嘆きの聖女は王子様の箱庭の中
染井由乃
第1話 偽りの聖女選定
「ただいまより、女神アデュレリアの名のもとに、当代の聖女選定の儀を執り行う」
その日、偉大なる女神に愛された、聖なる王国アデュレリアで、聖女選定の儀は厳かに進行していた。真っ白な神官服を纏った数百人もの神官たちがひしめき合う神殿の中、神官長が淡々と儀式開始の文句を述べる。
貴賓席では、王国アデュレリアの国王陛下と王太子殿下が、王家の象徴たる揃いの深緑の瞳で静かに儀式を見守っていた。彼らの背後に立ち並ぶ近衛騎士たちも、今日ばかりは格式高い礼服を纏っている。
聖女選定。それは、王国アデュレリアにとって、最も大切な式典の一つだった。王国を更なる繁栄に導く鍵を握る、聖なる乙女を選び抜くための儀式であるからだ。
数十年に一度生まれると言われる聖女は、女神より賜った特殊な力を持っている。
ある者は未来予知の力で王国を繁栄に導き、またある者は癒しの力を以て傷ついた人々を慰めた。代によってその能力は様々だが、歴代の聖女の持つ力のどれもが、人々に安らぎを与える特別なものだった。
そして当代の聖女候補である私は、女神様のお声を聞くことが出来る。女神様の存在を身近に感じさせるこの能力は、神官たちにはもちろん、王国中の民からも祝福される特別なものだった。
聖女は王家に嫁ぐのが通例であり、王と共に民を安寧に導く役目を負う。聖女が王家と共にあることは、人々にとって大きな希望となっていた。もちろん、ここにいる神官たちとて例外ではない。
現に、数百人もの神官たちの注目がひしひしとこちらに集まっているのを肌で感じる。
薄いベールを纏っているために、彼らと直接目が合うことはないのだが、それでも今ばかりは緊張した。気取られぬ程度に息を整えれば、結い上げた髪から両側に一筋ずつ下ろされた銀髪が揺れる。
これから神官長は、大勢の前で宣言するのだ。「当代の聖女はルーナ・ロードナイトである」と。
飽きるほどに耳に馴染んだ自分の名を、頭の中で噛みしめるように繰り返す。ロードナイト公爵家に生を受けた私だったが、この十六年の人生は、公爵令嬢として過ごした時間よりも、聖女候補として女神様に仕えてきた日々の方がずっとずっと長かった。
女神様の声は、物心がついた時から聞こえていた。そのほとんどが一言二言を交わすだけの他愛もない会話ばかりだったけれど、稀に国に重大な影響を及ぼす忠告を下さることがある。
例えば、私が7歳になろうかというあるとき、王国南部で大規模な水害が起こるという女神様の忠告があった。それをすぐさま王家と神殿に伝えたために、幸いにも民や作物の被害は最小限に留めることができたのだ。他にも、疫病の流行の可能性を示唆され、予防策を打ち出したこともある。
神殿はこれを聖女の功績と認め「ルーナ・ロードナイトが女神の声を聞くことのできる聖女であることは、最早疑いようがない」というのが、神殿や王家の見解だった。
つまり、この儀式は、聖女選定の儀とは言いつつも、実質的に私を聖女として任命するための式典と言った方が相応しいのだ。現に、この後には私を聖女として迎えることを前提とした公務がぎっしりと詰まっている。
その一つが、王太子殿下との婚約式だった。
こっそりと祭壇から貴賓席に視線を移し、殿下の姿を盗み見る。
片側だけ上げられた青みがかった黒髪に、王家の証である深緑の瞳を持つ王太子殿下は、今日も今日とて感情を思わせない冷たい眼差しをしていた。
恐ろしいほどに整ったその顔立ちは、国王陛下譲りだろうか。首元まで詰まった格式高い礼服を纏っているにもかかわらず、怪しげな色気を漂わせる彼は、令嬢たちの憧れの的だった。
私は、いわば彼とは幼馴染のような関係だ。私が聖女の筆頭候補であると認められたその日から、彼とは何かと顔を合わせていた。仲睦まじかったかと言われれば疑問が残るところではあるが、少なくとも私は王太子殿下のことを心から好ましく思っていた。
聖女候補と王太子という特殊な立場であったために、正式な婚約こそ結ばれていなかったが、聖女は王家に嫁ぐという今までの慣習からしても、私たちが添い遂げる仲になることは暗黙の了解とされていた。要は実質的な婚約者と言っていい相手だ。
今、私の心の内を占めるのは、もちろん大部分は、女神への感謝と聖女として王家に立派に仕えようという使命感であるのだが、ようやく殿下の正式な婚約者になれる、という小さな喜びがあるのも事実だった。
……いよいよ、私は正式に彼の隣に並び立つことが許されるのね。
聖女として任命されるこの日のために、私は物心がついた時から日々励んできた。聖女としての品格を保つことはもちろん、王家に嫁いだら殿下の力になれるよう、あらゆる分野の教養を深めてここまでやってきたつもりでいる。
聖女候補に纏わる掟は数えきれないほどあった。服装は、白を基調とした聖女の装束と言われるドレスのみが着用を許され、感情を露わにすることは厳禁だった。そのせいか、いつからか穏やかな微笑みが顔に張り付いて、表情を変えるのが苦手になってしまったけれど、私の微笑みで救われる人がいるのなら少しも苦ではなかった。
それでもやはり、正式に聖女として認められるとなると、滅多に揺らがない心も浮足立つのが分かる。
今日から私は、この国で一番女神様に近い場所で、女神様にお仕えできるのだ。そうして、王国を安寧に導く大切なお言葉を聞き届けて、王太子殿下と共に、少しでもこの国の民が安らかに暮らせるよう尽力しよう。
……それが、王太子殿下の願いでもあるものね。
ベールの中、誰にも悟られない程度に小さく微笑めば、間もなくして神殿の空気が張り詰めるのが分かった。
いよいよ、聖女選定の時なのだ。
「これより、女神の愛し子である聖なる乙女の名を宣言する」
神官長の言葉に、神殿の空気が一層張り詰める。この瞬間ばかりは、思わず私も小さく息を呑んだ。
「女神アデュレリアの名のもとに導かれし、当代の聖女は——」
水を打ったように静まり返る神殿の中、どくどくと早鐘を打つ心臓の音だけが、耳の奥で響いていた。
神官長が僅かに息を吸い込んだ音すらも聞き逃さないとでも言うように、神殿にいるすべての人間が、聖女選定の瞬間を固唾を呑んで見守っている。
数時間にも思える数秒の後に、その瞬間は訪れた。
「――コーデリア・ロードナイトである」
神官長の声の名残が、静寂の神殿の中に響き渡る。
間もなくして、神殿中に神官たちの騒めきが広がった。誰もが自分の耳を疑っていただろう。
それは、私とて例外ではなかった。
だが、あまりの衝撃に声のひとつも上げられず、ただただ茫然と祭壇を見上げることしか出来ない。
「何かの間違いではないのか?」
「今までルーナ様は、女神の声を我々に届けてくださっていたのだぞ……?」
至る所から、私を気遣うような視線が投げかけられる。ベール越しにも、痛いくらいに彼らの視線は突き刺さった。
そんな中、騒めく神官たちの波を押し分けるようにして、一人の少女が颯爽と祭壇の前に歩み出る。ストロベリーブロンドの波打つ髪と、琥珀色の瞳を持つ可憐なその少女のことを、私は良く知っていた。
「姉、様……?」
半身でこちらを振り返り、どこか勝ち誇ったような笑みを愛らしい顔に浮かべる彼女は、私の異母姉、コーデリア・ロードナイトその人だった。
「ルーナ、どうやら女神様が最後に選んだのは、わたくしのようですわね」
「一体、何を……」
今、私の心を占めるのは、ただただ困惑だけだった。
コーデリア姉様が聖女候補として名が挙がったことなど、一度も無かった。彼女が何か特別な力を持っているという話も、今まで一緒に暮らしてきて少しも聞いたことがない。
何より、私は今朝の礼拝でもきちんと女神の声を聞き届けていたのだ。変事がないときの女神様とのやり取りは非常に些細なもので、私が祈りの言葉を捧げれば「我が愛し子ルーナに祝福を」と短く返すだけなのだが、それでもきちんと声は届いていた。
コーデリア姉様は祭壇を背にするようにして、くるりと神官たちに向き直る。人々の注目が、今度はコーデリア姉様ただ一人に集まっていた。
「たった今、聖女として任命された、コーデリア・ロードナイトです。皆様にはこの場をお借りして、告白せねばならないことがあります」
コーデリア姉様は、琥珀色の瞳に涙を浮かべながら、どこか苦し気な表情で告白を始めた。
「……実を言うと、女神様のお声を聞き届けていたのは、初めからわたくしのほうだったのです」
突拍子もない告白に、神官たちが一層動揺するのも無理はない。私だって戸惑っていた。
「ご存知の通り、わたくしは……ルーナとは、半分しか血が繋がっておりません。わたくしの母はお父様の——ロードナイト公爵の後妻です。そのせいか……ルーナは、わたくしとお母様のことが気に入らないようでした」
「っ……何を……」
継母のナタリア様はともかくとして、コーデリア姉様のことを気に入らないと思ったことは一度も無かった。今でこそ距離が出来てしまった私たちだが、昔はそれなりに上手く付き合っていたはずなのに。
コーデリア姉様は私の呼びかけに答える素振りも見せず、琥珀色の瞳にますます涙を浮かべて神官たちに訴えかける。
「今、女神様の前に告白いたしましょう。ルーナは、聖女の名誉が欲しいばかりに、女神様のお声を聞けるというわたくしの力を、自分のものにしていたのです」
神官たちが再びどよめく。こちらに向けられる視線に、僅かながら懐疑の色が混ざり始めている気がしたが、今は神官たちに構っていられる場合ではなかった。
コーデリア姉様は、わざと靴音を響かせて神官たちの注目を集めながら、大袈裟にも思える手ぶりを交えて続けた。
「それでもわたくしは、ルーナを介して結果的に王国の民が救われるのならば、それで良いと思っておりました……。女神様がわたくしに力を分け与えてくださったのは、名誉のためではなく、聖なるこの王国アデュレリアのためですから」
コーデリア姉様の演説は見事なものだった。自身の圧倒的な美貌を最大限に利用して、人々に感情と涙で訴えかけてくる。鈴の音のような可憐さでありながらよく通る声も、一層彼女の言葉を魅力的なものに仕立て上げていた。
「……でも、そんなわたくしに、聡明なる王太子殿下が手を差し伸べてくださったのです」
コーデリア姉様の視線が、甘さを孕んで貴賓席に向けられた。視線を受けた王太子殿下はただ悠然と事の成り行きを見守っているだけで、コーデリア姉様の言葉を否定する素振りは見せない。
それだけで、コーデリア姉様の言葉は嘘ではないのだと神官たちに知らしめるには充分だった。
「ああ、流石は賢王ロヴィーノの再来と謳われる王太子殿下です! 殿下は、誰が聖女なのか正しく見極めていらっしゃったのですわ……!」
コーデリア姉様は、感極まったようにはらはらと涙を流す。
よく出来た歌劇よりも人々の心を揺り動かすことに長けたコーデリア姉様の演説に、私は寒気と共に本能的な嫌悪感を覚えた。それを言葉にすることは、出来なかったけれど。
「殿下は仰いました。共に神聖なる王国アデュレリアを導くのは、真の聖女であるこのわたくしだ、と。王太子殿下のそのお言葉に、わたくしも覚悟を決めて、こうして皆様に真実をお話している次第です」
一息をつくように胸に手を当てたコーデリア姉様の姿を見て、神官たちは口々に疑念の言葉を紡ぎだす。
全員が全員、コーデリア姉様の話を鵜呑みにしているわけではないだろうけれど、神官長が告げた「真の聖女」であるコーデリア姉様の言葉を前に、激しく心を揺さぶられているのは確かなようだった。
何より、王太子殿下がコーデリア姉様の言葉を暗に認めているという事実も、彼女の演説にますます信憑性を増している。
歪な熱が渦巻く神殿の中で、私に向かって抗議の声がちらほらと上げられ始めるのに、そう時間はかからなかった。コーデリア姉様の感情的な演説に当てられた者が、ぽつぽつと出始めたのだ。
やがてその疑念は、大きな波となって数百人の神官たちを包み込む。先ほどまでこちらに崇拝にも似た眼差しを向けていた彼らが、一転して憎悪に翳った目で私を見下ろしていた。
「お前は……今まで女神のしもべたる我々を騙していたのか……!?」
「本物の聖女の力を私欲で利用するなど……前代未聞だぞ!」
ベール越しの霞んだ視界の中でも、彼らの視線と言葉は恐怖以外の何物でもなかった。何か言うべきだと分かっているのに、体が硬直して声が出ない。ともすれば、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだ。
……これは、なに? 一体、どうなっているの?
思わず縋るように視線を彷徨わせた先には、王太子殿下がいらっしゃった。薄いベール越しに二人の視線が絡んだことは確かだったが、彼はほどなくして私から視線を逸らしてしまう。
彼の拒絶は、決定的な痛みとなって私の心を突き刺した。
偽りの聖女——私への糾弾の声が最大限まで高まったころ、コーデリア姉様が再び動きを見せる。
コーデリア姉様は、大きな瞳に溜まった涙を指先で拭いながら、ちらりと私を見やった。その表情は「正義の下に起こした行動とはいえ、異母妹を糾弾してしまった罪悪感を抱いている」という印象を与えるには充分な、とても切なげな表情だ。
「でも、皆様……どうかルーナをお許しください。名誉欲に駆られ、わたくしとお母様を虐げたルーナですが……人は間違えるものです。幸いにも、ルーナが王家に嫁ぐ前に、わたくしが真の聖女であることが明らかになったことで、不実な行いは未然に防がれました」
コーデリア姉様は靴音を響かせて私の前に歩み寄ると、純白の絹手袋に包まれた私の手を取り、祈るように額に当てた。
「……女神アデュレリアよ、どうか、罪深き偽りの聖女にも祝福を。……ルーナの罪は、わたくしの罪ですわ」
はらはらと涙を流しながら、コーデリア姉様は静かに私に笑いかけた。慈愛に満ちたコーデリア姉様の微笑みに、私たちを見守る神官が息を呑む。
今、私はきっと、罪人の烙印を押されたのだ。こんなにも大勢の前で。
だが不思議と湧き起こる感情は、聖女の座を追われるという恐怖よりも、コーデリア姉様が女神様にまつわる嘘をついていることに対する嫌悪の感情だった。
女神様の声を聞いていたのは、紛れもなく私だ。それは、女神様の御意思によって授けられた能力というべきで、たった今コーデリア姉様が付いた嘘は、女神様を愚弄していると言っても過言ではない。
「コーデリア姉様……姉様は、女神様を欺くつもりなのですか?」
彼女の琥珀色の瞳をまっすぐに見据え、静かに問いかける。
偽りの聖女への糾弾の声が止まない神殿の中で、私のその問いかけを正しく聞き届けたのは恐らくコーデリア姉様だけだっただろう。しかしながら、コーデリア姉様は僅かに眉をひそめただけで、私の言葉を無視してすぐさま神官たちに向き直った。
「……ともかく、罪深きルーナの処遇については神殿と公爵家、そして神聖なる王家の皆様と共に決めたいと思います。それまでは、どうか皆様、ルーナをいたずらに傷つけるようなことはなさらないでください」
コーデリア姉様は涙を浮かべたまま、罪人の妹をも気遣う慈愛の聖女を演じてみせた。美しく毅然としたコーデリア姉様の姿に、早くも神官たちの中には恍惚の表情を見せる者もいる。
この場の流れは、完全にコーデリア姉様の手中に収まった。コーデリア姉様は今度は王太子殿下の前に歩み寄り、恭しく礼をすると、誰もが惚れ惚れとするような甘い笑みを彼に向ける。
「……殿下、わたくしとともに、この国を更なる安寧に導きましょう」
コーデリア姉様の声に、王太子殿下は静かに立ち上がると、そっと彼女の手を取った。
「……ああ、王家は真の聖女を歓迎しよう。コーデリア・ロードナイトを当代の聖女として迎え入れる」
王太子殿下は宝物のようにコーデリア姉様の手を握って、祭壇の真上に飾られた女神アデュレリアの徴に笑いかけた。
滅多に感情を露わにしない彼が見せたその笑みは、私が今まで見てきた彼のどんな表情よりも鮮やかだった、美しかった、満ち足りていた。
私はそこで初めて、どうしようもなく自分の胸が痛んでいることに気が付いた。
神官たちからは、私の存在など掻き消すかのように、この国で最も清らかな夫婦となる二人を祝福する声が上がる。
人々の歓声の中、私は、ただ愛する王太子殿下とコーデリア姉様が手を取り合う美しい光景を目に焼き付けていた。心から嬉しそうに微笑む姉様と、大切そうに彼女に寄り添う殿下の姿は、まるで一枚の絵のように幸せに満ちている。
瞬間、胸にじわりと黒い感情が染み渡る。
その感情の名を、私はまだ知らなかった。知らないままに、ただ一粒、大粒の涙をぽたりと零す。
「……殿、下」
人々が熱狂的なまでに王太子殿下とコーデリア姉様を祝福する中、私は生まれて初めて、自分が世界に置いて行かれたような疎外感と孤独感を味わったのだった。
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