第3話 月の聖女の嘆願

 ふらふらとした足取りのままに辿りついたのは、神殿の片隅にある、人気のない礼拝堂の中だった。


 夜も一般向けに解放されている礼拝堂には、所々蝋燭の灯りが灯り、夜の神殿をどこか幻想的に演出している。


 月の光に淡く透けたステンドグラスの光を受けながら、私は祭壇の前にしゃがみ込み、床に膝をついて祈りを捧げた。


「……偉大なる女神アデュレリアの恵みと……祝福に感謝いたします」

 

 我ながら笑えるほどにすっかり気力の抜けた声だ。だが、こんな覇気のない声にも女神様は答えてくださったらしく、心の奥底に爽やかな風が吹き抜ける。陽だまりのような不思議な香りに包まれながら、私は女神の言葉を待った。


 ——我が愛し子ルーナよ。あなたの心が温もりに包まれることを祈っています。


「っ……温もりに……?」


 思わず、自嘲気味な笑みを浮かべてしまう。


 今夜も女神様の返事は非常に些細なものだった。それでも、普段であれば女神様が直接お声を聞かせてくださった、という感動に打ち震えている頃なのだが、今の心の状態ではそのように無邪気に喜べるはずもない。


 初めて直接向けられる人々の悪意、コーデリア姉様と殿下の裏切り、今まで気付きもしなかった自分の傲慢さ。 


 それらのすべてを鮮明に思い出しては、吐き気に襲われた。私が今まで信じていた世界は何と脆く儚かったのだろう。


「女神様……私は、あなたの御許へ参りとうございます。女神様の御許には、歴代の聖女様方がいらっしゃるのでしょう?」


 風も無いのに蝋燭の火が揺れる。私はいつの間にか再び涙を流しながら、笑うように叫んでいた。


「ふふ、もっとも、私が未だあなた様の御許へ参る資格があるかは分からないのですけれど。私は、この国では聖女ではないようなのです。あなたの声を聞けるこの力は……確かに今も、私のもとにあるのに」


 女神様の答えはなかった。基本的に、祈りの言葉と問いかけ意外に返事が返ってくることはないのだ。

 

 それを分かっていても尚、一度溢れ出した言葉はなかなか止まらなかった。


「それとも……私がおかしいのでしょうか。女神様の声を聞けると信じているのは私だけで——」


 と、そこまで言いかけて、自分の言葉でありながら、ぞっと肌が粟立つのを感じた。


 女神様の御前で、女神様の言葉を聞けるというこの能力を否定しようするなんて。


 ……いつの間に私は、これほどまでに追い詰められていたの?


 心臓がどくどくと早鐘を打つ。女神様に疑いの心を持つなんて、私が最も毛嫌いしていることのはずなのに。


 だが、それでも尚拭いきれない疑念が胸の内にこびりついていた。


 私が今聞いていると思っている女神様の声が、実は幻に過ぎなかったとしたら。


 今まで災厄を言い当てられたのはただの偶然で、最初からこの声は存在していないのだとしたら。


 それは、私が見る世界の根本的な部分を揺らしかねない疑念だった。自分が見ているものを信じられなくなったら、その後に残るのは地獄だ。何を頼りに生きていけばいいのか分からなくなってしまう。


「っ……女神様、私は……私は……っ」


 嗚咽を漏らしながら、組んだ指を額に当ててただただ泣きじゃくった。聖女候補であったとき、これほど感情を露わにしたことなどない。このところ涙を流すことが多かったとはいえ、ここまで泣くのは物心がついて以来初めてのことだった。


 泣くのは、こんなにも苦しいことなのか。息をするタイミングすら見失ってしまいそうだ。


 涙が頬に纏わりつく不快な感覚に、必死で頬を拭い続けた。それでもあとからあとから涙が零れ落ちてくる。どうやって止めるべきなのか分からない。涙の止め方など誰も、教えてはくれなかったのだから。


 それから、どれくらい泣き続けただろう。自分の嗚咽だけが響く礼拝堂の空気が、途端に張り詰めたものに変わった。


 泣きじゃくってい私だが、これにははっとして顔を上げる。一人で静かな場所で祈ることが多かったせいか、私は人の気配に人一倍敏感だった。


 だが、礼拝堂を見渡してみても人影は見当たらない。その割に、一層緊張感が増したような空気に、何とも言えない気持ち悪さを感じた。


「……どなたか、いらっしゃるのですか?」


 泣き疲れた情けない声で問いかけた瞬間、白い柱の陰から真っ黒な人影がこちらに向かって飛びかかってきた。当然咄嗟に避ける技術など私にあるはずもなく、突然、襲撃者の持っていた剣が右肩に振り下ろされる。


 月の光の中、ぱっとと飛び散る鮮やかな赤を、私はどこか茫然とした心地で眺めていた。


 ……これは、何? どうして私、斬られているの?


「っ……‼」


 生理的な涙があふれ、私は突如自身を襲った激痛に声もなく耐えた。ただでさえ泣きつかれていたせいか、叫びだす気力すらも残されていなかったのだ。


「ちっ……こっちの気配に気づく人間だなんてきいてねえぞ……」


 苛立ったような見知らぬ男の声に、戦慄する。声を聞く限りでは刺客は一人のようだが、どうやら彼は私の命を狙っているようだ。


 それを悟るなり、私は震える足で無理やり立ち上がると、逃亡を開始した。


「待てっ!」


 男の叫ぶ声と共に、足音が近づいてくる。どうして命を狙われているのかも分からないままに、ただただ懸命に走った。


 幸い、神殿は私の庭のようなものだ。そこらの侵入者より私の方が、余程神殿の作りには精通している。隠し扉だって一通り頭に入っていた。


 だが、問題は、逃げ切れるまで私の体力が持つかどうか、という点だった。聖女候補として生きてきた日々の中では、当然ながら日常的に激しく体を動かすようなことはなかったのだ。


 しかも私は、暇さえあれば礼拝堂に籠って女神様とお話をしていた。私の体力は、同年代の令嬢と比べても格段に劣っていると言わざるを得ない。


 既に、右肩の出血も相まって、私の体は限界を迎えようとしていた。複雑な神殿の回廊を利用して、何とか刺客との距離を保つことには成功しているが、それも時間の問題だろう。


 走りながら何とか記憶を手繰り寄せ、ある書斎から繋がる礼拝堂に身を隠すことに決めた。


 男との距離をぎりぎり保ちながら書斎に飛び込むと、本棚の影の壁を押し当て、素早く隠し扉に身を滑らせる。音もなくすぐに隠し扉が閉じたことを確認し、小さな礼拝堂を駆け抜けて、私は祭壇の下に身を潜めた。


 ここは、神官長の母君がよく使っていたという、秘密の礼拝堂だ。たまたまこの場所を見つけた私に、神官長はどこか懐かしそうに語ってくれたものだ。


 思いがけず失った日々のことを思い出しながら、祭壇の下で自らの口に手を当てて、何とか呼吸を整えた。深呼吸をする度に、ぼたぼたと右肩から血が滴り落ちる。


 ぱっくりと開いた傷は、見ていると余計に痛みを訴えるようだった。どくどくと溢れる血を何とか抑え込むように右肩に手を置くが、指の間から生温かい液体が擦り抜けていく。これには思わず、力なく祭壇にもたれかかった。


 礼拝堂の外では男たちが何やら言い争う声が聞こえてきた。先ほどは一人しか見かけなかったが、どうやら仲間がいたらしい。


 もしかすると、先ほどの男はただ私を見張っていただけで、まだ襲撃する準備は整えていなかったのかもしれない。私が男の気配に気づいてしまったから、慌てて襲撃を決行したというだけで。


 三日前までならば、刺客に心当たりなどないと言い切れただろうが、今はまるで逆だ。公爵家でも王家でも神殿でも、あるいは偽りの聖女の存在に怒りを覚えた敬虔な信者でも、誰にだって今の私を殺すだけの動機がある。


 ……むしろ、私に生きていてほしいと願う人が、誰か一人でもいるのかしら。


 大量の血を失い、霞み始める意識の中で、思わず元聖女候補とも思えぬ皮肉気な笑みを零してしまった。


 悲劇に酔うつもりなどないが、きっと、このまま自分が死んでしまっても、誰も悲しまないのだろう。それは、予感ではなく確信だった。


 祭壇にもたれかかりながら、天井付近に飾られた女神アデュレリアの印を見上げ、ふっと頬を緩める。


 ……せめて、礼拝堂で終わることが出来たのは、幸運だったと言うべきかしらね。


 神聖なる神殿が、自分の血で汚れてしまうことは気がかりだったが、最後にこのくらいの我儘は許してほしい。こうして女神の存在を身近に感じていれば、薄れゆく意識に抗うことも無く、静かに死を受け入れられるような気がしたのだ。


 ……女神様の御許に、私も行くことが許されるのかしら。


 歴代の聖女は、女神の傍でこの国を見守っているという言い伝えがある。私が会ったことがあるのは先代の聖女だけだが、とても優しく、美しい人だった。


 彼女の能力は「自らが最も愛する者の異変を予知できる」という非常に限定的なものだったが、国王を心から愛していた彼女は、国王に降りかかる災難や病を事前に防ぐことに成功し、結果的に王家の力となった聖女だ。


 ――エリアルとこの国を、よろしくお願いしますね、ルーナ様。


 先代聖女と会ったときの記憶が、走馬灯のように蘇る。彼女はもう随分前に亡くなっているので、もしかすると、女神の傍から自分のことを迎えに来てくれているのかもしれない。


 まさかこんな絶望の中、一人ぼっちで命を落とすことになるなんて。やっぱり皮肉気な笑みは拭い切れなかったが、どうしてか先ほどよりもずっと穏やかな心地だった。


 よくよく考えてみれば、最後の三日間を除いては、そう悪くもない人生だったのかもしれない。女神様に祈りを捧げ続け、聖女の力が目当てだったとしても、人の優しさに触れることが出来たのだから。


 そうだ、今は素敵なことだけを思い出そう。最後の三日間の悪夢で、この人生で触れた人の優しさも嬉しかったことも何もかもを台無しにしてしまうのはつまらない。


 大好きだった人たちのことを思い出せば、自然と頬が緩む。そっと瞼を閉じれば、まるで走馬灯のように鮮やかに蘇った。


 女神様の声、肖像画の中で微笑むお母様のお顔、初めて会った日に耳にしたコーデリア姉様の言葉、そして、民を守る王になるのだと使命感に燃えていた幼い殿下の輝く深緑の瞳と、ほんのわずかに微笑むような、殿下の、柔らかい眼差し。


 そのすべてが、私の宝物だった。

 

 血を失ったせいか、凍えるような寒気に肩が震えるが、微睡むように曖昧になっていく意識の中では、不思議と気にはならなかった。次第に、抗いがたい眠気に襲われる。


 このまま眠ってしまえば、二度とこの世界をこの目に映すことはないのだろう。その予感に、最後にゆっくりと瞼を開くと、月影の美しさを目に焼き付けた。睫毛が小刻みに震える。


「……綺麗、ね」


 つうっと頬を流れ落ちる涙が、どんな感情から来ているものなのかも分からない。分からなかったが、こんな穏やかな終わりを迎えられるのなら悪くない、という気持ちがあるのは確かだった。


 これで、最後。月影を思う存分目に焼き付けて、いよいよ瞼を閉じようとしたそのとき——。


 不意に、礼拝堂の隠し扉が乱雑に開かれる音が響いたのだった。

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