第22話 真冬の新月

 真冬の新月の日がやって来た。


 運命の日とも言うべき特別な一日だが、私は今日も変わらず、せっせと飾り布を刺繍していた。


 この間の殿下とのどこかもどかしいやり取りの後、一つ心に決めたことがある。


 それは、この飾り布を贈るのを機に、少しずつ殿下に話しかけよう、というものだった。いつまでも勇気を出せないままでは話にならないので、こうして分かりやすい目標を立てることにしたのだ。


 不器用なのは相変わらずで、指先には小さな怪我が絶えなかったが、殿下のために作っているのだと思えば不思議と気にならなかった。これで普通にお話が出来るようになって、彼の寂しさが少しでも和らぐのならば、なおさら頑張れる。


 と、そこまで考えて思わずふっと笑ってしまった。いつの間に私の心は、ここまで彼に囚われていたのだろう。


 もっとも、彼の方がよっぽど私に囚われているから、この恋の主導権は私にあることに変わりはないのだけれども。


「随分進みましたねえ、その刺繍」


 掃除をしていたオパールが私の手元を覗き来んで頬を緩める。談話室の窓際で花束を生けていたガーネットもまた、嬉しそうに微笑んだ。


「殿下に差し上げるのですよね? 素敵です、きっとお喜びになりますよ」


「……だといいのですが」


 はにかみながらちくちくと針を進める。言葉ではそういったものの、あの殿下の様子を見る限り喜んでくださることは間違いないように思われた。


「今度の宴の際にお渡しになるのですか? もうすぐですよね」


「間に合えばそのときに渡そうと思っています」


 殿下とお話した通り、新月を過ぎたらコーデリア姉様も呼んで、この離宮で宴を開くことになっている。


 ガーネットとオパールは予言のことまでは知らないようだったが、宴を楽しみにしているようだった。クリスはあれこれと料理を考えてくれている。当日は私も手伝うつもりでいた。


「楽しみですね」


「ええ」


 ガーネットたちに見守られながらゆっくりと針を進めていると、間もなくしてレモンケーキを手にしたクリスがやって来た。おやつの時間になったようだ。


「お嬢様、少しご休憩なさってください。ケーキが焼きあがりましたよ」


「ありがとう、クリス」


 クリスの作るレモンケーキは絶品なのだ。宴の時にも出してもらうよう頼んである。コーデリア姉様にもぜひ味わっていただきたい。


 オパールがさりげなく刺繍道具を片付け、ガーネットがお茶を並べてくれる。このところ甘やかされてばかりだから、宴が終わったらまた以前のように走り回ろうかと考えていた。殿下とのひと時も楽しいが、ガーネットたちと過ごすのも同じくらい素敵な時間なのだから。


 三人に見守られながらの穏やかなお茶の時間が過ぎていく。今夜を乗り切ればもっと安らかな心地でこの離宮で過ごせるのだろうか。

 




「ルーナ、泊まりに来てあげたわよ!」


 両手にお菓子をいっぱい持って、華やいだ声を上げたのは、コーデリア姉様だった。予言の期日である今夜は、殿下もコーデリア姉様も私に付き添ってくださる手筈になっているのだ。


 一人で夜を明かそうとしたところで、あれこれと考えてしまってよく眠れないに決まっている。それならば初めから、殿下とコーデリア姉様と共に過ごした方が落ち着いた気持ちでいられるだろう。二人の優しさには感謝するばかりだ。


 それに、いわば私の身代わりのような形で聖女の座についたコーデリア姉様のことは、私としても心配でならなかった。予言が私を指しているのか、聖女を指しているのか分からない以上、二人とも気を抜かない方がよいだろう。


 ガーネットたちはコーデリア姉様の持ってきたお菓子を受け取ると、早速お茶の準備に取り掛かったようだった。この様子では、今夜は彼らも忙しいだろう。明日は一日ゆっくりしてもらわなければ。


「殿下はもう少し後でいらっしゃるそうよ。お仕事が終わったらすぐに駆け付けると思うわ。今日一日、ずっとそわそわしていたもの」


「ふふ、そうですか」


 柔らかく微笑みながらコーデリア姉様に椅子を勧めれば、彼女の琥珀色の瞳が面白そうに細められる。


「ふーん? 随分殿下に対する想いが変わったようね? 詳しく聞かせてもらおうかしら?」


「べ、別にそんなことは……」


 コーデリア姉様の前では何もかもお見通しのようだ。でも、姉妹で恋の話をすることには少しだけ憧れていたから胸が躍る。コーデリア姉様のことも、もちろん聞き出さなくては。


 間もなくして、ガーネットが二人分の紅茶とコーデリア姉様が持ってきたあらゆる種類のお菓子をテーブルに並べてくれた。姉様は甘いものがお好きらしい。


「ほら、これなんかレモンを使ったお菓子なのよ。食べなさい」


 姉様はあれこれと私に世話を焼きながら、お菓子を進めてくれる。私がレモンケーキを好んでいることもご存知のようだ。


 姉様とのお喋りは、殿下が離宮にやってくるまで続いた。今日が真冬の新月であることすらも忘れるほどに楽しい時間になったのだった。




 夕食を終え、ネグリジェとは言わずともゆったりとしたドレスに着替えた私は、談話室でガーネットが読書をするのを見守っていた。コーデリア姉様はお疲れのご様子で、今はソファーにもたれかかっておやすみになられている。


 ガーネットたちが読んでいるのは、女神と魔の者にまつわるあのお伽噺だ。一度読み聞かせたことのある話なので、今度は彼女たちが主体で読んでみることになったのだ。


「ええっと……『ロヴィーノは聖女と手を取り合って……魔の者を、王国から追い……』?」


 ガーネットがゆっくりと文字を追いながら口に出す。仕事の合間に文字の勉強をしているようで、この間読み聞かせた時からは見違えるほどの上達ぶりだ。


「『追い出した』って読むんじゃない?」


 オパールが横から覗き込んで、助言をする。私もうなずいて彼女の助言を肯定すれば、三人はまた本を囲んでああだこうだと議論を始めた。オパールは書き取りにも挑戦しているようだ。


 殿下はやっぱり私たちの様子を穏やかな表情で見守っておられて、時折彼の深緑の瞳と目が合ってしまう。先に逸らしてしまうのはいつだって私のほうで、そのたびに頬が熱を帯びるのを感じていた。


 その様子を見てなのか、ガーネットたちは何やら顔を見合わせて頷き合い、私に申し出てきた。


「……今夜はもう下がらせていただきますね。何かあったらいつでもお呼びください。すぐに参ります」


 私と殿下を二人きりにしようとの魂胆が見え見えだ。でも、これも紛れもなく彼らなりの親切なのだから、と素直に頷くことにした。


 ガーネットたちが出て行ったあと、私はコーデリア姉様にかけた毛布を直してから、姉様の向かいのソファーに座った。刺繍の続きでもしようかと考えたが、殿下が私の傍に近寄ってきたためにその思考は中断された。


「……隣に座ってもいいか?」


 一度だけこくりと頷けば、彼は私の隣にそっと腰を下ろした。今夜の彼の格好は、少しラフな白いシャツ姿で、青みがかった黒髪がよく映える。


 深緑の瞳は先ほどからちらちらと窓の外に向けられていて、彼が暁の訪れを望んでいることは明らかだった。


 この夜さえ越えることが出来れば私たちは、予言から開放される。そう思えば不思議と私まで緊張してしまった。


 ガーネットたちがいなくなった部屋は妙に静まり返っていて、コーデリア姉様の安らかな寝息だけが聞こえていた。起きているときはあれだけ妖艶な姉様も、眠っているとどこかあどけない。


「ガーネットたちの成長は目覚ましいな。君の教え方がよいんだろうか」


 殿下はソファーの上に置かれた御伽噺を手に取って、微笑んだ。


 それはどうだろう、と小首をかしげて殿下を見上げれば、彼はますます笑みを深める。


「……可愛いって分かってやっているだろう、その仕草」


 そんなあざとい人間ではないし、そもそも私は可愛くはない。美しいと賞賛されたことはあっても、可愛いなんて言うのは殿下くらいなものだ。やっぱり変わった人である。

 

 殿下は嬉しそうに私を眺めていた。私が息をしているだけで喜ぶような彼の愛は、相変わらずの重さを伴っているが、それを喜ぶ私も大概だ。言葉を返す代わりに視線を彷徨わせて、どことなく甘さの漂う二人の時間に酔いしれる。


「黒いドレス、気に入ったんだな。良く似合っている」


 ぽつぽつと思ったことを口にするような殿下の声は心地よい。今はゆったりとした黒のドレスで、普段より少しだけ首周りが露出しているデザインのものだった。

 

 姉様がお召しになったらさぞかし色気のある装いになるのだろうが、残念ながら豊満な体つきとは言い難い私の体型では、露出も大した効果はないのかもしれない。


「この夜が明けたら、ルーナの好きなドレスを仕立てようか」


 それならば、色は深緑がいい。殿下の瞳と同じ色を身に纏いたかった。


 返事の代わりに一度だけ頷けば、彼の瞳が慈しむように細められる。その眼差しに囚われるだけでどれだけ私の心が搔き乱されているか、殿下はご存じないだろう。


 頬に帯びた熱と戸惑いを誤魔化すように、私はお伽噺を片手に本棚へと向かった。今夜は刺繍はやめて、ゆったりと読書でもしよう。幸いにも飾り布は完成の目途が立っている。


 いつものように殿下は本棚の傍にやってきて、私が本を選ぶ姿を見守っていた。離宮の蔵書は日々増える一方で、毎日何冊も読んでも追いつかない。殿下のお陰で、私は退屈とは程遠い場所にいた。

 

「貸してくれ。それは俺が戻しておく」


 殿下は手を差し出して、私にお伽噺を手渡すよう促した。確かにこの本は少し高いところに並んでいるのだ。以前も殿下に手伝ってもらったものだっけ。


 あの時感じた熱は、初恋の名残の熱だった。恋する相手は同じだが、今、私の心を焦がすこの熱は二度目の恋の熱だ。


 懐かしいような新鮮なような、不思議な心地のままに殿下の御伽噺を手渡す。その際に指先が少しだけ触れ合って、どちらからともなく視線を彷徨わせた。


 彼に触れた指先を、もう片方の手でそっと摩る。たったこれだけの触れ合いすらも特別に思えるなんて。何だかくすぐったい感覚だ。


「……色々と本を増やしたんだが、気に入るものはあっただろうか。俺に言いたくなくても、読みたい本があればガーネットたちにでも言ってくれ。すぐに用意するから」


 どの本も面白いです、と言えばいいのに殿下を前にすると声が出ない。私は曖昧に微笑みながら、指先で並んだ本の背表紙をそっとなぞった。

 

「近頃は隣国の小説なんかも流行しているらしくてな」

 

 いつものように静寂を埋めるような殿下の言葉が続く。心地よい響きに耳を澄ませていると、ふと、ある一冊の本が目に留まった。


 それは、先ほどガーネットたちに読み聞かせていたものと同じ、この国のお伽噺だった。女神アデュレリアが使わせた聖女と賢王ロヴィーノが手を取り合って、この土地から魔の者を追放し、暗黒の時代を終わらせたという、誰もが知っているあの伝承が綴られている、あの本だ。


 全く同じ本を二冊も仕入れてしまったのだろうか、と何気なく本を手に取った。二冊あるのなら、一冊はガーネットたちに贈るのもいいかもしれない。いつでも本棚を使えばいいと言ったのだが、彼らは恐縮してしまって、私といる時間以外は本を手に取ろうとしないのだ。


 立派な革張りの表紙をなぞって、ぱらぱらとめくる。新しい本のはずなのに、ひどく古びた紙の匂いがした。

  

「ルーナ、その本は……?」


 殿下は私が本を手にしたことに気づいたらしく、ちらりと覗き込んでくる。


 綴られている内容は先ほどの御伽噺と何も変わらなかった。


 でもなぜだろう、何となく不穏な空気を感じる。指先から何かが纏わりついていくような、不快な感覚を覚えた。

 

 それならば手放せばいいのに、どうしてか手が離れなかった。指先は小刻みに震えているのに、本を手放せない。


 おかしい、何かが。これは、触れてはいけないものだったのではないだろうか。


 理屈ではなく、本能的な危機感を覚え、首筋を冷や汗が伝っていく。横から覗き込んでいる殿下の表情も見る見るうちに曇っていった。


「ルーナ……それを離せ。上手く言えないが、物凄く嫌な感じがする」


 ――流石は聖女の血を引く王子。我の存在を見抜くとは。


 頭の中で、ひどく不快な声がする。殿下には聞こえていないのか、ただ困惑したような目を私に向けるばかりだ。


「ルーナ? 聞こえていないのか? 早く離せ!」


 怒鳴るような殿下の声と同時に、手にしていた本が紫色の光を発した。同時に皮膚の下を何かが這いずり回るような感覚を覚える。


 ――すべて壊せ。壊してしまえ。女神アデュレリアの愛し子よ。


 がくり、と体から力が抜けていく。ようやく本が手から離れたが、既に手遅れなのだということは頭の片隅で分かっていた。


「ルーナ!?」


 崩れ落ちた私を前に、慌てて駆け寄ってきた殿下をゆっくりと見上げる。


 ……ああ、駄目です、私に近づいては駄目。


 体の自由が利かない。話したくても掠れたような吐息が漏れるばかりで、とても声が出て来なかった。見えない何かに、指先まで囚われていく。感覚も動作も何もかもが奪われていく。


 直感的に悟る。今、私の体を奪おうとしているのはきっと、祈りとは正反対のところにある悪しき者。魔の者とも違う、中途半端で醜い化け物なのだと。


「ルーナ!! しっかりしろ、ルーナ!!」


 次の瞬間、私は私を抱き上げてくださっていた殿下を突き飛ばしていた。とても私が出せるとは思えぬほどの強い力で。


 殿下は唖然としたように私を見上げていたが、目が合うなりさっと顔色を変える。


「ルーナ……その、目の色は」


 殿下の声なのに、正しく彼の声だと聞き取れないような、もどかしい感覚だ。まるで微睡の中で世界を眺めているようだ。感覚が少しずつ溶けて、闇に変わっていく。


「っ……」


 勝手に動いた手が、本棚を殴りつけた。その拍子に何冊かの分厚い本が落ちてきて、肩に当たる。痛いはずなのに、何かが触れたという程度の感触しかない。


「ルーナ!!」


 咄嗟に立ち上がった殿下を無視し、私は私の体を乗っ取った何かに導かれるようにして、テーブルやら花瓶やらをなぎ倒しながら移動していた。何かが割れ、破片が腕に刺さっているのに、やっぱりちっとも痛くない。


 ――すべて壊してしまえ。


 頭の中で繰り返される不気味な声。嫌だ、私は何も壊したくない。この離宮にある調度品も、ちょっとした小物も、全部全部大好きなのに。


「ルーナ!!!」


 殿下の絶叫にもこの身体は止まってくれない。あの本に何が仕掛けられていたのかは知らないが、明らかに今の私の暴走は人の力でどうにかなるような事態ではなかった。

 

 呪術なんてそれこそお伽噺のような存在だが、ひょっとすると実在していたのだろうか。女神や魔の者の存在を信じておきながら、呪いだけ否定すると言うのも妙な話だ。


 そうこうしているうちに、気づけば私の体はソファーへと向かっていた。ソファーの上では、薄手の毛布の中で眠るコーデリア姉様の姿がある。私が物を壊している音が煩いのか、すっきりと整った顔立ちは不快そうに歪められていた。


 ……待って、待って頂戴、姉様は駄目!


 声なき悲鳴を上げたのも束の間、私の体がコーデリア姉様の上に覆いかぶさった。彼女のお腹の上に馬乗りになるような体勢だ。そのまま血だらけの両手が姉様の細い首に伸びる。


 ……嫌、嫌っ。お願い、やめて!!!


 心の中で必死に叫ぶも、私の両手には非情にも力が込められていく。すぐに目を覚ました姉様が、ひどく怯えたように目を瞠っていた。


「っ……ルー、ナ」


 苦し気な、掠れるような姉様の声。苦痛に歪む顔を見ていられない。だが、力を緩めようとしても指先はびくともせず、姉様から顔を背けることすら許されなかった。


 姉様の指先が手の甲に食い込む。相当な力で抵抗しているはずなのだが、やはり私の手が離れることはない。


「やめろ!!」


 すぐさま殿下が私たちの間に割って入って、無理矢理私の手を引きはがす。普段であれば難なく外せるであろう私の手も、今は殿下が本気を出してやっと緩む程度だった。


 どうにか解放された姉様は、咳き込みながら床の上に崩れ落ちている。琥珀色の瞳には明らかな怯えの色が見て取れた。


「ルーナ……?」


 荒れ果てた室内と言い、血まみれの私の姿と言い、いくら聡明なコーデリア姉様でもすぐに状況を把握できていないようだった。不可抗力だったとはいえ、私の手が姉様を苦しませたことに心が深く抉られていく。


「っ……ルーナ、すまない」


 私の右手首を掴んだ殿下は、布を破ったような紐を手にしていた。このまま私の手を拘束するつもりなのかもしれない。


 私としてもこれ以上誰かを傷つけたり何かを壊したりするのは御免だ。一刻も早く捕まえてほしかった。


 だが、私の体の主導権を奪った化け物がおとなしく縛られてくれるはずもなく、一瞬の隙をついて殿下の腕から逃げ出した。


 殿下に捕まれていた手首には生々しい痣が出来ていた。赤くなるほどの力でなければ今の私を押さえられないのだと知って、ますます怖くなった。


 ……嫌、お願いだからもうやめて。何も壊したくないの。


 破壊を繰り返す体とは裏腹に、心はずっと泣いていた。声すらまともに出せないもどかしさと、痛みすら覚えないこの身体への恐怖に、頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 ……お願い、お願いだからもうやめて!!


 泣き言を繰り返す私の心に、私の体に宿った化け物は笑う。


 ――お前が死ぬまで終わらない。これはそういう呪いだ。


 呪い、ああ、やはり、そういう超常的な類のものなのか。聖女でも何でもなくなった今の私は、こんなにも簡単に呪いに蝕まれてしまったらしい。


 ティーカップを割り、置時計を倒し、無意味な破壊は繰り返される。激しく動き回っているせいで、息は絶え絶えなのだが、体は少しも休む気配を見せない。


 割れたガラスに映った私の瞳は、お母様譲りの雪色ではなく、濁った紫色をしていた。だから殿下は先ほど私の目について言及したのか。随分と分かりやすい取り憑かれ方に、涙と共に自嘲気味な笑みが零れた。どうやら表情だけは自由に動かせるらしい。


 何かを壊す度に、コーデリア姉様の悲鳴が上がる。


 良かった、声はちゃんと出ているようだ。私は姉様の声が好きだから、私の手が潰してしまわなくて良かった。


「っ……ルーナ!!」


 私を止めるべく、殿下が再び追ってくる。彼の影がすぐ傍まで迫るのを感じたその刹那、私の手は床に転がった果物かごの中のナイフに伸びていた。刃渡りは手のひらの長さほどもある、鋭利な銀のナイフだ。


 さっと血の気が引く。これは非常にまずい。


 だが、嫌な予感はすぐに現実となったようで、ナイフを握りしめた私の手が殿下に向かって勢いよく振り上げられた。


「っ……!」


 流石の身体能力というべきか、殿下は咄嗟に体を捻った。だが、足場が悪いせいで完全にはよけきれなかったようで、ナイフが掠めた彼の左肩からじわりと血が滲む。


 真っ白なシャツに滲んだ赤い血を見て、心臓が抉られるような想いだった。私が、私の手が確かに今、大切なあの人を傷つけたのだ。


「ルーナ!! しっかりして頂戴!! その人は殿下よ!? エリアル王太子殿下じゃない!!」


 コーデリア姉様はこちらに駆け寄る素振りを見せたが、殿下に視線で牽制されてしまう。


 彼は咄嗟に護身用のナイフを取り出したが、私に向けるのを明らかに躊躇っている。コーデリア姉様を守るべく一応構えてはいるが、迷いのある手つきだった。


 駄目だ、この状況ではきっと私は殿下を傷つけてしまう。この身に宿った化け物は、決して容赦はしないだろう。そうなれば、殿下もコーデリア姉様もどうなるか分からない。


 ああ、嫌だ、いやだいやだいやだ。あの人たちは、私の大切な、大好きな人たちなのに。


 ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。歪んだ視界のままに、私の体は走り出し、再び殿下にナイフを振り上げた。


「ルーナ……」


 殿下はまたしてもよけてみせたが、泣き出しそうな顔で私を見ていた。青みがかった黒髪の間から覗く深緑の瞳には、やはり迷いがある。護身用のナイフで私の攻撃をかわしはするが、決して私を傷つける素振りを見せない。


 それはそうだろう。この人には絶対に私を傷つけられない。彼はそれほどに深く、強く、激しく、私を愛しているのだから。私を生かすためならば、国も女神もどうなったって構わないと言い切った、悪い王子様なのだから。


 ……だとしたらもう、止める方法は一つしかないじゃない。


 体は殿下を傷つけるべく新たな攻撃を仕掛けながらも、心の中では静かな決意が固まる。殿下の体から噴き出た血飛沫を浴びながら、私は数か月ぶりに強く、今までにないほどに深い気持ちで女神アデュレリアに祈った。


 ……偉大なる女神アデュレリアの恵みと祝福に感謝いたします。女神様、どうか、どうか束の間の我が身の自由をお与えください。


 聖女でも何でもなくなった私の祈りが、今も届くのかは分からない。届いたところで、女神様が私のために何かをしてくださったことはないけれど、それでも願わずにはいられなかった。このところ散々女神様をないがしろにしておいて、こういう時だけ頼るのは傲慢なのだと裁きが下っても構わない。


 そう、私はどうなったっていい。どうなったっていいから、この身に自由を。ほんの、一瞬でも構わないから。


 そうこうしているうちに、いつの間にか私は殿下を押し倒していた。彼に馬乗りにるような姿勢で、ナイフを振り下ろす。


「ぐっ……」


 彼の右肩に、私が振り下ろしたナイフが刺さった。その気になれば私の腕を切りつけて動きを止めることは出来たはずなのに、彼はそうしなかった。


 馬鹿な人だ。自分の命よりも、私の身の安全を守ろうとするなんて。


 ぼろぼろと涙が零れ落ちていく。誰のものかも分からない血が溶けた、赤く透明な涙だった。


「ルーナ!!!」


 コーデリア姉様が今にもこちらに駆け寄ろうとしている。だが、ナイフを持った私の手がもう一度殿下目掛けて振り上げられる方が先だった。


 その瞬間、殿下の落ち着いた深緑の瞳と目が合う。命が危険に晒されているというのに、ひどく静かな、穏やかな目だった。これは死を覚悟した瞳だ。


 ……お願い、お願いだから私に殿下を殺させないで!!


 大きくナイフを振り上げながら泣き叫ぶように願えば、一瞬だけ、体に自由が戻るのを感じた。先ほどの祈りが通じたのか、私の意地が成しえた技なのかは分からない。


 この一瞬の好機を逃す手はなかった。幸いにも、既に覚悟は決まっているのだ。


 ナイフを振り上げた状態で、もう一度だけ殿下と目が合う。風のない水面のように静まり返っていた殿下の瞳に、ひとかけらの怯えの色を見た気がした。


 きっとこれから私がすることを、彼は許さないだろう。彼の今までの人生と想いを根こそぎ否定するようなものなのだから。


 ……ごめんなさい、姉様、殿下。


 彼の目の前でナイフを振り上げながら、深緑の瞳を射抜く。


「エリアル様――」


 再び体の自由が利かなくなる気配を感じながら、私は最後に微笑んでみせた。

 

「――愛していました、これでもね」


 次の瞬間、私は自らの心臓目掛けてナイフを振り下ろした。やっぱり痛みは感じないけれど、おびただしい量の赤が噴き出していく。


 私の名を絶叫する殿下の声に混じって、倒れた置時計から歪んだ鐘の音が響いていた。どうやら日付を越えることはできたけれど、暁を迎えることは叶わなかったらしい。


 ……大したものね、殿下のお聞きになった予言の力は。

 

 優しい腕に、抱き寄せられる感覚がある。彼の服が私の血で汚れてしまうわね、なんて思えば口元には小さな笑みが浮かんで、目尻から一粒の涙が零れ落ちる感覚があった。


 命の灯が消えゆく。この結末はきっと、誰にも許されやしないだろう。


 ……でも、最期が殿下の腕の中で良かった。


 抱えられた腕から、彼の鼓動が伝わる気がした。温かくて、優しくて、規則正しいあの鼓動の音が。


 そのまま私は、私の名を繰り返し叫ぶ彼の声を聞きながら、永い永い眠りについたのだった。

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