番外編 琥珀と海

 私に魔力を授けてくれたのは、古の時代に琥珀の魔女と呼ばれた人だった。

 

 魔の者の気配に満ちた陰鬱な城の庭で、ぼんやりと「彼女」のことを考える。


 すでに形らしい形もなく、弱っているためか大した会話も交わせなかったけれど、彼女の魔力は私によく馴染んだ。私が彼女と同じ琥珀色の瞳だったからかもしれない。


 魔力を継承すると、背中には蝙蝠のような小さな黒い翼が生えてきた。思ったより慎ましい大きさで、正直ちょっぴりがっかりしたものだ。


 どうせならば殿下——否、魔王様のような、背のたけほどもある翼が良かった。強そうでかっこいいもの。


 魔王様はルーナの蘇生にかかりきりで、一番の友人である私が無事魔の者の魔力を引き継いだというのに、興味なさげな素振りだった。ただ一言「目覚めたルーナに会いたければ、翼を隠せるように練習しておけ」とだけ告げられたのだ。


 魔王様はこの国のことも私たちのことも、ルーナには隠し通すつもりのようだから、確かに翼を生やしたままルーナに会いに行くことは出来ない。私だって可愛い妹に会いたいから、早速練習を始めたのだが、どうにもセンスがないのか、なかなか上手くいかなかった。


 既に翼を隠す術を習得した、離宮の三人組の助言を思い返してみる。


「コーデリア様、こう……何と申しますか、背伸びをするような感じで……」


「背伸び? あたしはむしろ体をかがめる感じだけど……」


「背中に魔力を集めるイメージを持てばすぐにできるようになりますよ」


 ガーネット、オパール、クリスと言った離宮の使用人たちは、そうやって口々にアドバイスをくれた。私は彼らより魔力量は多いようなのだが、やはりセンスの問題なのか上手くいかない。

 

 彼らも魔王様から申し付けられている仕事が多々あるので、私ばかりに構っていられず、こうして一人悶々と悩んでいる次第なのだ。


 城には他にも元人間の魔の者が大勢いるけれど、皆それぞれのコツがあるらしく、ピンとくる助言は何一つなかった。


「困ったわねえ」


 既に王国アデュレリアが落ちて一月が経とうとしている。私は暗雲の立ち込める空を見上げながら、白い息をついた。


 ルーナの蘇生にはまだかかるようだから、特別焦ってはいないけれど、みんなに出来ることを私だけが出来ないと言うのはどうにも面白くない。


「どうしたらいいと思う? ジル」


 青い貝殻のペンダントに語り掛けるも、当然答えはない。指先で貝殻の滑らかな表面をなぞりながら、深い溜息をついた。


 ルーナの蘇生、という話を聞いて、当然ながら私の脳裏をよぎったのは、「ジルも蘇生できるのではないか」という可能性だった。


 だが、どうやらジルはすでに蘇生できる段階にないらしい。クリス曰く、人の死には医学的な死と魔力的な死があるそうで、ルーナの場合は魔力的にはまだ死んでいなかったから魔王様の力で呼び戻せるけれど、ジルはもう魔力的にも亡くなっているだろうとのことだった。


 無理もない。彼が亡くなったのはもう何年も前の話だ。強大な魔力を保持する魔の者となってもなお、私がジルに出来ることはもう何も無かった。


「……残念ね」


 蘇生にどれだけの犠牲が払われるか、私は良く知っているはずなのに、もう一度ジルに会えるのならば、いくらでも残酷なことをできる気がした。


 だから魔王様のことは決して責められない。ルーナの遺体の鮮度を保つために毎日一人ずつ少女の命が奪われていようとも、ルーナの痛みを和らげるために何人もの少女が痛みに泣き叫ぼうとも、魔王様は表情一つ変えず、ただひたすらにルーナのために力を尽くしている。一見すれば残酷極まりないその姿も、彼がルーナへ向ける深い愛を知っているせいか、とてもじゃないが止めることはできなかった。


 ……せめて魔王様とルーナだけは、見せかけの平穏の中だったとしても、幸せになってほしいわね。


 魔の者に似合わぬ祈りにも似た願いに思いを馳せていると、ふと、王城の中から漏れ聞こえてくる声が、いつもにも増して賑やかなことに気づいた。


 そういえば、王国の各地の視察に行っていた部隊が、今日帰ってくるとか言っていたっけ。確か、彼らの労をねぎらうための宴が今夜開かれるはずだった。


「……お友だちが出来るといいけれど」


 魔力量の高い私は、どうにも敬遠されがちだ。さらに言えば、「聖女」や公爵令嬢のころの私を知っている人には、余計に恐縮されるばかりで碌な話が出来ないでいる。こういう時はやはりルーナに会いたい。


「ルーナが早く目覚めてくれないかしらね? ねえ、ジル?」


 陰鬱な庭の片隅で、一人貝殻に話しかける魔の者というのも何とも不気味である。ひょっとするとこれが友だちが出来ない原因なのではないか、と我ながらそれらしい推理が脳裏をよぎったが、知らないふりをした。今更この習慣をやめることはできない。


「何を貝殻にぶつぶつと話しかけているんですか、お嬢様」


 一瞬、貝殻から答えが返って来たのかと思った。思わずまじまじと青い貝殻を見つめてしまう。語り掛けているうちに、貝殻に魔術をかけてしまっていたのだろうか。


「違いますって、どういうとぼけ方なんですか、それ」


 懐かしさすら覚える声に、語り掛けられる。今度は背後からなのだとはっきり理解できた。


 訳もなく心臓が跳ねるのを感じながら、恐る恐る振り返る。視界をちらつく雪の中で、その人は柔らかな笑みを浮かべて佇んでいた。


「っ……あなた、は」


 私の目の前には、真っ白な髪に海色の瞳の青年が立っていたのだ。背中には、立派な黒い翼が生えている。間違いなく我が同胞、魔の者だ。


「あれ? 忘れちゃったんですか? あんなに切ない別れ方をしたのに、酷いなあ」


 青年はくすくすと笑いながら私の前に歩み寄ると、不意に私の手を取って手の甲に口付ける。


 ――悪い虫がつかないようにおまじないをかけておきましたよ。

 

 薄暗い地下牢の、あの口付けが蘇る。鼓動が一気に限界まで駆け上がっていくのを感じた。


「まあ、忘れてしまったのなら、初めからまた口説き直すだけなんですがね」


 目の前の光景が信じられなくて、意味も無く首を横に振ってしまう。これはきっと夢だ。あるいは私が貝殻にばかり話しかけているから、誰かが幻覚を見せてくれているのではないだろうか。


「っ……そんな……どうして……? こんな……こんなことって……」


「どうしてはこっちの台詞です。どうして魔の者になっているんですか、お嬢様」


 その声、敬語ながらも親しみのあるこの口調、この温もり、そのすべてが確かに、私の大好きなあの人のものだった。


「……ジル、なの?」


 震える手で、彼の顔がよく見えるようにそっと前髪を掻き分ける。すぐに、魔の者らしくない温かな海色の瞳と目が合った。


「はい、コーデリアお嬢様。俺ですよ、ジルです」


「あ……」


 何が起こっているのかまだ理解できなかったが、気づけば両目からぼろぼろと涙が零れていた。彼はその涙を隠すようにそっと私の体を抱き寄せる。


「まさかこんな形で再会するとは思ってもみませんでしたが……お久しぶりです、お嬢様」


 ぽんぽん、と子供をあやすように背中を叩かれて、嬉しさと腹立たしさが混ざり合ったような感情が湧き起こった。


「っ……い、一体どういうことなの!? だって……あなたは……あの日神殿で亡くなったんじゃ……」


「魔の者を防ぐ人柱、とやらになるはずだったんですが……その魔の者と取引をしましてね。魔力を継承するなら逃がしてやると言われて、迷わず取引をした次第です。それからは、他の魔の者たちと連絡を取り合ったり、継承者を探したり、とそれなりに忙しくしていたんですが……まさかこの国がこんなことになるとはね」


 ジルは可笑しくてたまらないとでもいうように、城を見上げた。美しかった白亜の城は今や見る影もない。誰かの趣味で黒く塗り替えられたらしい。


「魔の者になってしまった以上、二度とお嬢様にはお目にかかれないだろうな、と思っていたのですが……どうなるか分からないものですね。お嬢様も魔の者になってしまったのなら、もう何も迷うことはない。辺境の視察を終えて戻って来たので、こうして馳せ参じた次第ですよ」


 ジルが、生きていた。もう人間ではないけれど、それはお互い様だ。


 ただ、彼が確かに息をして目の前にいると言う事実が、嬉しくてたまらなかった。余計にぼろぼろと涙が零れ落ちていく。


「っ……何を遠慮することがあるのよ。生きていたならさっさと姿を現しなさいよ!」


「これでも俺だって遠慮していたんですよ。あなたは王太子の正妃になったみたいでしたから」


 不意にジルが面白くなさそうに表情を曇らせる。そして先ほど口付けた私の手の甲を指先でなぞると、どこかふてぶてしい様子で続けた。


「……悪い虫がつかないおまじない、ちゃんとしたのに、ついてるじゃないですか。この世界で一番悪い厄介な虫が」


「……もしかしてそれ、魔王様のこと言ってるの?」


「当たり前です。魔王様は魔王妃様にご執心だって、辺境の地まで噂が流れて来ましたよ。愛されているんですね、良かったじゃないですか」


 言葉とは裏腹に、どんどん機嫌が悪くなっていくジルの様子に、たまらず吹き出してしまった。ジルの海色の瞳が睨むようにこちらに向けられる。


「あの人が……わたくしを……? おかしくてたまらないわ」


 天地がひっくり返ってもあり得ないだろう。言葉通りに女神を欺き、国を傾けたあの人が、ルーナ以外を心に住まわせるなんて。


「っ……だって、魔王様は聖女だった魔王妃様を救うために、王国アデュレリアを滅ぼしたんだって話ですよ。それってあなた以外に誰かいるんですか?」


「馬鹿ね、聖女は聖女でも本物の聖女様よ。私の異母妹のほう」


「……ルーナ様ですか? 亡くなったという噂を聞いておりましたが……そうか、ご無事だったんですね」


 ぱっと表情を明るくするジルに、私はばっさりと言い捨てた。


「いえ、死んでいるわ」


「え」


「今はね」


 王城から少し離れたところには、白と青で彩られた美しいままの小さな離宮がある。あそこで今日もルーナは眠っているのだ。


「今は、って……」


「魔王様が呼び戻すわ。そのうちね」


 片目をつぶってジルに笑いかければ、彼は何とも言えない表情で私と同じく離宮を見やった。


「……倫理観も何もあったもんじゃないですね」


「ルーナにまつわる話で、あの人に倫理観だとか理性だとかを求めるのは馬鹿らしいにも程があるわ。……ルーナの前では気持ち悪いくらい紳士なんだけれどね」


 魔王様の優しさはルーナ限定だ。これでも私は彼に気にかけられているほうだとは思うけれど、ルーナとは比べようもない。


「じゃあ、この世界で一番厄介で悪い虫は……」


「わたくしの可愛い妹姫についているってわけ。憐れんであげてちょうだい。死して尚、あの人のもとに呼び戻されているのよ」


「ルーナ様……」

 

 公爵邸に仕えていただけに、ルーナにもそれなりに思い入れはあるのか、ジルの表情は苦々しいものだった。いつも魔王様の傍にいたせいで彼の凶行に慣れていたが、傍から見れば恐ろしいものなのかもしれない。


 でも、どれだけ許されない行いでも、ルーナがいないよりはずっとマシだ、という点では魔王様に同意だった。私も結構ルーナのことが好きだと思う。


「ああ、でも……俺は魔王様の逆鱗に触れずに済むんですね」


 ジルはどこかほっとした様子で笑うと、意味ありげに私に視線を投げかけた。


「本当は、あなたを攫ってこの国から出ていくつもりだったんです。同じ魔の者になったのなら、我慢できなくなってしまって……」


 ジルは私の指に自らの指を絡めるようにして手を握ると、繋いだ手にそっと口付けた。


「俺はどうしても、あなたが欲しかったんです。コーデリアお嬢様」


「っ……い、言うようになったじゃない」


 魔の者になると、皆積極的になるのだろうか。魔王様もそうだ。あれだけルーナに触れるのを躊躇っていたくせに、今では毎日のように彼女の体を抱きしめて愛を囁いている。


「嫌でした?」


 からかうようなジルの声に、どうしようもなく心が満ち足りていくのを感じた。彼に嬉し涙の名残を見られたくなくて、顔を背けながらなるべく気丈に答える。


「き、奇遇なことに、わたくしもあなたが欲しいと思っていたところだから、嫌なわけないでしょ! さっさと魔王様の所に挨拶に行くわよ!」


「……奥様を下さい、っていうんですか、俺」


「ルーナのことと勘違いされたら、間違いなくあなたは消されるから、言うならちゃんと私の名前を出してね」


「怖い人だ」


 溜息交じりに笑うジルに、私もふっと頬を緩める。


「怖い人よ、なんて言ったって我らが魔王様だもの」


「違いない」


 私はジルの腕に自らの腕を絡めて、早速魔王様にお会いするべく歩き出した。


 人ではない者に堕ちた先で、こんな幸福が待っているなんて。


「……この道を選んで大正解ね、魔王様」


 どことなく皮肉めいた笑みを浮かべて、私はジルとの新たな日々を歩き始めたのだった。

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