幕間5 「聖女」様のお母様
ルーナとの短い面会を終えた後、私は王城の私室に戻り、聖女の装束を適当にくつろがせて、ベッドに横になっていた。胸元の貝殻のペンダントを摘まみ上げ、いつものように「彼」に語り掛ける。
「聞いてよ、ジル。ルーナったら、とっても綺麗になっていたわ。淡い色合いも儚げで素敵だけれど、ああいう濃い色も似合うのね」
正直私なら、ルーナに黒を着せてみようとは思わなかっただろう。殿下が黒いドレスを用意したのは、恐らくはルーナに聖女の掟を破らせ、彼女を少しでも聖女から遠い存在にしようとしたためだと思うが、結果的に良く似合っている。
「あるいは、ご自分の髪色のドレスを着させたかったのかしら? ふふ、それならそのうち殿下の瞳と同じ深緑色のドレスを贈ってあげなくちゃね。……あの子が着るかは別だけれど」
貝殻からは当然ながら答えなど返ってこない。でもジルならきっと「それは名案だな、お嬢様」と笑ってくれるはずだ。
「……ジルが生きていたのなら私も、海色のドレスを着ていたのかしら」
記憶の中でも色褪せることの無い、恋しい彼の美しい瞳の色。彼の瞳は、温かくて、ゆったりとしていて、溺れてしまいそうなほどに愛おしい海の色だった。
想い人の瞳の色と同じ色のドレスを着るのはこの国の流行だ。可愛らしい風習だと思う。
「ふふ、でも、白い服はあなたの髪と同じ色ね。そう思えばこの服も悪くもないかしら」
ジルの雪のように真っ白な柔らかな髪を思い出す。頭を撫でたら、顔を真っ赤にして慌てていたんだっけ。
……あの時、唇くらい奪えばよかったわ。私の意気地なし。
私とジルは最期まで、幼馴染でしかなかった。自惚れでなければ彼も私を憎からず思っていてくれたはずだけれど、お互いその想いを口にすることはなかった。
彼と一度きりの抱擁を交わしたのだって、彼が亡くなるほんの数日前の出来事だったのだ。恐らくはあれが、私の人生で最も輝かしい日だった。
◆ ◆ ◆
その日、私は御稽古ごとの合間を縫って、いつものようにジルに会いに来ていた。
公爵邸の庭師として本格的に働き始めていた彼は、頼りがいのある青年に成長していた。
庭仕事をしているせいで日焼けは避けて通れないものだと言うのに、ジルはどうやら皮が捲れるばかりで色が残らない体質らしく、青年になっても白い肌をしていたものだ。
「また赤くなっているわ。何か良いお薬があればいいのだけれど……」
赤くなったジルの腕を撫でながら、何とか出来ないものかと頭を悩ませていると、彼はどこか戸惑うようなそぶりを見せて私を引き離す。
「……公爵令嬢様がそんなに気安く男に触らないでくださいよ。叱られても知りませんよ」
「あら、ジルは例外だと思わなくって?」
「はいはい、どうせ俺はお嬢様の警戒対象にも入らない庭師見習いの少年のままですよー」
「拗ねちゃったの? 別にそういうことを言っているわけではないのだけれど」
片目を瞑りながら至近距離でジルを揶揄えば、彼はやっぱり海色の瞳を揺らがせて私から顔を背けた。耳の端が赤く染まっているのが可愛い。
「俺はお嬢様が心配ですよ。貴族の連中にもそういうことを言って回っているんじゃないかって」
「あら、意外に嫉妬深いのね、ジル。心配しなくてもこんなことを言う相手はあなただけよ」
「嫉妬って……はあ」
ジルは大げさな溜息をついたかと思うと、ふと、思い出したように懐から小さな袋を取り出した。
「……これ、お嬢様には相応しくないとは思いますが、差し上げます。前、貝殻が欲しいって言っていたでしょう。たまたま海に立ち寄って、たまたま綺麗な貝殻があったので、拾ってきたんです」
「偶然に偶然が重なったの? まあ、そういうことにしておいてあげるわ」
ジルからの贈り物なんて初めてだ。私は胸を高鳴らせながら、そっと袋の中から貝殻を取り出した。
それは、ジルの瞳を思わせる温かな海の色を纏った、親指の爪ほどの小さな巻貝だった。僅かに淡い色合いの砂粒がついていて、目の前に鮮やかな海の絶景が浮かび上がるようだ。
「素敵……なんて美しいのかしら」
ほう、と溜息をつきながら貝殻を指先で撫でる。水が重なり合う波の音が聞こえてきそうだ。
「ありがとう、ジル! わたくし、これを一生の宝物にするわ!」
素敵な貝殻を貰った嬉しさのままに、思わずジルを抱きしめる。いつの間にか二人の身長は随分差が出来てしまって、頭一つ分高い場所にある彼の顔をそっと見上げてみた。
「……っ」
目が合うなり、ジルはたちまち頬を赤らめた。思えばこんな至近距離で彼に微笑みかけたのは初めてだ。
彼が大袈裟な位に照れるから、何だか私にまで気恥ずかしさが移ってしまった。ジルのせいだ、と心のどこかで恨めしく思いながら、そっと彼の心臓の音に耳を澄ませる。ジルに貰った貝殻を握りしめながら、規則正しい鼓動の音を聞くその瞬間は、かつてないほど満ち足りていた。
ジルはすぐさま私のことを引き離すかと思ったのに、意外なことに彼の大きな手が私の後頭部に添えられた。やがて、その手はどこかぎこちない仕草のまま、髪を梳くようにゆっくりと撫で下ろされる。
猫にでもなった気分だ。何て心地が良いのだろう。そのまま、思わず目を細めて彼の胸に頭を預けてしまう。
「……やっぱり、俺はお嬢様が心配です。こんなにも無防備な姿ばかり晒して、悪い虫がたくさんついてしまいそうだ」
いつになく真剣な彼の声。僅かに震えているのはどんな感情からなのだろう。
「悪い虫を取り除くのはジルの得意分野でしょう? いつもお庭をこんなに綺麗にしてくれているじゃない」
敢えてとぼけたような返答をして彼を困らせてみれば、案の定、苦笑交じりの溜息が漏れ聞こえてきた。
「俺に、悪い虫を追い払えるだけの身分と力があればよかったんですが」
諦めの滲んだその声に、何だか私まで切なくなる。どうにもならないことだと分かっていても、いざ口に出されると心の奥が搔き乱されるような感覚に陥った。
分かっている。どれだけ親しかろうと私たちは公爵令嬢と庭師。結ばれる未来などないのだ。
愛人の子どものままであれば、まだ話は違ったのかもしれないが、今や私は正式な公爵令嬢だ。酷く自分勝手な理由から、前公爵夫人であるステラ様が亡くなったことを残念に思ってしまった。
「……それでも私は、あなたを離さないわ」
愛の告白めいた言葉に纏わりつく熱を誤魔化すように、そっと彼の体を抱きしめた。お日様の香りがする。
「残酷なお嬢様だ」
ジルはふっと笑って、もう一度だけ私の頭を撫でた。窺うように彼の顔を見上げれば、言葉とは裏腹に口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……せいぜいこれからも綺麗な花を咲かせてあげますよ。俺がお嬢様にできることは、それだけですから」
ジルの指が、私の髪を梳く。名残惜しそうに一度だけ指先に絡められた毛先は、すぐにするりとほどけてしまった。
「さあ、もうお屋敷の中へお戻りください。あんまり外にいると日焼けしてしまいますよ」
ジルはそっと私の肩に手を添えて、体を引き離した。お日様の香りを帯びた温もりが遠ざかっていく。もっと触れていたかったのに。
「……そうね。ジルも、お仕事頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
周りの空気までもがぱっと明るくなるような笑みを浮かべて、ジルは私に別れを告げた。私もまた、彼に小さく手を振って屋敷へ戻る。彼に貰ったばかりの貝殻をどうやって保管しようか、と小さな幸せを噛みしめながら。
結果的に言えばこれが、私とジルの最後の平穏な会話だった。彼との別れは唐突に残酷に、夏の終わりのある日に訪れたのだから。
ジルの姿が見えない、との報告を受けたのは、その翌日の夕暮れのことだった。
その日は一日中レッスンやらドレスの採寸やらをしていたせいで、彼に会いに行く時間がなかった。もともと毎日会っていたわけでもないのでそれほど気にしていなかったのだが、彼の庭師仲間から告げられたその報告には妙に胸騒ぎがした。
「あいつは勝手に休むような奴じゃありません。……お嬢様なら、何かご存知かと思ったのですが……すみません、もっとこっちで捜してみます」
一日休んだだけという割には。妙に焦るような庭師の姿に、余計に引っかかりを覚える。私は思わず身を乗り出すようにして庭師を問い詰めた。
「……何か気にかかることでもあるの? 話してごらんなさい」
ジルに関わることを話しているせいか、我ながら緊張感の漂う声だった。庭師はどこかきまり悪そうにしばし視線を泳がせたのちに、ぽつぽつと語り始める。
「……実は、先日海へ行ったときに、あいつが妙なものを見たと言っておりまして……。その、神殿の神官様たちが、路地裏で鎖に繋がれた子どもを連れて何やら男たちと話し込んでいたと言うんです。俺は見なかったことにしようと言ったんですが……あいつは子供が傷つけられているのは許せない、とか言ってしばらく様子を見ていたようで……」
「神官たちが……?」
不穏な話だ。もともと神殿が裏で何やら怪しげな取引をしている、との噂は聞いたことがある。どんな組織にも裏の顔はあるだろうから、それほど気にしていなかったのだが、正義感の強いジルは見過せなかったのかもしれない。
「っ……神殿に行くわ」
「お嬢様……!?」
「あなたも一緒に来て。どの地区の神殿なのか、教えてほしいの」
「しかし……」
庭師が狼狽えている間に私は手元のベルを鳴らし、メイドを呼びつけた。お忍び用の服装を用意するように告げ、早速支度にとりかかる。
胸騒ぎが止まない。妙に早まったこの鼓動を、ジルに一刻も早く静めて欲しかった。
庭師の案内の許に連れられてやって来た神殿は、公爵邸がある地区に隣接した場所にある神殿だった。海岸線の近い、のどかな街だ。
「ジルが見たという神官たちは、恐らくこの神殿に所属している者なのでしょうね……」
神殿は王都にある本殿の他にもいくつか支部がある。ここはその支部のうちの一つだった。
支部に当たる神殿では、人探しも慈善事業の一つとして行っている。迷子を保護したり、行倒れている人を助けたりしているうちに派生したものらしいが、これは好都合だ。神官たちの出方を探る意味でも、直接尋ねてみようと決めていた。
街娘風の服に着替えた私は、ストロベリーブロンドの髪を目立たないように三つ編みに編んで、神殿を訪れた。礼拝に訪れた人々が点在しているので、誰も私たちには気を留めない。
「あいつです、お嬢様。俺たちが見た神官」
庭師がそっと耳打ちするように私に教えてくれた。中年の、鳶色の髪の男だった。神官の服装にはそれほど詳しくないのだが、それなりに位は高そうだ。
直接接触するのは危険を伴うのかもしれないが、ジルのためだと思えば不思議と怖くなかった。これでも私は演技力と人の演技を見抜くのには自信がある。屋敷の使用人の子どもたちとお芝居で遊んでいるうちに、自然と身についた特技だった。
ジルが私を正しい道に導いてくれたおかげで身についた特技だ。これをジルのために生かせるのならばそれほど嬉しいことはない。
早速偶然を装って、私は鳶色の髪の神官に接触した。公爵令嬢だと悟られるわけにはいかない。あくまでも憐れな街娘を演じながら。
「……神官様、どうかお助け下さい。私の恋人が、昨日から帰ってこないのです。こちらの神殿では迷い人を保護していると伺いました。白い髪に、海のような青い瞳の青年なのですが……こちらにお世話になってはいないでしょうか」
両目に涙を浮かべながら、縋るように神官に訊ねる。しかし決して視線はそらさずに、神官の僅かな動きも見逃すまいと気を張った。
白い髪に海のような青い瞳の青年。ジルのことを知っているのならば、すぐに結びつくはずだ。それくらい、彼の色彩は珍しいものなのだから。
思った通り、神官の瞳が僅かに揺れた。一瞬だけ探るような目を私に向けたが、私が情けなくぼろぼろと泣きじゃくっているせいか、すぐに警戒の色は薄れる。
「……さあ、こちらではそのような人物に心当たりはありませんな。他の神殿に行ってみるのも手かもしれませんぞ。……女神アデュレリアの祝福を」
敬虔な信者らしく、神官は指を組んで私に祈りを捧げた。私は嗚咽を漏らしながら、最後まで神官の動きを見張る。
祈りの直後、神官はどこか煩わしそうに私を見た。これにはやはり引っかかりを覚える。
私は深々と頭を下げながら、神官が立ち去るのを待った。明確な証拠はないが、ジルがこの神殿にまつわる何かと関わっている可能性は高い。
もう少し、探ってみようか。私は頭を上げ、顔を隠すように外套のフードを深く被り直した。
「お嬢様……」
遠くで見守っていた庭師が不安そうに私に合流する。
「神殿の周りを確認するわよ。ジルに繋がる何かがここにあるかもしれないわ」
「……お嬢様、人を向かわせましょう。お嬢様お一人で捜索するのは危険です」
もっともな助言だったが、従うわけにはいかなかった。悠長なことをして、ジルに何かがあってからでは遅いのだ。
「……ジルは大切な人なの。わたくしの手で見つけ出さなくちゃ」
ジルの友人なら私とジルの関係性を知っているはずだ。ただのお嬢様と庭師ではなく、もう何年もの付き合いがある幼馴染なのだと言うことを。
庭師は渋々ながら一度だけ頷くと、私について来てくれた。神殿を出た私たちは、人目を忍びながら、早速建物の周りを確認する。
神殿には、不届き者を捕らえる牢屋があるのだと聞いたことがある。ジルがもしも捕まっているのだとしたら、そのような場所にいるはずだ。
神殿の周りには木々が並んでいて、まるでちょっとした森のような雰囲気だった。
生い茂る草を掻き分けながら、庭師が辺りを警戒しつつ私を先導してくれる。ここまで付き合わせるつもりはなかったのだが、彼にとってもジルは大切な友人のようで、私を一人で行かせることはしなかった。
開いた窓から漏れ義越えるのは、信者や神官たちの祈りの声ばかりだ。神聖なはずのその言葉が、今ばかりは不気味に思えて仕方がない。
間もなくして庭師が、何かに気づいたように立ち止まり、私に壁際に寄るように指示を出す。おとなしくそれに従いながら、周囲の音に聞き耳を立てていると、祈りの言葉でも聖歌でもない、何やら乱暴な笑い声が聞こえてきた。
「さっきお前の恋人とかいうお嬢ちゃんが訪ねて来たぞ。可愛い顔をしていたな、なかなかやるじゃないか」
下卑た笑い声の後に響く鈍い音。さっと血の気が引くには充分だった。先ほど私が接触した神官の声だ。
「可哀想に、泣きじゃくっていたなあ……。余計なことに首を突っ込まなければ、今頃あの子の待つ家に帰れたってのに……」
再び響く鈍い音。今度は呻くような苦し気な声も聞こえてきた。それを嘲笑うかのような、耳障りな笑い声が混じる。
「さてと……そろそろ終わりにするか。最後の祈りでも捧げとけよ」
妙に不穏な言葉を残して、神官の足音が遠ざかる。庭師に合図されるまでもなく、私はすぐさま声が聞こえてきた方へと駆けだした。
そこには、鉄格子がはめ込まれた小さな小窓らしきものがあった。部屋は地下に続いているのか、小窓から室内を見下ろすような形だ。
石畳の冷たい地下牢の中に、私の探し求めている人はいた。錆びた鎖に足を繋がれて、やけにぐったりとした様子で。
「っジル!」
我ながら悲痛な声が出た。ジルの周りには血だまりが広がっていて、殴られたような跡や、ナイフで切り付けられたような生々しい傷跡がある。
ジルはどこか気だるそうに顔を上げると、私と目が合うなりさっと顔色を青くした。殴られて変形した顔に、明らかな焦りが浮かぶ。
「っ……お嬢様!? どうしてこんなところに……っ」
「それはこちらの台詞よ! なんてひどい……」
地下牢から漂う血の臭いに思わず顔をしかめる。これが彼の血だと考えただけで涙が出そうだった。
「……余計なことに首を突っ込んだのが間違いでした。どうやら俺は、魔の者を防ぐ人柱にされるようですよ」
冗談めかした言葉とは裏腹に、彼の海色の瞳には絶望が浮かんでいた。人柱という言葉に、余計に血の気が引いていく。
「何を馬鹿なことを……っ」
どう考えてもこれは人柱などではなく、口封じだ。女神アデュレリアが魔の者を防ぐための人柱を望んでいるなんて、次代の聖女であるルーナは一言も言っていない。
「とにかく、すぐに助けるわ! 待ってて」
そうこうしている間にも、庭師は何とか鉄格子がはずれないか画策しているようだった。だが、当然ながらびくともしない。
これは一刻も早く人を呼ばなければ。そう思い立ち上がろうとした瞬間、不意にジルがぼろぼろの体でふらりと立ち上がった。それと同時に、おびただしい量の血がぼたぼたと石畳の床に落ちる。
「っ……動いちゃ駄目よジル!」
思わず悲鳴を上げるも、ジルガ弱々しく小窓に手を伸ばしたのを見て、はっとした。彼の指の何本かには爪がなく、悪戯に拷問まがいの仕打ちを受けたと察するには充分だった。
「お嬢様……」
思わず鉄格子の間に目一杯腕を滑り込ませて、彼に手を伸ばす。狭い部屋なので、何とか彼の手と触れ合うことが出来た。
「最期にご無礼をお許しください」
ジルは泣き出しそうな顔で笑ったかと思うと、ゆっくりと私の手に口付けを落とした。宝物に触れるようなその手つきに、ぽたりと一粒の涙が零れ落ちる。
ジルは切なげに表情を歪めたかと思うと、決して叶わない何かを切望するような眼差しで私を見上げた。ぎゅっと心臓を握りつぶされるような苦しさを覚える。
「……悪い虫がつかないようにおまじないをかけておきましたよ。これでも庭仕事の腕は一流なんで」
冗談めかしてジルは笑い、さりげなく私の隣の庭師に目配せをする。嫌な予感が収まらない。
「駄目、駄目よジル、どうしてそんなお別れみたいなことを言うのよ……!」
ジルは答えなかった。ぼろぼろと零れ落ちた涙の一粒が、ジルの頬に降り注ぐ。
「お幸せに、お嬢様。生まれ変わったら花にでもなりますかね。生憎、俺にはお嬢様の目を楽しませることくらいしか能がないもので」
いつものようにぱっと明るい笑顔を見せて、ジルは手を離した。その瞬間、隣の庭師に引き寄せられる。
「お嬢様、今すぐここを離れましょう。ここにいてはお嬢様も危ない」
焦ったような庭師の声に、私はただただ首を横に振り続ける。嫌だ、今ここから立ち去ったらきっと、二度とジルの顔を見られない。
「嫌っ、ジル! ジルっ」
泣きじゃくる私を、庭師が必死に鉄格子から引きはがす。そのまま殆ど抱えられるようにして、私はその場から連れ出されてしまった。
「ジル!!」
間もなくして、夏の終わりの生温い風の中に、愛しい人の断末魔を聞いた気がした。紛れもなくそれは、私とジルの終着点だったのだ。
◆ ◆ ◆
嫌なことを思い出してしまった、と、ベッドの上で一人深い溜息をつく。貝殻を壊さない程度に、ペンダントを握りしめる力をそっと強めた。
あの日を最後に、ジルが帰ってくることはなかった。身元不明の行倒れの人々と共に、神殿に秘密裏に葬られたのだろうと思う。
ジルはどれだけ苦しかっただろうか、痛かっただろうか。それを思うだけで、ふつふつと神殿への怒りが湧いてくる。
あの場所は腐りきっている。中にはルーナのように心から女神を信じている敬虔な神官もいるのかもしれないが、殆どが裏の顔を持っていて、命を命とも思っていないような残酷な悪行を繰り返しているのだ。
これを機に、女神アデュレリアまでもを恨むのはお門違いなのかもしれないが、誰より罪深い彼らに、女神のしもべなんていう大層な肩書を与える女神の存在自体が、疎ましくて仕方がなかった。
加えて可愛い義妹の命を奪おうとしているなんて聞いたら、ますます嫌いになってしまった。女神にも神殿にもあの子はくれてやるものか。
「そうよ……もう二度と奪わせないわ」
誓いのような言葉と共に、最後にジルが口付けた手の甲にそっと私の口付ける。
私たちの分も、なんて押しつけがましいことを言うつもりはないが、あの子と殿下には幸せになってもらわなければ。女神にも神殿にも踊らされず、誰の目にも触れない綺麗な箱庭の中で、誰より平穏な日々を送ってほしいのだ。
「これは私なりの復讐なのよ、ジル。女神も神殿もざまあみろ……なんてね」
くすくすと笑いながら青い貝殻に頬をすり寄せれば、不意に私室のドアがノックされる音が響いた。はい、と返事を返しながら、寛げた聖女の装束をそれとなく整える。
「コーデリア、お疲れ様」
「っ……お母様!?」
お母様がわざわざ王城に訪ねて来るなんて。何か用事でもあったのだろうか。慌てて装束を整えてお母様を出迎える。
「ちょっと用事があったから、寄ってみたのよ。新婚生活はどう? 殿下とは上手くいってる?」
「え、ええ……まあ、それなりにね」
正直、殿下のことは何とも思っていない。女神を欺く悪いお友だち、というくらいの認識だ。
確かに殿下の顔立ちは誰より整っているけれど、総合的に見ればジルの方がよっぽど魅力的な男性だと思う。ルーナの趣味はよく分からない。
「そう……ならいいのだけれど、ちょっと良くない話を小耳に挟んだものだから」
お母様に椅子を勧めながら、私も向かい合う様に椅子を引き寄せて腰を下ろす。いつからか、私こそが聖女だと盲信するようになってしまったお母様だが、それもすべて私への愛ゆえなのだと思えば、不思議と憎み切れずにいる私がいた。
……もっとも、殿下は決してお母様を許さないのでしょうけれど。
お母様は祝宴会のあの夜に、既に一度ルーナを襲わせている。ルーナを何よりも大切に想う殿下の逆鱗に触れるには充分すぎた。
友人である私の実の母親ということと、あれを機にルーナを箱庭に閉じ込めることが出来たいきさつから、今回は命だけは見逃して貰えたようだが、直に王都からは追放されるだろう。
要は「次はない」のだ。お母様に対しては複雑な想いを抱いているけれど、みすみす死なせたいわけではない。ルーナのためにもお母様のためにも、これ以上余計な行動を起こさせたくなかった。
お母様の行動を牽制する意味でも、お母様が耳にしたという良くない噂について聞いてみることに決めた。小首をかしげるようにして見つめれば、お母様は痛ましいものを見るような目で美しい顔を歪める。
「殿下がね、愛人を囲っているのではないか、という噂があるのよ」
「殿下が、愛人を……」
おかしい、とすぐに気づいた。殿下はそのあたりは徹底している。決してルーナの存在を悟らせぬように、離宮に行く姿は誰にも見せないようにしているのだ。隠し通路を利用しているおかげで、実際そのような噂が立つことはなかった。
ということはこの話は、お母様が独自に調べ上げたことなのだろう。お母様がルーナを襲わせた刺客たちのような手下を持っていることは知っている。
彼らはそれなりに優秀なようだ。ルーナが生きていることにこそ気づけていないが、殿下が愛人を囲っている可能性に辿り着くなんて。
「あなたを正妃に迎えたばかりなのに、こんな不義理許されないわ」
お母様はどこか虚ろな瞳で遠くを見つめながら、譫言のように呟いた。ご自分はお父様の愛人だったくせに、と心の中で思っても決して口には出来ない。
「……わたくしから殿下に、それとなくお話してみますわ。わざわざありがとうございます。お母様は何も心配なさらないで。これは私たち夫婦の問題ですもの。私の手で、きっと何とかしてみますわ」
にこりと笑いながら、さりげなく牽制しておく。これで離宮にいる愛人——ルーナに何かしようものなら、いくら私でもお母様を庇いきれなくなる。
「……あなたは優しい子ね。死んだあの子とは大違い」
お母様は心の底から幸せそうに笑って、私を見つめていた。ルーナが死んだことになっても尚、お母様は彼女のことが大嫌いらしい。
……お母様は結局一度も、ルーナをルーナとして見なかったわね。
お母様にとってのルーナは、最初から最後まで「憎き恋敵ステラ様の子ども」でしかなかったのだろう。ルーナが成長してからは、まるでステラ様を相手にするような当たり方をしていたような気もする。
逆を言えば、それほどまでにステラ様は魅力的な人だったということだ。一度くらい私もお話してみたかったけれど、そんな機会があったとして、愛人の娘がどの面下げて会いに行けばいいのだろう。やっぱりこれで良かったのかもしれない。
「疲れているところをお邪魔してしまったわね。この話をしたかっただけだから、そろそろお暇するわ」
「……わざわざありがとうございました。お会いできてよかったです」
一応牽制はしておいたが、不安だ。殿下には報告しておいた方がいいだろう。あの離宮の警備は万全だから、手出しできるとは思えないが、運ばれる食材に毒を混ぜるくらいのことは可能かもしれない。
あの子を狭い離宮に閉じ込めてしまった以上、私と殿下にはあの子を守り切る義務がある。安全で安心で、辛いことが何一つない箱庭の中で、何者でもない一人の少女として、幸せに暮らしてもらわなくては。
気持ちを引き締めながら、表面上はあくまでも穏やかにお母様を見送った。渡り廊下の窓から見えた空に立ち込める暗雲が、不吉な予兆のように思えてならない。
「……馬鹿馬鹿しい」
天気に心情を重ねるのは人間の勝手でしかない。気を強く持たなければ。
「それより、早速深緑のドレスでも注文しようかしらね」
青い貝殻に話しかけながら、ルーナに似合うのはどんなデザインだろうかとぼんやりと思いを巡らせる。
窓越しに光った稲妻は、どうにも不穏で美しかった。こんな日は、ジルが隣にいてくれたら、なんて弱気な考えが浮かんできて、言いようのない寂しさに、一人身を震わせたのだった。
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