幕間6 魔の者の囁き

 「彼女」が目を覚ましてくれない。


 ぽたぽたと、銀の剣の先から血を滴らせながら歩く。


 色がない、彼女が、彼女の瞳が世界のすべての色彩を巻き込んで、静かに瞼を閉じてしまったから。 


 周囲からは怯えるような視線が注がれる。灰色の、現実感のない光景だった。


 誰かが俺の名前を呼び止めるような声が聞こえた、気がしたが、構わず俺は離宮を目指した。愛しくてたまらない「彼女」の待つ、あの氷長石の箱庭へ。


 慣れた隠し通路を潜り抜けて、青で統一された離宮を訪ねれば、すぐさまガーネットとオパールが俺を出迎えた。このところの彼らは、言葉もなくただ頭を下げるばかりだ。クリスはルーナの死からずっと引きこもっていて、姿を現さない。


 「彼女」が荒らした室内はすっかり元通りになっていて、あの夜の悲劇がまるで嘘みたいだと思ってしまう。それでも確かに「彼女」の棺は広間の中心に安置されていて、棺から零れ落ちた花の中では「彼女」の姉が泣きじゃくっていた。


「ルーナ、ルーナっ……」


 冷たくなった妹の手に縋りつきながら、大粒の涙を流す友人の姿を見ても、今は不思議と心が動かされない。これでもコーデリアのことは一番の友人だと思っていたはずなのに、少しも憐れむ気持ちが湧いてこなかった。


「……殿下」


 影がかかるほどの距離まで近づいて、コーデリアはようやく俺の訪れに気づいたようだった。涙に濡れた琥珀色の瞳で俺を見上げるなり、僅かに戸惑うように視線が揺らぐのが分かった。


「……殿下、その血は」


 血、とコーデリアに指摘されて初めて自分の形を確認した。返り血を浴びたせいか確かに酷い姿だ。こんな姿、「彼女」に見られたら嫌われてしまう。


 この血はルーナに呪いを送った罪人のものだ。ああ、そういえば、コーデリアにとっては実母に当たるのだったか。


 わざわざ口にするのも面倒で、俺はそっと棺の中を覗き込んだ。コーデリアの手で漆黒のドレスに着替えさせられた彼女は、長い銀の睫毛を伏せて静かに眠っている。


「……ルーナ」


 彼女が死んで、丸一日が経った。いつまでもこうしていられないことは分かっているが、俺もコーデリアも彼女の遺体を手放せないでいる。


 目の前で微笑みながら自ら命を絶ったルーナの姿は、今も目に焼き付いている。思い出したくもない瞬間なのに、あのときの彼女は心の底から幸せそうに笑っていた。


 その微笑みが綺麗で、鮮やかで、出来ることならもう一度見たくて、声を聞かせてほしくてたまらなくなって、俺はまた彼女の死体に縋るのだ。こうしていたって、彼女が生き返るはずもないのに。


「ルーナ……」


 脈のない手首に触れ、冷たくなった指先にそっと口付ける。本来ならば一方的に口付けるなんて勝手な真似はしたくなかったが、永い眠りについた彼女は拒絶すらしてくれないのだ。


 嫌なら目を覚ましてみせろよ、なんて乱暴な言葉が脳裏を掠め、こんな男だから俺はルーナに何か月も口を利いてもらえなかったんだ、と自嘲気味な笑みが零れた。


 正直、感情がまともに機能している気はしない。ルーナがおびただしい量の血を噴き出して死んだあの瞬間に、間違いなく俺の心も世界も壊れたのだから。


 ルーナを蝕んだ呪いのことは、正直よく分からない。呪いの存在すらあやふやだったのに、呪いの種類だとか効果だとかが分かるはずもない。解析できるような人間も、この国にはもういなかった。


 ただ、愚かなことに呪いを送った犯人はすぐに分かった。ロードナイト公爵夫人が半狂乱状態で、この離宮に呪いを送りつけたことを自白していたからだ。


 正直、その自供が本当かどうかはどうでもよかった。そもそもあの女は、昔からルーナを虐げていたというだけで死に値するのだ。


 気づいた時には、持っていた剣であの女の胸を貫いていた。生前あれだけ姦しかった口から流れたどす黒い液体が何とも似合いで、ルーナが死んでから初めて笑った気がする。


「ルーナ……」


 棺からそっと抱き上げるようにして、彼女の細い体を抱きしめる。何かの間違いでもう一度心臓が動き出さないだろうか、と月影のような銀の髪を撫でながら遠くを見つめた。


「……そうしていると、眠っているみたい」


 コーデリアは棺の縁に腰かけて、俺の腕の中で瞼を閉じたままのルーナを見て頬笑んだ。涙の名残が一粒頬を伝っていく。彼女も相当な衝撃を受けているはずなのだが、俺と違って微笑み方はとても自然だ。


「予言には勝てなかったわね、わたくしたち」


 ぽつりと零れ落ちたその言葉は、コーデリアの可憐な声とは裏腹に、やけに重苦しく二人に伸し掛かった。


 そう、結局俺たちは勝てなかったのだ。女神の定めた宿命に。ルーナを奪う非情な運命に。

 

 ルーナの居ないこの世界は、空虚でしかなかった。今はまだルーナの温もりも声も鮮明に思い出せるが、それもきっと時間の問題なのだろう。彼女を忘れて歩んでいく生が地獄であることは、火を見るよりも明らかだった。


 ルーナの心臓が止まったそのときに、俺の行く末は決まっている。彼女の後を追って死ぬ他にない。


 正直、ルーナを守り切れなかった俺にそんな資格があるのかと問われると苦しいところだが、最期の彼女の言葉を思えば、ひょっとすると許されるのではないか、なんて甘い考えに至ってしまうのだ。


 ――エリアル様……愛していました、これでもね。


 鮮烈な微笑みと共に告げられた、最初で最後の彼女の告白。歪んだ関係の二人だったが、どうやら心は通い合っていたらしい。

 

 天体観測の後の甘くじれったいひと時を思い出しては、泣きそうになった。彼女の雪色の瞳と目が合うたびに、これが人生の最後の瞬間でも悔いはない、と本気で思ったものだ。


 本当に、生きていてくれさえいれば良かったのだ。俺のことなど愛してくれなくても構わないから、この離宮で、優しさと温もりにだけ包まれて、息をしてくれれば良かったのに。


 自ら命を絶つなんて、一番許されない選択だ。でもそれを恨めないのは、彼女が俺とコーデリアを見捨てられない優しい人だと分かっているからだ。


 俺たちのことなんて殺してくれてよかったのに。その覚悟などとっくに決めた上での策略だったというのに、彼女は最後に自分の命よりも俺たちを選んだ。


 その俺が命を絶つのは、ある意味ルーナへの裏切りに当たるのかもしれない。彼女の意思を尊重するならば、これからも彼女の死を背負って生きていくべきなのだろう。


 でも、ごめん、ルーナ。俺はそこまで強くあれない。ルーナ無しでは、上手く息が出来ないように生まれてきている気がする。


 冗談でも大袈裟な表現でもなく、君は俺のすべてだった。……すべてだったんだ。


「……後を追うなら、わたくしも一緒に死んで差し上げるわ」


 コーデリアは俺の腕の中のルーナの頬をそっと撫でながら、小さな笑みを浮かべた。


「一人ぼっちで残されるのは嫌よ。一緒にルーナの所へ行って、一緒に叱られましょう?」


 コーデリアは、まるでちょっとした旅行に出かけるかのような口調で提案した。


 成程確かに、それは悪くないかもしれない。ルーナが本気で怒ったらどれほど恐ろしいのか知らないが、二人一緒ならいくらかマシだろう。


「死んだ後もしばらくは口をきいてもらえないかもしれないけれど、そこはまあ、辛抱よ。そのうち笑いかけてもらえるようになるわ。なんだかんだ言って、ルーナだってわたくしたちのこと、大好きなんだもの」


 励ますようなコーデリアの言葉に、自然と俺は頷いていた。腕の中で眠るルーナの髪をさらさらと撫でる。


「……わたくしたちの可愛いお姫様。寂しい想いはさせないわ」


 慈しむようなコーデリアの声に、ルーナが少しだけ微笑んだような気がするのは、残された者の勝手な願望なのだろう。


 自らの心臓を貫いて命を絶つという、残酷な最期を迎えた彼女が、せめて今は安らかでありますように。


 なんて、祈りとは正反対の方向へ突き進んだ俺が願うには、あまりにも傲慢な望みだった。薄い笑みが浮かんでしまう。


「そうと決まれば、最期の衣装を選びましょうよ! 折角だからルーナとお揃いの黒にしましょ! きっと素敵だわ」


 コーデリアの好きにさせよう。俺はただ、ルーナの手を握って終わることが出来れば本望だ。冷たくなったルーナの手を握りしめて、そっと手のひらに口付ける。甘い香りがした。死んでもなお、ルーナは甘い。


 最後に着る服についてああだこうだと提案するコーデリアの言葉を聞き流していると、ふと、棺を安置した広間の中にある人物が現れた。このところ姿を見せていなかったクリスだ。


 だが、彼の姿に俺もコーデリアも思わず目を瞠ってしまう。やつれたような表情も気にかかるが、それ以上に俺たちの注目は彼の背後に向けられていた。コーデリアが息をのむ音が聞こえる。

 

「……あなた、その姿は何?」


 普段あれだけ凛然とているコーデリアの声は、今ばかりは僅かに震えていた。無理もない、俺も彼女と似たような気持ちなのだから。


 クリスはどこかきまり悪そうにしていたが、やがて自嘲気味な笑みを浮かべてゆっくりと俺たちを見据える。


 そのクリスの背中には、ゆらゆらと揺らめく真っ黒な翼が生えていた。


「……本当は、隠し通すつもりだったんですがね」


 クリスは薄い笑みを浮かべたまま、ルーナの棺の傍に歩み寄ってくる。黒い翼を揺らめかせる人間離れしたその姿に、咄嗟にルーナの亡骸を強く抱きしめた。


 クリスは俺の腕の中のルーナに視線を向けると、痛ましいものを見たとでもいわんばかりに視線を逸らした。見慣れない翼こそ生えているが、繊細な表情は俺の良く知っているクリスのものだ。


 やがて、たっぷり数十秒の沈黙の後、クリスは口を開く。


「……この一日、ルーナ様を蝕んだ呪いについて調べていました。どうやらこれは僕たちのような魔の者に連なる呪いではなく、過去に人工的に生み出された破壊の呪いのようです」


 まるで自分が魔の者であるかのような言いぶりだ。あまりに突拍子のない出来事を前に、言葉が出てこない。


「この呪いをかけられた者は死ぬまで破壊を止められない。ルーナ様はそれを悟ったのでしょう。だから、このような結果に……」


 クリスは悔しそうな声で呻いた。一体何の話をしているのだろう、と流石の俺も顔を上げて彼を見つめてしまう。クリスは構わず堰を切ったように続けた。


「僕がこの離宮にいながら……防ぎきれなかった。本棚に嫌な感じを覚えて、これでもくまなく調べ上げたんです。でもあの本は、聖女のような特別な力を持つ者が触れなければ呪いが発動しない、そういう類のものでした。だから僕には見つけられなかった……。非常に古い呪術です。こんなものがまだ、この王国に残っていたなんて……」


「……ちょっと、待って頂戴、あなた、何の話を……? それにその翼は何……?」


 怯えるようなコーデリアの問いかけに、クリスはゆっくりと顔を上げた。


 良く知った灰色の瞳の奥には怪しげな光が揺らめいている。彼はコーデリアの追求を前に、諦めたようにそっと瞼を伏せる。


「……殿下、コーデリア様、申し訳ありません。僕は本当は……人間ではないのです。魔の者、と言えば手っ取り早いでしょうか」


 魔の者。その言葉を裏付けるように、彼の背中の翼が揺れる。闇色のその翼は、何とも不気味で不吉で、魔の者と言われても納得してしまうだけの存在感があった。


「いや……途中までは確かに人間だったんですが、あるときに魔の者と取引をしたんです。オパールとガーネットを熱病から救う代わりに、魔の者の魔力を受け入れる、と。それ以来僕は、新たな魔の者として生まれ変わりました」


 クリスの告白も目の前で揺れる翼も、何もかもが信じ難いのに、皮肉にもルーナの体の冷たさが、これが現実なのだと教えてくれた。


 クリスはルーナに視線を戻すと、僅かな迷いを見せた後に口を開いた。


「……こんなこと、本当は隠し通すつもりだったのですが……こうして正体を明かしたのは、殿下に取引を持ち掛けるためです」


「……取引?」


 クリスは一度だけ頷いて見せると、いつにない強い意志の宿った瞳で俺を見据えた。


「はい。でも相手は僕じゃない。古の魔王です。あの方は……殿下が僕らの新たな魔王となってくださるのなら、ルーナ様を救う術をお教えすると仰っています」


「ルーナを……?」


 まともな思考回路では信じるに値しないような突拍子もない話なのに、ルーナが絡んでくると途端に縋りたくなってしまう。まるで怪しい宗教に誘われているようだな、なんて心の隅で皮肉気なことを呟く自分がいたが、構わず俺はクリスに続きを促した。


「……殿下、僕たちがお伽噺で知っている魔の者というのは、今では古の魔の者と呼ばれる者たちです。彼らは聖女にこの土地を追われ、疲弊し、すっかり弱り切ってしまいました。それこそ、明確な輪郭を保てなくなるくらいに……」


 クリスは自らの胸を押さえ、どことなく感傷的な表情を見せた。彼のいう古の魔の者とやらを憐れんでいるのだろうか。


「彼らは今や、人間に魔力を託して新たな魔の者として生かすことが精一杯です。そして、最も強い魔力を持つ魔の者——古の時代に魔王と呼ばれた存在は、殿下にその力を継いでもらうことを望んでいます。聖女の血と王家の血を継ぐあなたが最もふさわしいのだと仰っていました」


 最早ただの人間である俺たちが付いていける次元の話ではなかった。コーデリアも黙り込んでしまっている。


「魔の者たちの望みは、この王国の奪還です。……でも、そんな物騒なこと、殿下の治世に持ち込みたくはありませんでした。だから僕は、自分が魔の者であることも、魔王が殿下に力を継いでもらいたがっていることも、隠し通すつもりでいたんです」


 クリスは俺の前に跪くと、ルーナをじっと見据えた。


「でも……ルーナ様が死んでしまったことで状況は変わりました」


 クリスはやっぱり悔し気にルーナから視線を逸らして、小さく息をつく。


「あなた様もきっと死ぬ気なのでしょう、殿下。どうしてもそれがいいと言うのならお止めするつもりはありませんが……最後の選択肢の一つとして、どうか先ほどの取引について考えてくださいませんか?」


 灰色の瞳が、今度は俺を捉えていた。彼の背後で揺らめく黒い翼はやっぱり非現実じみていて、微睡の中にいるような錯覚を覚える。


「殿下、もしもあなたが古の魔王の力を継ぎ、新たな魔王となるお覚悟があるのならば……きっと――いえ、材料さえそろえば必ず、ルーナ様を呼び戻せるはずです」


 ……ルーナを、呼び戻せる。


 どくん、と心臓が跳ねる。自分が生きている証である鼓動を忌々しく思っていたというのに、今は高揚感と共に体中に血が巡るのを実感していた。


「……残酷な道です。たくさんの犠牲も伴います。でも……僕からしてみれば、このまま殿下とコーデリア様がルーナ様の後を追う悲劇よりはずっとマシだ」


 この唐突な告白に至るまでに、相当な葛藤があったのだろう。クリスの肩は小刻みに震えていた。


「どうか、どうか魔の者として生きることを、選択肢の一つとしてお心に留めてくださいませんか。あなた様にもコーデリア様にも……そしてルーナ様にも、僕は生きていてほしいのです」


 こんな状況になって尚、ルーナが生きられる道があるかもしれない。


 御伽噺よりもなお、あり得ない話のように聞こえるのに、ルーナのためならばどんな馬鹿げた話にも縋ってみたくなってしまった。


 どれだけの代償が伴おうが、この命が奪われようが、どうでもいい。ルーナがもう一度、あの雪色の瞳に俺を映してくれるのなら。


 ふっと口元に笑みが浮かんだ。腕の中の彼女に視線を落として、そっと銀の髪を撫でる。迷う余地もなかった。


「……ルーナはきっと、怒るんだろうな」


 君は自分のために何かが犠牲になることを嫌う優しい人だ。


 でも、ごめん、俺は君の意思を尊重できない。


 これから行うことはすべて、俺の自己満足だ。君は何一つ気に負う必要はない。


 俺の隣に座っていたコーデリアと自然と目が合った。彼女は意味ありげに微笑んで、一度だけ頷いて見せる。どうやら俺についてくるつもりらしい。


 俺はルーナの細い体を抱きしめながら、クリスに笑いかけた。


「人の身を捨てるくらい、今更大したことはない。ルーナを呼び戻すためならば――」

 

 腕の中のルーナを、今一度ぎゅっと抱き寄せる。


「――俺は魔王にでも何でもなってやるさ」


 ルーナが生きていてくれるならば、この身も国も女神もどうなろうと構わない。いつか彼女に囁いたその言葉を、まさかこんな形で実行に移すことになろうとは。


 でも仕方ない。この世で一番尊いものはルーナなのだから。


「殿下……」


 クリスは激しい葛藤のようなものを見せた後に、大きく頷いた。灰色の瞳が僅かに潤んでいる。


 俺はクリスに構うことなく、指先でそっとルーナの髪を撫でた。


「ルーナ……待っていてくれ、すぐに目を覚ましてやるからな」


 自己満足の歪んだ愛だ。分かっている。きっとルーナはこんなこと、望んでいない。


 でも、それでいい。誰にも許されなくていい。世界中から嫌われても、あらゆる憎悪と苦痛をこの身に引き受けてもいいから、


 ルーナ、もう一度、俺にあの愛らしい笑みを見せてくれ。

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