第21話 誰よりもやさしい手

 天体観測の翌日から、私は固く閉ざしていた心を、少しずつ開き始めていた。


 とはいっても、傍目にはそれほど変化があるようには思えないかもしれない。相変わらず殿下とは言葉を交わさないし、我儘な素振りも見せている。


 でもそれはすべて、いわば照れ隠しでやっていることだった。彼の深い愛を思い知った今、その想いに応えたいと思うけれど、ずっと冷たく接してきたせいでどのような言葉をかければよいのか分からないのだ。


 殿下もまた、私に対する接し方を変えるようなことはなさらなかった。彼から私に触れることはなく、私のすることを穏やかな表情で嬉しそうに見守っておられるばかりなのだ。


 この間の情熱的な抱擁が嘘みたいだ。星影が見せた夢だったのかもしれない。


 もっとも、彼に口付けられた髪を切り裂くという前科がある私にも非があるのは分かっている。むやみに私に触れて、私がまた死を望むようになったら困るとでも思っているのだろう。


 つまり彼との距離を縮めたいと願うなら、私から動くほかにないのだ。


 その日も殿下は、ソファーで読書をする私の姿を一人分の距離を空けたところから見守っていた。


 傍には今日殿下が持ってきてくださったばかりの花束が飾られていて、仄かな甘い香りが漂う。外はすっかり寒くなっているというのに、殿下は貴重な生花を変わらず贈り続けてくださるのだ。

 

 離宮の中もかなり冷え込む日が増えていて、そろそろ暖炉に火が灯るだろう。今は肩掛けで体温調節を行う日々だ。


 ぱらぱらとページをめくる間に何気なく顔を上げてみれば、かすかに微笑む殿下と目が合った。慈しむようなその深緑の眼差しに、こちらは何だか落ち着かない気持ちになる。


 私ばかりそわそわさせられていて、何だか不公平だ。


 だからというわけでもないけれど、私は本を開いたまま、ソファーの上をずりずりと移動して殿下の隣に収まった。彼は驚いた様子で私から離れるような素振りを見せたが、すかさず彼の肩に頭を寄せる。


「っ……ルーナ」


 肩掛けを下ろし、自分の膝と殿下の膝にふわりとかけた。その上に、読みかけの本を置いて殿下に寄りかかったまま読書を再開する。


 これはそう、殿下が寒そうだから優しい私が気を使って、効率的に暖を取れるように図らって差し上げたに過ぎない。好きな人にくっついて本を読みたいだとか、そんな下心のある行動ではないのだ。


「さ、寒いのか? 暖炉に火をつけてもらおうか?」


 相変わらず私に触れるまいと不自然に手を泳がせる殿下を、一睨みする。私がここまでして差し上げているのに、往生際の悪い人だ。


 殿下の問いかけを無視するようにして、私は彼に一層体重を預けるようにして寄りかかった。そこまでしてようやく、殿下は私を支えるように恐る恐る肩に手を伸ばす。


「……嫌じゃないか?」


 震えるような声に、私はただ一度だけ頷いた。肩に添えられた殿下の手は程よく温かくて、安心する。


 そのままページをめくっては、時折すりすりと殿下の肩に頭を摺り寄せた。そのたびに殿下が僅かに身じろぎしたが、少しずつ慣れてきたのか、半時間も経つ頃には指先で私の髪を梳くようになっていた。


 何気なく彼の様子をうかがってみれば、この一秒一秒を噛みしめるように、目を細めて私に僅かに寄りかかっていた。


 てっきり私と一緒に本を読んでいたのかと思ったのだが、彼の注意は私との触れ合いに向けられていたらしい。まるで幸福に酔いしれるようなその姿に、つくづく大袈裟な人だと思ってしまう。


 私の視線を感じたのか、彼はゆっくりと瞼を開いて、微笑むように私を見た。何気なく、頬にかかった髪をよけてくれる。


「読書はもうおしまいにするのか? 休憩がてらガーネットに紅茶でも淹れてもらおうか」


 私は彼に寄りかかるような姿勢のまま、じっと彼の顔を観察した。これほど至近距離で見つめるのは殆どはじめてに近い。


 見れば見るほど整った顔立ちをしている。つい冷たい印象ばかり受けるが、こうして見ると睫毛は思ったよりも長くて、見ようによっては可愛らしくも思える。落ち着いた深緑の瞳を縁取る黒い睫毛に、思わず指先を触れさせた。


 当然ながら震えるような瞬きをする彼を前に、何だか楽しくなってきてしまった。指先を頬に滑らせ、撫でるように何度か手を往復させる。


「……猫みたいだな、ルーナは」


 殿下はくすぐったさもあるのか、いつになく気の抜けた笑い方をして、やんわりと私の手を掴んだ。猫のような可愛いものではないと思うが、彼にはそう思えるらしい。


 殿下は掴んだ私の手を下ろすと、そっと私の体を抱き寄せた。大好きな彼の香りに包まれて、思わず頬が緩む。


「……夢みたいな時間だな。ルーナが、こうしてすぐ傍にいるなんて」


 まるで独り言のような調子で零れた言葉に、笑みを深める。殿下のやさしい手が、何度か私の頭を撫でた。


「この先もずっと……こんな日が続けば……」


 そう言いかけて殿下は、言葉に詰まるように軽く俯いた。


 分かっている、彼はきっと間もなく訪れる真冬の新月を恐れているのだ。


「いや、俺がこんなこと言ったってルーナを不安にさせるだけだよな。……大丈夫、何があったって絶対に……俺は君を終わらせたりしない」

 

 手は優しく私の頭を撫でながらも、そう言い切った殿下の横顔は酷く翳ったものだった。陰鬱な表情を浮かべる彼は、傍から見れば怖いくらいだ。


 もしも、私がいなくなってしまったら。彼はどんな表情で悲しむのだろうか。何を言ってくれるのだろうか。


 その嘆きぶりを見てみたい、と思う私はやっぱり意地悪だ。私のせいで、取り返しのつかないところまで深く激しく、心に傷を負った彼を想像してみる。


 私が死んだらきっと、彼は冷たくなった私の体をいつまでも抱きしめていてくれるのだろう。譫言のように私の名を呼ぶ彼の瞳には、一切の光が宿っていないに違いない。


 ……この深緑が、翳って淀んで何も映さなくなってしまうのかしら。


 彼の目元に指先を添えて、考えてみる。それは何だか少しだけ、惜しい気がした。


 何より心が痛んで仕方がないのだ。虚ろな目で私の亡骸を抱える彼を想像するだけで、胸の奥が抉られるように痛んだ。


 終わるならやはり、円満に平穏に、天寿を全うした後がいい。それでも取り残されるのは御免だから、もう少し先の未来で、彼に看取ってもらう最期ならなおさら素敵だ。


 彼は目元に添えられた私の手をそっと離すと、ゆっくりと手のひらに口付けを落とした。くすぐったいような感触に、途端に頬が熱を帯びる。


 彼は珍しく何も言わず、物欲しそうな目で私をじっと見つめていた。相変わらず翳ってはいるけれど、切実に何かを求めるような熱が帯びていて、ますますどうしてよいのか分からなくなってしまう。


 彼は私の手のひらから唇を離すと、代わりに私の目元に指先を滑らせた。


「……君のその優しい目が好きだ」


 熱を帯びた頬の真ん中をとん、と指先で叩く。


「笑うとここに出来るえくぼも」


 彼の指が、肌をなぞりながら喉元にまで滑って、掠めるような感触に甘い寒気が走った。


「その可憐な声も」


 彼は悩まし気な溜息をついて、私の肩に項垂れるようにして頭を預ける。


「……君が君であると言うだけで好きなんだ」


 彼が私に向ける想いの始まりが気にならなかったかと言えば嘘になるけれど、こんな切ない告白を聞いた後ではどうでもよくなった。もともと私たちは幼馴染のような関係だったのだ。親愛が恋情に変わる瞬間なんて、ひどく曖昧なものだっただろう。


「……生きていてくれ、ルーナ。俺の想いに、応えてくれなくたって構わないから。ただ息をして、笑って、その目で時折俺を見てくれたらそれで――」


 それは、私に向けられた言葉というよりは、祈りの言葉に近かった。言葉に詰まるような姿にいたたまれなくなって、思わず彼の頭を撫でてしまう。


「――なんて、思っていたんだが、こうしてルーナに触れられるともっと欲しくなって困るな。このところの俺は、君をこんな目に遭わせておきながら、君の特別になれたらいいなんて思っている」


 私の肩に頭を預けたまま、視線だけでこちらを見上げたかと思うと、彼は悪戯っぽく笑ってみせた。昔の彼を彷彿とさせるようなどことなく無邪気な笑みに、どくん、と心臓が跳ねた気がした。


「……君の声が聴きたい」


 縋るように私を抱き寄せながら、彼は消え入りそうな声で懇願した。切なげに漏れた息が、首筋を掠める。


 私が喋らなくても何てことないような素振りを見せていたのに、心の内では私の声を求めていたのか。普段のあの穏やかな笑みの下には、一人の人間らしい欲も熱も眠っていたのかと思うと、たまらない気持ちになる。


 少し、意地悪が過ぎたのだろうか。話さないことに慣れ始めていたけれど、彼には物凄く寂しい思いをさせていたのかもしれない。


 私の嫌いな寂しい、という感情も、彼に抱かれるのならば不思議と悪い気はしなかった。私が隣にいて当然だという前提に成り立つ傲慢な感情だったとしても、それでもいい。その傲慢さで、彼の日常に私がいることをごく当たり前の事実にしてほしい。


 久しぶりにかける言葉は、何がいいだろうか。無難に名前を呼んで差し上げようか。それとも、この複雑な胸の内を思い切って明かしてみようか。


 彼の髪を撫でながら、何を言えば彼が喜ぶか悩んだ。彼を喜ばせたいと思っている自分がいることにも驚いてしまう。この離宮にやって来た当初からは考えられないような心境の変化だった。


 静まり返った部屋に、置時計の鐘が夕暮を知らせた。窓から差し込む橙色の光を眺めながら、何とか第一声を絞り出そうとしていると、突然に談話室の扉が開かれる。


「っ……」


 どこか青白い顔をして飛び込んできたのはクリスだった。思いがけない人物の登場に、私は慌てて殿下から離れようとしたが、彼はのろのろとした動きでどこか恨めしそうにクリスを睨むばかりだった。


「……何だ、クリス。ノックくらいしろ」


 公の場の姿を彷彿とさせるぶっきらぼうな物言いからして、殿下は相当苛立っているのだろう。どことなく甘い空気が漂っていただけに、私としても残念なような気がしていたが、かける言葉に迷っていたから救われたような気持ちでもあった。


「いえ……ただ、妙な気配が……」


 クリスは灰色の瞳を見開いて談話室を見渡すと、壁際に備え付けられた本棚に目を留めた。


「妙な気配……?」


 殿下は訝し気な表情をしてクリスの視線を追う。クリスは吸い寄せられるように本棚の方へ歩み寄る。


 追いかけっこのときもそうだったが、クリスは物音だとか気配だとかに非常に敏感だ。彼にしか分からないような変化があったのだろうか。


「気になるなら調べておけ。……俺はガーネットでも呼んでくる」


 殿下は大げさなくらいの溜息をつくと、クリスと入れ替わるように談話室から出ていった。ガーネットにお茶を淹れてもらうよう頼みに行ったのかもしれない。


 クリスは本棚を見渡して、やがて思いつめたような溜息をついた。一体何事だろう、と彼の様子を見守っていると、クリスはすぐに弱々しい笑みを浮かべる。


「……すみません、お二人の時間を邪魔してしまって。少し気が立っているのかな」 


 何だか妙なクリスだ。普段はとても礼儀正しい人で、ノックを忘れたことはないのに。ねずみでも紛れ込んでいたのだろうか、と思うと身震いしてしまう。


「お嬢様はお気になさらず。失礼いたしました。お茶にするなら、何か甘いお菓子でも用意して参りますね」


 クリスは深く腰を折ったかと思うと、早速お茶菓子の準備のためにこの部屋から出て行ってしまった。妙な行動だったな、と思いつつも、私は本棚を眺めながらぼんやりと考えこんだ。


 ……ひょっとすると、クリスは私にまつわる予言について知っているのかもしれないわね。


 クリスは、三人の中でも殊更殿下と親しいように思える。殿下も信頼するクリスに予言のことを打ち明けていても不思議はなかった。


 新月まではもう数えるほどしかない。気が立っているというのもうなずける。彼もまた、私を守ろうとしてくれているのかもしれない。


 ……私はみんなに守られてばかりね。


 刺客に追われたあの夜は、私の生を望む人なんて一人もいないに違いないと思っていたのに。私は私が思っている以上に優しい世界で生きていたらしい。


 窓から差し込む橙色をぼんやりと眺めていると、間もなくしてガーネットがお茶を運んできた。殿下の機嫌は少しだけ直ったようで、彼が贈ってくれた花を囲んで小さなお茶会を楽しんだのだった。

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