らに座る水橋少尉の姿があった。

「おかえりなさい、森本大尉」

 水橋少尉は微笑み、焚火の上に飯盒をかける。

「すぐに温まりますよ」

「用意してくれていたのか? すまない、水橋少尉」

 正直なところ空腹だった僕は素直に焚火の前へ腰を下ろした。

「どうでした?」

「蟹は喜ばれた。そして僕は叱られた」

 水橋少尉に問われるがまま答える。

「焦るな。そう言われた」

「それは仕方ありませんね。大尉が心配なんですよ、少佐は。それに私もですよ。心配です」

 思わず水橋少尉の顔を見つめた僕の顔はどんなだったやら、水橋少尉は目を細めて笑む。

 その柔和な笑みから目をそらし、僕は言い訳のような愚痴を漏らした。

「僕は頼りないかな。頑張ってはいるつもりなのだけど」

「大尉のは、頑張りではないのでは?」

 目を戻し見た水橋少尉の眼差しは真摯だった。僕は母に叱られた子供の様に縮こまる気持ちになりかけ、それを恥と思って無為に言い返す。

「ないならなんだ?」

「それは、ご自分でお考え下さい」

 ピシャリと言われて僕は黙り込む。

 いや、答えはわかっているのだ。少佐が言っていたではないか。焦るなと。

 事を為すために頑張るのと、焦って事を為すのは違う。ああ、道理ではないか。

 かと言って、どうすれば良いのやら、皆目見当もつかない。

 空回りとはこういう事か。

 返す言葉の見つからない僕の耳に、飯盒がクツクツと音を立て始めたのが届いた。

 沈黙に耐えきれず、僕は飯盒を火からおろし、その蓋を取る。

 湯気。その白さの下に姿を見せる飯盒一杯の塩で煮た蟹の汁。よく見ると、紐のごとく解れた蟹の身に米と麦の粒が絡みついていた。

「蟹雑炊か」

「殻が堅くて厚くて、身をほじり出してから調理するしかなくて。そうすると身をまとめて煮るしかなかったんです」

 水橋少尉が差し出す箸を受け取り、僕は熱い蟹雑炊に取り掛かる。

 蟹雑炊とは言えど、米より蟹が多い有様。必然、蟹の肉を箸で抓む事となる。

 米の煮汁を白くまとわりつかせた蟹の肉。口に含めば、一杯に広がる蟹の香と旨味。そして。

「味噌?」

 そうだ。塩だけではなく、微かにだが懐かしい味噌の香りがする。内地にいた頃には毎日でも嗅げた匂いが懐かしい。

「はい。乾燥味噌を少しだけ。香りづけ程度ですが、それでも皆には喜ばれましたよ」

「もう残り少ないのに」

 食糧として持ち込んだ乾燥味噌も残り少ない。もう、兵達に味噌汁をふるまうことは出来ないだろう。

 惜しむ気持ちがわいてきて、思わず箸が止まった。

「大尉。どんな物も、いずれは使い果たすんです。ご飯も、武器も、人の命も。いずれは無くなるんです。なら、使える時に使いませんと」

 水橋少尉の苦笑めいた顔。

「使われる事のないまま残されたものは、消え去る機会を逸したものは、それは悲しいものですよ?」

 水橋少尉のその顔に、僕は陰りのようなものを見たと思った。

 それは焚火の光が落とした影に過ぎなかったのかもしれない。人の心を覗けたと思うなどと何と不遜な事だろうか。

 それでも僕は、水橋少尉の言葉が水橋少尉自身の事を語り、己が身こそを悲しいと嘆いているように聞こえたのだった。

 上官として慰めるべきだろう。だが、何と言ったものか。

「……なんだ。その。長く手元に置きたいじゃないか。大事なものってのはさ」

 言葉を選んで紡ぐ。

「故に死後もあってほしい。残した奴が生を賭してでも残したいと願ったものが、悲しいものだとは思いたくはない」

 何を言っているのかと問われたくない。自分で答える事など出来ないのだから。

 水橋少尉は少し驚いた様に目を見開き、それから柔らかく笑んで、その笑みはそのまま苦笑へと至った。

「……大尉は、乾燥味噌を死後まで取り置きますか?」

「あ? ああ……味噌の話だものな。何を言っているのだろうな、自分は」

 そうだった。味噌の話にあれはない。

 恥じ入る気持ちを隠すため、飯盒の蟹雑炊に集中する。

 噛み応えのある蟹肉という物を食ったのは初めてだ。噛まねば食えぬが、噛めば味が湧く。これほどに蟹を味わったことなど無かったことだ。

 米や麦の味、味噌の味は完全に蟹に負けていた。量が少なすぎる。だが、風味はある。 うん、美味い。腹いっぱいに食えるのが良い。

 蟹雑炊を睨むようにして掻き込む僕に、水橋少尉の言葉が届く。

「その掌に長く永く留め置かれ、主の散る前に身を尽くす事出来るならば、それも良いかもしれませんねぇ」

 詠う様なその言葉に顔を上げた僕の目には、ただ水橋少尉のいつもの笑顔が映っていた。

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