第2話 悲嘆の祝宴会

 その後、神殿から連れ戻された私は、一も二もなく公爵家の中にある礼拝堂に向かった。


 訳もなく流れる涙と、世界中から向けられるような強大な悪意を前に、女神様に祈らずにはいられなかったのだ。こういうときに寄り添ってくださるのはいつだって女神様だけだった。


「っ……偉大なる女神アデュレリアの恵みと祝福に感謝いたします」


 染み一つなく磨かれた氷のような床に膝をついて、決まり切った文句を祭壇の前で述べる。


 礼拝堂の中には、女神アデュレリアの象徴とされる、月を模した紋章が天井近くに飾ってあり、その下に祭壇が設置されていた。外の光を取り入れる色とりどりのステンドグラスが美しい、私にとっては馴染みのある場所だ。下手すると、私室よりも礼拝堂で過ごした時間の方がずっと長いかもしれない。


 間もなくして、心の中に一陣の風が吹き抜けるような、例え難い爽やかさに包み込まれる。女神様の声が届く前触れであるこの瞬間が、私は好きだった。


「女神様……もしも私にまだあなた様のお声を聞く資格があるのならば、どうか、一声だけでもお聞かせ願えませんか?」


 ぽろぽろと涙を流しながら、懇願するように目を閉じて、指を組む。


 間もなくして、遠く地の底から響くような、それでいて風のように軽やかな、明らかにこの世のものではない声が聞こえてきた。


 ――我が愛し子ルーナよ。あなたの涙が渇くことを祈っています。


 女神様が仰ったのは、たったその一言だけだった。それでもまだ自分が女神の声を聞ける事実にどうしようもない安堵の気持ちが広がっていく。

 

「っ……女神、様……」


 女神様は、基本的に人の世に干渉しない。私が彼女の声を聞き届け、王国の迫る危機や災害に備えることが出来るのは、まさに異例中の異例のことだという。


 とはいえ、いくら私が女神の愛し子であっても、女神様は簡単に手を差し伸べたりはしない。女神様が私にしてくださることは、私の祈りの言葉に短く返事をすることだけだった。


 もちろん、それだけでも、女神様を崇めるこの王国にとっては私は奇跡の聖女だったらしい。神官たちも民衆も、女神の声を聞ける聖女の誕生を、長らく待ち望んでいたのだ。


 ともかく、私は未だ女神様の声と共にあるのだ。やはり、先ほどの聖女選定には何か間違いがあったのではないだろうか。


 意を決して、私はもう一度コーデリア姉様と継母のナタリア様、そして聖女となったコーデリア姉様についてきた神官たちに訴えることにした。


 礼拝堂から戻れば、偶然にも応接間に向かおうとしている一行の後姿を見かけた。私は殆ど勢いのままに、その後ろ姿に声を上げる。


「お義母様、神官様、コーデリア姉様……どうか、聞いてください」


 一行は、私の声に足を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。一応聞いてくれる気はあるらしい。


「私は、未だ女神アデュレリアの声と共にあります。たった今、それを確かめて参りました。やはり、先ほどの聖女選定には、何らかの誤解があったのではないでしょうか?」


 ナタリア様はともかく、コーデリア姉様や神官たちは話の分かる人たちだ。選定に誤解があった可能性に、真剣に耳を傾けてくれるかもしれない。


 だが、コーデリア姉様と視線が絡んだ瞬間に、彼女の笑みが引き攣った。


 やがて、私の訴えを、ナタリア様が嘲笑を交えて一蹴する。


「本当に、この子ったら……。……神官様、どうか罪深き偽りの聖女にお慈悲を。この子は、いつからか自分に聖女の力があると盲信してしまうようになったのです。真の聖女はコーデリアだと言うのに……。嘘もつきとおせば何とやら……とは言いますけれど」


 ナタリア様は憐れなものを見るように、私に一瞥をくれた。神官たちの一部はそれに同調し、また一部は私に対してあからさまな嫌悪感を露わにしていた。


「けれども、私たちを虐げる彼女の前ではどうしても声を上げることが出来ませんでした……。ああ、コーデリアが勇気を出してくれて本当によかった……。コーデリアのお陰で、私は救われたのです」


 ナタリア様はコーデリア姉様を愛おし気に抱きしめると、彼女のストロベリーブロンドの髪をそっと撫でた。


 母が子を慈しむ美しいその光景に、心の奥底で、ぴり、と鈍い痛みが走った気がした。


 私の本当のお母様は、私が物心がつく前に亡くなってしまった。お父様の愛人だったナタリア様がコーデリア姉様を連れてこの屋敷にやって来た日から、私のお母様はナタリア様なのだ。


 ……もっとも、お母様と呼ぶことすら許されなかったのだけれども。


 ナタリア様は、いわば恋敵の子どもである私のことを、ほとんどいないものとして扱っていた。


 確かに私だって、ナタリア様に対して少しも思うところがなかったと言えば嘘になる。正妻である私のお母様を差し置いて、お父様との間にコーデリア姉様をもうけ、公爵家の財産で何不自由ない暮らしをしていたのだから。


 それでもこうなってしまった以上は受け入れようと、ナタリア様ともコーデリア姉様とも仲良くしようとしてきたつもりだったが、ナタリア様にその想いは欠片も届いていないらしい。


「……偽りの聖女の処遇は後程決めるとして、今は聖女様の御仕度を整えねばなりませんな。何しろ、この後には婚約式や祝宴会と公務が詰まっておりますから」


 神官たちは、私のことを無視して話を進めることに決めたようだった。だが、このままでいいわけがない。


 思わずこちらに背を向けようとする神官たちを追い縋るようにして、声を上げた。泣いたせいで掠れた声は、我ながら情けなくて惨めで仕方がない。


「っ……お待ちください。どうか、どうか話を……っ」


 懸命な呼びかけも空しく、神官たちはコーデリア姉様を守るようにさっさと歩き出してしまった。半身で振り返ったナタリア様だけが、真っ赤な紅を引いた口元に意味ありげな笑みを浮かべる。


 その笑みに、はっと気づいた。——いや、本当は、今まで目を背けていただけなのかもしれないけれど。


 ……そう、ナタリア様も、あの疑惑の聖女選定に関わっているのね。


 コーデリア姉様が聖女に選ばれたのは、きっと誤解などではないのだろう。


 恐らくこれは明確な悪意が溶け込んだ、誰かの策略なのだ。


 ナタリア様だけではない。神官長も、王太子殿下も、みんなコーデリア姉様の味方だった。コーデリア姉様を聖女として擁立することを言い出したのが誰なのかは分からないが、いずれにせよ、王家、神殿、公爵家を前にして、私が出来ることは何もないのだと悟る。


「どう、して……?」


 聖女候補として、出来る限りのことをやって来たはずだった。王国南部に水害が迫っているという女神様の忠告も、疫病が流行る可能性を示唆する女神様の言葉も、一つ残らず王家と神殿に伝えてきた。


 それを受けて具体的な対策を練ったのはもちろん大人たちであるが、私の能力だって多少なりとも、王国の民を救うために役立ってきたはずだったのに。王家も神殿も、私のこの力を正しく認めてくれていたはずなのに。


 それにもかかわらず、彼らが私を聖女の座から引きずり降ろした理由は一つだ。


 ……私より——聖女の力よりも、コーデリア姉様のほうが必要とされているということなのね。


 それが何なのかは分からない。コーデリア姉様の美貌のためなのか、彼女の持つ危険なまでの演説力のためなのか、あるいは王太子殿下が彼女に惚れ込んでいるためなのか、私には何一つわからない。


 ただ一つだけ確かなことは、彼らにとっては聖女の力などよりも、コーデリア姉様のほうがずっと価値があるということだけだ。女神の愛し子とまで呼ばれていた私は、笑えるほどあっさりと捨てられてしまった。


「……吐き気がするわ」


 薄い笑みと共に、一粒の涙が零れ落ちた。その涙を拭ってくれる人はもう、誰一人として、私の傍には残されていなかったのだけれども。



◆ ◆ ◆



 聖女選定の日から三日が経った夜、ロードナイト公爵家では、新たな聖女の誕生を祝う祝宴会が開かれていた。


 神殿からほど近いこともあって、聖女の生家であるロードナイト公爵家が会場として選ばれたのだが、王太子殿下を始め、有力貴族がこぞって顔を突き合わせる祝宴会は実に華やかなものとなった。


「あの方が当代の聖女様よ」


「なんてお優しそうな方なのかしら……王太子殿下ともよくお似合いだわ」


 広間の中心で並び立つコーデリア姉様と王太子殿下は、輝かしい祝福の声に包まれていた。聖女の証である純白のドレスに身を包んだコーデリア姉様は、誰の目にも美しく、彼女の隣に並び立つ王太子殿下は、コーデリア姉様の手を宝物のように握っていた。溜息の出るほど美しい光景とは、こういうものを言うのだろう。


 一方の私はというと、庭の影からそっと広間の様子を伺っていた。庭に繋がる広間の扉が大きく解放されているため、外からでも中の様子が十分に見えるのだ。


 色鮮やかなドレスがひしめく中、私が身に纏うのは、今までのような純白のドレスではなく、質素な灰色のワンピースだった。


 光が強ければ影も濃くなるように、聖女は闇に魅入られやすい、という言い伝えがある。そのため、聖女は闇を連想する黒い服や深い色の服を着ることは禁忌とされていた。他にも、血を連想する鮮やかな赤色や、空に溶け込むような青色も、身につけることは許されていなかった。


 その慣習のために、私は物心がついてからというもの、純白を基調とした聖女の装束以外の服を纏ったことがなかったのだ。


 たかが衣装一つ、と思うかもしれないが、掟は非常に厳格なものだった。鮮やかな赤も、目の覚めるような青も、高貴な黒も、刺繍一つ身に着けてはいけないと言われて育ってきた。憧れることすらも許されない、と。


 だからこそ、この灰色のワンピースは、今までの自分を全否定する象徴のように思えてならなかったのだ。


 この三日間で、私の世界はがらりと変わった。私は救国の聖女から一転、本物の聖女の力を盗んだ罪人として扱われるようになったのだから、それも無理はない。


 もう誰一人として、私の声に耳を傾ける者はいなかった。唯一の話し相手は、女神アデュレリア様だけ、という皮肉にもほどがある状況だ。


 女神様に愛されているはずの聖なる王国が、途端に黒く汚れて見えた。でもそれ以上に自分が、とてもちっぽけで取るに足らない存在なのだと思い知らされた気がする。


 謙虚に振舞っているつもりでいたけれど、私は心のどこかで自分は特別なのだと、尊重されてしかるべきなのだと、ごく自然に思っていたのかもしれない。自分でも気づかなかった傲慢さを、この三日間で痛いくらいに見せつけられている。


 ……私は、ずっと守られて生きてきたのね。


 今まで自分が見てきた世界の狭さを、既に充分に思い知った。私にとっては、人生で最も衝撃的な三日間だったと言うべきかもしれない。


 改めて、広間の中心で輝くような美しさを放つ二人に視線を戻す。王太子殿下とコーデリア姉様は、今は王国の宰相と何やら会話に花を咲かせているようだ。


 ……本当ならば、あの場所に立っているのは私だったはずなのよね。


 この仄暗い感情を憎悪と呼ぶのだということは、既に分かっている。私から何もかもを奪い去ったコーデリア姉様と、恐らくは計画の中心となったであろうナタリア様には、まさに、憎悪と呼ぶべき黒い感情を抱いていた。


 お父様に助けを求めたところで、ナタリア様を愛するお父様は決して私の肩を持とうとはしなかった。王家からも神殿からも見放された今となっては、もう、私が頼れる人など誰もいない。


 コーデリア姉様を聖女として擁立させるこの企みには、あまりに大きな権力が関わりすぎている。神殿はともかくとして、聡明な王太子殿下がこの企みを黙認しているのは、彼もまたこの計画の加担者である何よりの証だった。


 ……殿下はそれほどまでに、私を聖女にしたくなかったのかしら。


 幼馴染ともいうべき王太子殿下との日々は、実にささやかで優しいものだった。幼い頃は今よりずっと口数の多かった殿下と共に、王城の芝生に座って未来を語り合ったことをぼんやりと思い出す。


 ――ルーナ、知っているか? 民ってすごいんだ。パンを作ったり、花を育てたり、俺には到底できないことをたくさんして、世の中を回している。俺は、パンを作ることも花を育てることもできないけど、彼らを守るのがどうやら俺の役目らしい。


 王家の象徴たる深緑の瞳をきらきらと輝かせて熱っぽく語る、当時まだ10歳にも満たない殿下の言葉が鮮やかに蘇った。この頃はまだ、殿下も私も今ほど感情を隠してはいない、無邪気な子ども同士だった。


 ――ルーナは、女神様の声が聞けるんだよな。王国に悪いことが起こりそうなときは、女神様が教えてくれるんだろう?


 ――はい、そのとおりです、殿下。


 ——じゃあ、ルーナが女神様の声を聞いて、俺は女神様の声に従って民を守る王になるよ。俺とルーナが一緒にいれば、誰もがみんな笑って暮らせるような国になるかもしれないだろ?


 今思えば理想論に近い話だが、自国の民を尊重し、守りぬいてみせると使命感に駆られる殿下のことを、私はとても好ましく思っていた。


 私もまた、彼の隣に立って、正しく神の声を聞き、この国で涙を流す人が一人でも減るように頑張ろう、と子どもながらに決心したものだ。


 そして恐らくそれは、私の淡い初恋の始まりの瞬間でもあったのだ。


 殿下が私のことをどう思っていたのかは、実のところよくわからない。それから間もなくして、殿下は今のような冷たい目をするようになってしまったため、二人が心を通わせられた時期はほんの一瞬だったのだ。


 だが、今、広間の中心でコーデリア姉様の手を取って笑う殿下の姿が、全ての答えである気がしていた。


 殿下は、女神の愛し子と呼ばれた私よりも、コーデリア姉様を望んだのだ。だからこそ、私を聖女の座から引きずり降ろし、コーデリア姉様を新たな聖女として擁立した。神の声を聞ける聖女が国にもたらす利益よりも、美しいコーデリア姉様を優先したのだ。

 

 王族としての使命に燃え、聖女とともに国を安寧に導こうとしていたあの少年は、もう過去のものなのかもしれない。淡い初恋もまた、ここで無惨にも打ち砕かれたのだ。


 何もかもが、音を立てて崩れ落ちていく。ともすれば立っている場所さえ失ってしまいそうな不安の中で、息もできないような閉塞感に襲われた。


 ……この先、私はどうすればいいの? 神様の声を聞けなくなっても、王国は大丈夫なの?


 答えは明白だった。神の声を聞けるという能力自体、歴代の聖女の中でも私しか持たぬ特別な力なのだ。今まではそれがなくともやってこられたのだから、私がいなくなったところで、王国が滅ぶはずもない。


 存在意義すらも見失った今、私は生まれて初めて死を想った。もういっそ、このまま女神様の御許に召されたい。歴代聖女がいらっしゃるという楽園は、どれだけ美しい場所なのだろう。


「おやおや、様ではありませんか」


 不意に、招待客らしい青年が話しかけてくる。彼の周りには、下卑た笑みを浮かべる友人らしき青年たちもいた。


「こんなところでどうされたのです? 王太子殿下のお傍に侍らなくていいんですか?」


 小馬鹿にするような口調を前に、情けなくは思いつつも、すっかり委縮してしまった。


 聖女候補として生きてきた私は、まるで異性に対する免疫がない。言葉を交わしたことがある主な男性は、お父様と、実質的な婚約者であった王太子殿下、神官長だけだったのだから。

 

 当然、このように絡まれた時の対処法など知る由もなかった。思わず身を縮こまらせて、頬に影を落とすよう睫毛を伏せる。


「へえ、今までベールに隠れて見えなかったが、これは女神も驚く美しさだな。薄い雪色の瞳に月の光を閉じ込めた銀の髪……なんていう謳い文句は聞いちゃいたが、それ以上じゃないか。その美貌で神官長やら殿下やらを誑かしていたのか?」


 突然に一人の青年の手が私の顎に伸び、半ば無理やり私の顔を上向かせた。男性はおろか、女性にもほとんど触れられたことがないせいか、反射的に目に涙が浮かぶ。触れられた部分がどうにも不快で仕方がなかった。


「っ……お放しください」


「泣きそうな声でそんなこと言われてもな」


 品のない笑い声を上げる青年たちを前に、気づけば私は走り出していた。逃げる私を嘲笑うような声がいつまでも耳に纏わりついていたが、あまりの恐怖にこれ以上あの場に留まることはできなかった。


 使用人用の出入り口から何とか屋敷の中に潜り込んで、息を乱しながら人気のない廊下に崩れ落ちた。少し触れられただけなのに、肩の震えが止まらない。


 思わず口元を押さえて、吐き気にも似た恐怖に必死に耐える。


 直接的に人に悪意を向けられることが、こんなにも恐ろしいことだったなんて。


 じわりと涙を滲ませながら何とか肩の震えを抑えようとしていると、乾いた靴音と共に私の前に影が落ちた。


「あら……ルーナ、こんなところで一体どうしたの?」


 聞き間違えようのない声だった。恐る恐る顔を上げてみれば、純白のドレスを身に纏ったコーデリア姉様が、王太子殿下と腕を組んでこちらを見下ろしている。この辺りには休憩室があるので、二人は広間を抜け出して一休みしようとしているのかもしれない。

  

「そんなに震えて、可哀想に……」


 コーデリア姉様は痛ましいものを見たとでも言わんばかりに美しい顔を歪めると、しゃがみ込み、そっと私を抱きしめた。今は憎悪すら覚える相手からの抱擁に、ますます心が搔き乱される。


「――惨めったらしい灰色の服がよく似合っているわよ。うふふ、こういう時になんて言うのか知ってる? お姉様が教えてあげるわ」


 内緒話をするかのように、殿下には届かないような囁き声で、コーデリア姉様は私の耳元で笑った。


「ざまあみろ、って言うんですって。ふふ……わたくしを見下してばかりいるから罰が当たったのよ。聖女から罪人に堕ちた気分はいかが?」


 最後の言葉は、可憐なコーデリア姉様の口からは今まで聞いたことも無いほどの低く冷え切った声だった。


 コーデリア姉様を見下しているつもりなど、微塵も無かった。今はともかく、昔は仲良くしようと歩み寄った時期もある私たちなのだから。


 だが、結局印象なんて人の受け取り方次第だ。私に自覚がなくとも、コーデリア姉様が見下されていたように感じていたのならそうなのだろう。


 ……もしかするとみんな、私のことなんて嫌いだったのかしら。


 女神の声が聞ける聖女候補だったから私を尊重していただけで、誰一人として私自身のことなど好きではなかったのかもしれない。この三日間、自分は未だに女神の声と共にあるのだと叫んでも、私の声に耳を貸す者など一人もいなかった。


 打ちのめされたような心地のまま、コーデリア姉様の肩越しに礼服姿の殿下を見上げる。深緑の目は確かに私を捉えているのに、そこには何の感情も浮かんでいない。


 憐れみどころか憎悪すらも思わせない無関心なその瞳に、心が抉られるように痛んだ。


 ……そう、なのね。殿下にとって私など、憎む価値もないほどにどうでも良い女なのだわ。


 身を焦がすほどの熱は帯びていなかったとはいえ、想いを寄せていた相手が自分に少しも関心を寄せていなかった事実は、ただでさえ疲弊していた心を追い詰めるには充分だった。


 彼がどこまでこの一連の事件の事情を知っているのか分からないが、コーデリア姉様を愛しているというのなら、いっそのこと、私のことなど憎んでくれた方がよかった。蔑んでくれた方がよかった。


「これが愛し子の末路だって言うのだから笑っちゃうわよね。恨むなら、あなたの愛しの女神様を恨んだらどう?」


 コーデリア姉様は最後にそう囁くと、くすくすと笑いながら私から手を離した。そのまま甘えるように殿下の腕に絡みつく。


「お待たせいたしました、エリアル殿下。さあ、少し休憩したら、広間へ戻りましょう? まだまだご挨拶をせねばならない方々が大勢おりますものね」


「……そうだな。本物の聖女は君なのだと、皆に見せびらかしてやらないと。女神もご満足くださるだろう」


 殿下は珍しく饒舌に語ったかと思うと、私には見せたことも無い甘い表情でコーデリア姉様に笑いかけた。それを受けたコーデリア姉様の頬が僅かに赤く染まる。


 誰が見ても、愛し合う恋人同士の姿だった。王太子と聖女という、国中の祝福を一身に受けた彼らは、今の私にはあまりにも眩しすぎる。


 やがて、二人は人気のない休憩室の方へと遠ざかっていった。


 私は立ち上がることも無く、ただ、小さくなる二人の足音に耳を傾ける。


 ぽたり、とまた一粒、涙が頬を流れ落ちた。


 いつしか涙の感触すらも曖昧になり、意識がおぼろげになるのを感じる。ただ、このところ限界を迎えていた心が、音を立てて壊れていくのが分かった。


 そのままどれくらいそうしていただろう。床に座り込んだ足が冷えてきたころ、私はふらりと立ち上がり、公爵家の敷地を出て、神殿へ至る道を一人歩き始めた。


 初夏とはいえ、まだ肌寒い風が薄い灰色のワンピースを揺らす。




 このとき、騒めいた木々の影に、黒を纏った刺客が息を潜めていたことになど、半ば放心状態の私は知る由も無かった。

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