第4話 漆黒の侵入者

「っ……」


 突然の侵入者の登場に、静かに死を迎えようとしていたことが嘘のように意識が覚醒する。穏やかなリズムを保っていた心臓が、途端に早鐘を打ち始めた。


 思わず両手で口元を抑え、何とか気配を殺そうと試みる。


 比較的背が小さいおかげで、私は今、祭壇の下にすっぽりと身を隠してしまっている。上手くいけば見つからないかもしれない。随分と自分に都合のいい予測だったが、縋らずにはいられなかった。


 ……それとも、私には、穏やかに死ぬことすらも許されないのかしら。


 神秘的な月の光に包まれて、静かに息を引き取ることを夢見ていたのだが、近づく侵入者の足音が、その淡い願いすらも危ういものへ変えてしまう。


 今度は、どこを傷つけられるのだろう。もう逃げる気力など残されていないから、今度こそ、きっとあっという間に殺されてしまう。その予感に、ただただ小さく身を震わせた。


 鋭い剣で胸を貫かれるのは、どれだけ痛いだろうか。想像するだけで身が竦み、一層脈が早まった。だが、声を出すわけにはいかない。


 ……女神アデュレリアよ、どうか、最後のお慈悲を。


 私は声もなく女神様に祈った。せめて安らかな終わりを迎え、穏やかな心地であなたのもとへ向かいたいのだと、縋るように願った。


 だが、侵入者は私の最後の祈りすら、いとも簡単に打ち砕いてしまう。


 こつこつと響いていた足音が、ゆっくりと祭壇を回り込み、女神アデュレリアの紋を背にするようにして、私の前に立ちはだかったのだ。


 終わった。見つかってしまった。


 顔を上げることも無く、男の黒い革靴と、床に向けられた鋭い剣先だけを視界に収める。月光を反射する銀色の剣先からは、ぽたぽたと真っ赤な血が滴っていた。


 その血は一体、誰の血なのだろう。私を探し回る中で、罪のない神殿の関係者が手にかけられていたりしたら、あまりの罪悪感におかしくなりそうだ。


「……ここにいたのか」


 心地の良いその美声には、覚えがあった。どくん、と心臓が大きく跳ねる。


「っ……」


 勢いよく顔を上げれば、そこにいたのはこともあろうに、この国の王太子エリアル・アデュレリアその人だった。


 月の光を受けた黒髪は、普段より一層青みがかって見えて、王家の象徴たる深緑の瞳は、私だけを映し出している。


「……殿、下?」


 身を震わせながら、思わず食い入るように目の前に立つ青年を見上げた。


 彼の服装は、先ほど公爵家で見かけた礼服姿のままだが、その所々に血が飛び散っており、襟元も軽く乱れている。明らかに穏やかな様子ではないのに、思わず目を逸らせないほどの怪しげな色気を漂わせていた。


「……怪我をしているのか」


 殿下は私の右肩に目を留めると、視線を合わせるようにしゃがみ込んで、長い指先を私の肩に添えた。


 人に触れられ慣れていないせいか、失礼だと思いつつも、それだけで反射的にびくりと肩を震わせてしまう。申し訳なさと彼の纏う不穏な空気に、思わずぎゅっと目をつぶってしまった。


「……殿下は、どうしてこちらに?」


 軽く俯いたまま、そっと自らの指先を握りしめる。剣を持っているというのに、私を見てすぐさま殺さないということは、あの刺客たちは殿下の手の者ではないのだろうか。


 私の少し乱れた呼吸音だけが響く沈黙の中、恐る恐る、再び殿下を見上げてみる。


「……私を、助けてくださったのですか?」


 二人の視線が、こんなにも近い距離で直接合ったのは何年ぶりだろう。私はいつでも素顔を隠すようにベールをかぶっていたので、明瞭な視界の中で初恋の人を見つめるのは、何だか新鮮な気持ちだった。


「どうだろうな。……君にとっては、あいつらよりも俺の方が、ずっとおぞましく映るかもしれない」


 彼は意味ありげな笑みを浮かべると、手の甲でそっと私の頬を撫でた。肌を掠めるようなその感触に、再び肩を震わせてしまう。


「……どういう、意味でしょうか?」


「そのままの意味だ。俺は……君を捕まえに来た」


 怪しげな笑みを浮かべる殿下を前に、本能的な恐怖を感じてしまう。そのまま、彼と距離を取るようにじりじりと後退ったが、すぐに祭壇が背中に当たってしまう。


「そう逃げないでくれ。君に怯えられると悲しい」


 溜息交じりの殿下の笑みは、どうしてかこの上なく不穏なものに思えた。「捕まえる」という彼の言葉といい、やはり、どうにも穏やかではない。


「そ、れは……私を偽りの聖女だとお思いだからこそのお言葉ですか?」


「いいや、君を君だと思うからこその言葉だ」


 真意の見えない言葉を前に、ただただ身を震わせてしまう。普段は滅多に微笑むことも無い彼が、恍惚にも近い表情を浮かべて私を見ていることもまた、不吉な予感を呼び起こしていた。


「私を捕まえて……どうなさるおつもりなの……?」


 私の問いかけに、彼は僅かに笑みを深めた。甘ささえ感じるその表情は、恐ろしいほどに美しかったが、今は不穏な空気を助長するばかりだ。


「君が二度と女神の目に触れないよう、堕とすだけだ。怖がることはない」


「っ……」


 その言葉の意味の全てを図ることはできなかったが、どうやらこのまま彼の手に身を委ねるわけにはいかないようだ。


 女神の目に触れないようにする、というあまりにもおぞましい言葉を前に、女神の愛し子とまで呼ばれた私が、素直に頷けるはずもない。


 逃げなければ。


 静かに死を迎え入れる覚悟を決めていたが、もう一度だけ逃走劇を繰り広げる決意を固めた。


 神殿の中には殿下の手の者ではない刺客もいる。まず、生きては抜け出せないだろう。


 でも、いい。それでもいい。女神様から引き離されて堕とされるくらいならば、ここで死んでしまった方がずっといい。


 一瞬だけ殿下を睨むように一瞥した後、私は最後の力を振り絞ってその場に立ち上がった。


 無謀だと言うことは分かっている。だが、抗わないわけにはいかないのだ。


 ……少しでも、殿下との距離を稼ぐことが出来れば、きっと——。


 最寄りの隠し扉はどこかと記憶を辿り始めるも、殿下はそう甘くなかった。


 不意に腕を掴まれたかと思えば、抵抗虚しく、気づけば私は祭壇の上に押し倒されていたのだ。


 殿下の目にもとまらぬ素早さに驚きを隠せずにいると、彼の持っていた銀の剣が、私の首筋すれすれに勢いよく突き刺さる。


 月の光を裂くように、私の長い銀髪の一部がぷつりと切れた。


 だが、今はそんな些細なことに構っていられる余裕などない。思わず目を瞠って、剣を突きつける殿下を見上げた。きっと、私は今、ひどく怯えた顔をしているのだろう。


「逃げようだなんて、考えないでくれ。君に乱暴なことはしたくないんだ」


 彼は、先ほどと何ら変わらぬ恍惚を含んだ笑みで、私の頬を撫でた。


「俺が、どれだけこの瞬間を待ち望んでいたか……君に分かるだろうか、ルーナ」


 私はやはり、怯えたような目で彼を見つめ返すことしか出来ない。漆黒の礼服に身を包んだ初恋の人が、今ばかりはまるで死神のように見えた。


「女神に別れを告げろ、ルーナ。今、この場所で」


 微笑みながらも、どこか冷え切った声で彼は告げた。首元に剣を突きつけられているこの状況では、普通であれば抗いようのない命令だったが、それでも尚、私は小さく首を横に振った。


「嫌……嫌です、殿下。誰が何と言おうと、私は女神様の声と共にあるのです」

 

 自分でも不思議なくらいに、凛とした声が出た。殿下はどこか不快そうに眉を顰める。


「……命を天秤にかけても、同じことを言えるのか?」


 彼は祭壇に突き刺した剣を引き抜き、剣先を私の首筋に当てた。切れ味の良い銀の剣は、肌を容易く傷つけ、剣先が触れた場所から僅かに血が滲む感覚がある。


「命より大切なものもありますわ、殿下」


「……君にとって、それは女神アデュレリアだと?」


 殿下の声が、次第に遠ざかる。まずい、今、彼の前で意識を失うなんて自殺行為だ。


「ええ……そうですわ……」


 何とか声を絞り出すも、これが限界なのだと頭のどこかで分かっていた。


 ……ああ、最後にもう一度だけ、女神様に祈りを捧げたかったわね。

 

 悔やまれることは多いが、それでも不思議と、心は次第に落ち着きを見せ始めていた。


 女神様と初恋の人の前で命を絶つことが出来るなんて。


 女神様はともかく、殿下は見守ってくださっているというにはあまりに不穏な雰囲気を纏っているけれど、だんだんと恐怖は薄れていった。


 霞む視界の中で、睨むように私を見下ろす殿下に弱々しく微笑みかける。


 ……最後に一言、お慕い申し上げておりました、なんて言っても罰は当たらなかったかしら。


 結局、彼への想いを言葉にすることは叶わず、月影の中、私は秘めた初恋と共に、静かで深い眠りについたのだった。

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