第19話 籠の鳥のとまどい

 コーデリア姉様がいらしてからというもの、私には毎日こつこつと取り組んでいることがある。


 それは、コーデリア姉様に教えていただいた流行中の刺繍だった。黒い布に銀の糸で刺した刺繍の続きを、毎日少しずつ進めているのだ。観賞用の小さな飾り布になる予定だ。


 ……別に、誰に作っているわけでもないのだけれど。


 と、自分で自分に言い訳めいた言葉を並べながら、ちまちまと針を進める。やはりどうにもこういった作業は苦手だ。コーデリア姉様の半分も進んでいない。


「……っ」


 考えごとをしながら刺していたせいか、またしても左手の人差し指を傷つけてしまう。ぷくりと浮かび上がる赤い血を忌々しく思いながら睨んでいると、傍で見守っていた殿下が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「大丈夫か!? ルーナ」


 いつものように床に膝をついて私より姿勢を低くしながら、狼狽えるように私の指先を見つめる。酷く憂うような整った横顔に、やっぱり調子が狂ってしまう。


「すぐに手当てをしよう、こういう時はガーネットを呼べばいいのか? それともオパールか?」


 コーデリア姉様といい、殿下といい、この国の王太子夫妻は過保護すぎる。過剰な心配を寄せる殿下を一睨みしながら、血が浮き出た人差し指を口に含んでやり過ごした。僅かに血の味が広がって不快だが、これくらい舐めておけば治る。


「ルーナ……ちゃんと手当てしないと駄目だ。何かあったらどうする」


 針で指先を刺したくらいで人が死ぬと思っているのだろうか。毒が塗られているわけでもあるまいし、と刺繍針の先端をじっと見つめる。真冬の新月を迎えるまでは警戒するに越したことはないのだろうが、この刺繍針はずっと私の手元にあるのだ。毒なんて仕込みようがない。


 殿下の前で刺繍をするのは面倒だな、と思いながら、今日の所は中断することにした。読書でもしようかと、跪く殿下から離れて本棚に移動する。


 殿下の言葉通り、離宮の蔵書は驚くほど豊かになった。国内の小説や御伽噺はもちろんのこと、外国の本を翻訳したものまである。知らない物語に触れるのはいつだって楽しい。

 

 遅れて私の後を追って来た殿下が、高いところの本をいつでも取れるように待機しているのが分かった。


 過剰な親切だ。初めのころは鬱陶しくて仕方がなかった。


 だが、このところは彼の過保護な行動にも慣れ始めている自分がいる。籠の鳥生活が板についてきたという訳だろうか。


 そう考えるとなんとも複雑な心境で、思わず溜息が零れた。自ら始めたことだが、慣れとは恐ろしいものだ。


 本を選ぶそぶりを見せつつ、横目でちらりと殿下を見やれば、柔らかな微笑みが返ってくる。ベール越しに見ていたあの冷たい印象を受ける王子様は、どこへ行ってしまったのだろう。


 もちろん今だって、顔立ちが変わったわけではないのだから、黙っていればどちらかと言えば冷たい美しさを纏った人なのだが、生憎この離宮では黙っていることの方が少ないのだ。口を開かない私の代わりに、あれこれと気を利かせて話をしてくれるせいで。


 こんな姿、社交界のご令嬢たちが見たら幻滅するのではないだろうか、と想像すると何だか可笑しかった。思わず頬が緩む。


「っ……」


 別に殿下に微笑みかけたわけでもないのに、私が微笑むだけで殿下は大げさなくらいに動揺していた。勘違いされては困るので睨みつけようとしたのだが、何とも嬉しそうな顔をする殿下を前にそんな気も起こらず、再び溜息が零れてしまった。


 本当に、このところの私は殿下に調子を狂わされてばかりだ。まともに本を選ぶ気力すらも無くし、何気なく触れた本を手に取ってみた。どうやら星座について書かれた本のようだ。普段はあまり手にすることの無い類の本だった。


 きっと殿下が増やしてくださった本の中に入っていたのだろう。ぱらぱらとめくってみれば、星座とそれにまつわる伝承について細かく書かれていて、偶然手に取った割には興味を引かれる内容だった。


 聖女候補だった時には、気にかかるのは女神アデュレリアの象徴とされる月の様子ばかりで、星になど目を向けたことも無かった。有名なものは何となく知っているつもりでいるが、自信をもって答えられる星の名前は一つもない。


 これを機に少し勉強してみようか、と本を片手に今度はソファーに座った。殿下も人一人分の距離を空けて隣に座る。


 読書している私の姿を見ていても退屈だろうに、彼は時間が許す限り飽きずにこうして私を見つめ続けている。「生きているだけでいい」という言葉が、どれほど真剣な気持ちで告げられたものだったのか、思い知らされる毎日だ。


 それからどのくらいそうしていただろう。置時計が鐘を鳴らすのとほとんど同時にガーネットがやってきて、ソファーの前のテーブルにお茶を並べ始めた。もちろん殿下の分もある。


「読書をなさっていたのですね。少しご休憩なさってはいかがですか? クリスがクッキーを焼きましたので」


 彼の作るクッキーは絶品だ。今までであれば、ガーネットたち三人と一緒にお茶をするところなのだが、ここのところ彼らは殿下に遠慮しているのか私たちに同席することはない。


 ならば私から彼らの元へ行けばいいというだけの話なのだが、ここは殿下に飼われている籠の鳥らしく、大人しく彼と共にお茶を取るべきだろうと考えて彼の元に留まる日々だった。籠の鳥とその主でお茶をする、何とも歪な関係が私たちらしい。


 紅茶とクッキーを並べるなり去っていくガーネットを見送った後、本を閉じてティーカップに口をつけた。籠の鳥生活を始めてから自分で紅茶を淹れていない。忘れてしまいそうで心配だった。


 温かい紅茶にほうっと息をついて、軽く目を閉じる。いつからかこんなゆったりした時間も好きになっていた。


 ティーカップを置いてクッキーを口に運べば、さくさくとした食感と共に程よい甘味が口一杯に広がる。とても美味しい。


「……ルーナはこのクッキーが好きなんだな」


 すぐ傍で、殿下が何とも幸せそうな微笑みを浮かべて私を見ていた。クッキーを食べているだけなのに本当に大袈裟だ。またもや心が乱されるのを感じながら、思わず視線を彷徨わせた。


「その本は気に入ったか? ルーナは星も好きなんだろうか」


 まるで独り言のような調子で彼は語り掛けてくる。


 この本は面白いし、星もどうやら嫌いではなさそうだが、仕草だけで伝えるには限界があった。口を開けばいいだけの話だが、ずっと言葉を交わしていないと一言目が緊張して出て来ないのだ。


「今日はよく晴れている。もしよかったら夜にでも星を眺めてみないか? この離宮の庭からでも良く見えるだろう」


 夜に星を見るなんて、何だか楽しそうだ。確かに庭に出れば良く見えるかもしれない。


 しかし、殿下は一日中私に構っていても良いのだろうか。我儘を言い始めたのは私だが、この国の王太子を独占していることには若干の罪悪感を覚えてもいる。私だって別に、国を傾けたいわけじゃない。


「この紅茶を飲んだら一度王城に戻るが、夜にはまた来られると思うんだ」


 ……そう、やっぱり一度お戻りになるのね。


 穏やかに微笑む殿下を前に、そう考えたところではっとした。これではまるで、殿下と離れるのを寂しがっているようではないか。


 このところ、あまりにも彼といる時間が長くなったせいで、つい彼が傍にいることを当然だと思うようになっていた。そしてそれを、心地よいと感じている自分がいる。


 何だか悔しい。思わずソファーに置いてあったクッションを抱きしめて、顔を埋めた。


 私が彼の訪れを待つようになっては話にならない。主導権は渡したくないのに。


 思わず拗ねるように、クッションから僅かに顔を覗かせて殿下を睨みつける。二人の目が合うなり、彼は小さく噴き出すように笑った。


「何だそれ……可愛いな、ルーナは」

 

 可笑しくてたまらないとでも言うようにくつくつと笑う殿下に、ますます心を乱される。ふい、と視線を逸らしながら今一度クッションに顔を埋め、いつのまにか頬に帯びていた熱を冷ました。


 これも全部、殿下があんな風に笑うからだ。可愛いなんて言うからだ。


 可愛い、なんて、これほど我儘な振舞ばかりしている私に対して言う台詞ではない。彼の目に私はどんな美少女に映っているのだろうか。目の病気がないか心配になるくらいだ。


「……大丈夫だ、必ず戻ってくる。これでも星には少し詳しいんだ。楽しみにしていてくれ」


 殿下はティーカップを置いて、宥めるように私に語り掛けた。私はクッションに顔を埋めたまま一度だけ頷いて、彼が去っていく気配を背中で感じていた。一人ぼっちになるこの瞬間は、やっぱりどうにも寂しい。


 ……寂しい? 寂しいですって? 私の一番嫌いな感情だわ。


 寂しいなんて、その人が自分の隣にいて当然だと言う傲慢な考えの下でしか成り立たない感情だ。それを自分が抱くようになるなんて。


 最悪だ。籠の中に囚われながら彼に心を惑わされていたら、いよいよ私が自由である部分は無くなるではないか。物理的には囚われていても、心までは彼の自由にさせたくないのに。


 思わず、ぽふぽふとクッションを両手で殴った。物に当たるのは良くないと思いつつ、いつまでも消えてくれない頬の熱を誤魔化すには、こうするほかに術を知らなかったのだ。

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