番外編 離宮の宴

 真冬の新月が過ぎ、目覚めてから一か月が経とうかという頃。


「お嬢様、とっても素敵です! ほら、姿見でよくご覧になってください!」


「わたくしの見立てに間違いはなかったわね」


 ガーネットやコーデリア姉様に促されるままに、私は姿見の前に躍り出た。


 鏡には、品の良い深緑のドレスを纏った銀髪の少女の姿が映し出される。コーデリア姉様の手でお化粧をしていただいたせいか、いつもよりもずっと大人っぽく見えた。


「とっても可愛いわ、ルーナ。これはあの人も喜ぶこと間違いなしね」


 私の両肩に手を置いて、コーデリア姉様は鏡越しに片目を瞑ってみせる。

 

 そう、今夜は遂に宴を開くことになっているのだ。無事に――とは言い難いかもしれないが――予言の夜を越えられたことを祝うあの宴だ。私の回復を待って、予定よりずいぶん遅くなってしまった。


 今夜纏う深緑色のドレスは、もちろん殿下の瞳の色を意識したものだ。想い人の瞳と同じ色のドレスを纏う、この国の可愛らしい風習に従ったものだった。


「お嬢様の銀の髪には何でもお似合いになりますね!」


 部屋の隅で何やら作業をしていたオパールが、香水を片手に戻って来た。姉様が早速それを受け取って、今日の私の装いに相応しいものを吟味してくださる。


 姉様とは、目覚めてから一週間ほどが経った頃にお会いすることが叶った。聖女のお仕事が相当お忙しかったようだが、今は落ち着いているという。


 深い海色のドレスを纏った姉様は、今夜も輝くばかりの美しさだ。胸元にはやはりあの青の貝殻のペンダントが提げられていて——。


 と、そこまで観察して、ペンダントにもう一つ装飾品が増えていることに気が付いた。海色の石がはめ込まれた細い指輪だ。


「……どうかした?」


 私の視線を感じ取ったのか、姉様は香水の小瓶を片手に首をかしげる。


 あの貝殻のペンダントは確か姉様の想い人の忘れ形見だ。指摘してよいものか迷ったが、誤魔化す言葉も思いつかず、私はそっと自らの胸元に手を当てて口を開いた。


「いえ……姉様のペンダントに見慣れない指輪がついていたから……何か御心境の変化でもあったのかと思ったのです」


 姉様は指摘されて初めて思い出したと言わんばかりに目を見開いて、指輪を摘まみ上げた。


「ああ、これね。ジルに貰ったのよ。このところ、彼、何かとわたくしに贈り物をくれるから困ってしまうのよね」


 言葉とは裏腹に口元がにやけているが、これには思わず眉をひそめてしまった。


「……姉様の想い人は、既に亡くなっているのではありませんでしたか?」


 私の指摘に、なぜか姉様だけでなくガーネットやオパールまではっとしたような表情を見せる。姉様は一瞬あからさまに失敗した、というように顔をしかめたが、すぐに笑みを取り繕った。


「……実はね、王国の別の場所で生きていたのよ。最近再会したの」


「まあ! それは喜ばしいことです。本当に、よかった」


 奇跡みたいなことは、案外この世界にありふれているのかもしれない。私が目覚めたことといい、今になって姉様の想い人が見つかったことといい、どうなるか分からないものだ。 


「ええ、ありがとう。本当はあなたにも会わせたいところだけれど……まあ、殿下がお許しにならないでしょうね」


 姉様はからかうように笑って、私の髪を耳にかけた。殿下の話題を出されると、どうしても脈が早まってしまう。


「今夜、渡すんでしょう? あの飾り布」


「え、ええ……でも、あまり良い出来栄えではありませんので、自信はないのですが……」


 怪我をする以前から地道に縫っていた飾り布は、何とか完成を迎えた。だが、不器用な私が刺した刺繍は、予想通り美しいとは言い難いもので、姉様のお手本とはとてもじゃないが並べたくないような作品である。


 私を何より愛してくださっている殿下のことだ。お渡しすればそれはもう喜んでくださるのだろうが、それが分かっているだけに気後れしている部分もあるのだ。


「何言ってるのよ。自信をもってお渡しなさいな。……きっと山ほどお礼の品を送りつけてくるわよ。覚悟しておきなさい」


 殿下の惚気に付き合わされているという姉様は、どこかうんざりしたご様子で溜息をついた。相変わらず、我が国の「王太子夫妻」は仲がよろしいらしい。


「そろそろ時間ですね。きっと殿下は広間でお待ちです。参りましょう」


 ガーネットが慎ましく礼をしながら申し出る。小規模ながらに華やかな宴が今、始まろうとしていた。




 宴は、離宮の大広間で行われた。


 クリスが考案してくれた立食形式の軽食を摘まみながら歓談するような、小さな宴だったが、みんなで食事をしているだけでも楽しい。


 クリスとオパールは今日も小さなことで口論を繰り広げていて、それをガーネットが何とか諫めようとしている。コーデリア姉様は、食事よりも先に甘いものに手を伸ばしているようだった。


 立食形式なのだが、回復したばかりの私は椅子に座らされていた。すぐ隣には殿下がいらっしゃって、飲物を片手にガーネットたちの様子を観察なさっていた。口もとには柔らかな微笑みが浮かんでいる。


 今夜の殿下の装いは、黒いシャツに漆黒の外套を羽織った、非常に色気のあるものだった。このところの殿下は、黒を殊更に好んで着ておられる気がする。殿下の青みがかった黒髪とよくお似合いだ。


 今夜の私のドレスは深緑を基調としたものだが、黒いレースもあしらわれていて、殿下と並ぶと統一感のある姿になっていた。姉様はこのあたりも加味して私にドレスを選んでくださったのかもしれない。


「相変わらずですね、ガーネットたちは」


 殿下とはもうすっかり普通に話せるようになっている。隣にいらっしゃるだけで私の心臓はせわしなくなってしまうけれど、それでも初めのころに比べればかなり慣れた方だと思う。


「ガーネットというよりは、クリスとオパールだな……。あの二人は昔からあんな風で困ってしまうな」


 そう言って笑う殿下の瞳には、彼らを慈しむような色が見て取れる。やはり、彼らは殿下にとって友人であると同時に、可愛い弟妹のようなものなのだろう。


「ふふ、殿下、お兄様みたい」


 思ったことをそのまま口に出せば、彼はゆったりと私に視線を投げかけてきた。


 彼は変わらず穏やかな方だが、私が目覚めてからというもの、その瞳には以前には無かった怪しげな光が宿っている気がして、なんだかどぎまぎしてしまう。


「彼らにとってはそうかもしれないが……ルーナにはそう思ってほしくないな」


「表向きは『お義兄様』なのに?」


 姉様と結婚しているのだから、一応殿下は私の義理のお兄様ということになる。もちろん彼を義理の兄だと思っているわけではないが、少しだけからかうような気持ちで告げれば、案の定、殿下は僅かに肩を落とすように弱々しく笑った。


「まあ……表向きの関係性としてはそうなるのかもしれないが、お義兄様と呼ばれるのは御免だ」


 はっきりと言葉に表していないが、この一か月の私と殿下は殆ど恋人同士だったといってもいい。口付けだって既に何度か交わしている。


 だから、これを機に一歩踏み出してみようか。とくとくと早まる心臓を落ち着かせるように、胸の前できゅっと手を握りしめ、私は熱くなった頬を隠すように軽く俯いた。


「では……お名前で……エリアル様、とお呼びしてもよろしいですか?」


 耳の奥で心臓が鳴っている。数秒の沈黙が嫌に長く思えた。


「いや」


 殿下は拒絶のような言葉を口にしたかと思えば、私の前に膝をついて、椅子に座った私と視線を合わせた。


「エリアル、と。呼び捨てで呼んでくれ」

 

 殿下は満ち足りた美しい微笑みを浮かべて私に頼み込んだ。お名前をお呼びするのにも緊張してしまうのに、敬称もつけないなんて。


「それは……いくら何でも、未来の国王陛下に対して不敬なのでは?」


「君ならいい」


 何の躊躇いもないその返事に、恥ずかしくなってしまうほどに幸福な気持ちになる。


 私は、許されている。彼にとっての特別なのだと、思い知らされることばかりでいつも嬉しくなってしまうのだ。


「……エリアル」


 恐る恐る名前を呼べば、それだけで彼は極上の幸福の中にいると言わんばかりの笑みを見せた。自然にしていると冷たい美しさのある人なのだが、私の前では甘すぎる。軽く俯いて、この甘ったるい幸せを噛みしめるように何度か瞬きをした。


「君が今、ここにいてくれてよかった」


 エリアルは、そっと私の手に触れ、温もりを確かめるように指先を滑らせる。くすぐったい感覚に思わず小さく声を上げて笑えば、彼はそのまま私の手に口付けた。角度を変えて甘やかすように繰り返される口付けに、脈が限界まで早まってしまう。


 顔から火が出そうな熱を感じながら彼を見下ろしていると、意味ありげに笑う彼と至近距離で目が合った。駄目だ、もう耐えられない。


「っ……少し、失礼いたしますわ」


 私は半ば強引にエリアルの手を振りほどいて、広間から駆け出した。頬に帯びた熱にまともな思考が溶かされて行きそうだ。


 すぐさま応接間に滑り込み、青いカーテンを身に纏わりつかせるようにして何とか落ち着こうと試みる。こんな様子では飾り布なんてとても渡せない。


 いつでも渡せるように、と忍ばせて置いた飾り布を取り出して、ぎゅっと握りしめた。


 これを渡したらあの人は、もっともっと甘い顔を見せるに違いないのだ。これ以上甘やかされたら、きっと私は倒れてしまうに違いない。


 以前は私に触れるのも恐れていたくせに、と彼の豹変ぶりに一人悶々とする。やはり、私が目を覚ましてからの彼は積極的だ。今のところ口付けもすべて彼からされている。


 ……もうすっかり、この恋の主導権を握られているじゃない。


 そのままカーテンの中であれこれと考えていると、間もなくして応接間の扉が開かれた。焦ったように飛び込んできたのは、他でもないエリアルだ


「……ルーナ」


 まとめられたカーテンを体に巻き付けるようにして一体化していたせいか、彼は私を見逃しかけたが、それも一瞬のことですぐに見つかってしまう。


「ルーナ……なんでそんなところに……」


 まだ頬の熱が引いていない。それにも構わず距離を詰めてくるエリアルに、気づけば私は半ばやけになって飾り布を差し出していた。


「っ……これ」


 カーテンの中から右手だけを差し出す妙な格好だ。


「これ……ずっと刺繍していたんです。姉様に、教えていただいて……。完成したので、エリアルに差し上げます」


 エリアルの手に押し付けるように飾り布を手渡して、カーテンを手繰り寄せた。すぐに視界が青い布で覆われる。


「……これを、俺に?」


「う、上手くできませんでしたけれど、一応あなたに作っていたんです」


 沈黙が怖い。跳ねる心臓を抑えるように何度も深呼吸を繰り返すけれど、少しも効果が無かった。


 彼は一体どんな表情をしているだろうか、と恐る恐るカーテンから顔を出して彼の様子を窺えば、たちまち彼に壁際に追い詰められてしまった。


 驚いて目を見開いたのも束の間、そのまま半ば強引な仕草で口付けられる。獲物を捕らえるような鋭い目つきの彼と至近距離で目が合ってしまって、ますます心臓に悪い。


 口付けは、私の息が切れるまで繰り返された。涙目になったころにようやく解放されたが、彼は私の手を取って指先や手のひらへそっと唇を当てる。その仕草が妙に色気があって、やっぱり直視できない。


「……指先に怪我をしてまで作ってくれていたんだな。大切にする」


 今は跡形もない傷跡を辿るように繰り返される口付けに、もう私は限界だった。半ばのぼせるような形でその場に崩れ落ちてしまう。


「ルーナ!?」


 慌てたエリアルがすかさず私を抱き竦めるが、何だか悔しくて涙目のまま彼を睨みつけた。


「ひどいです、こんなになるまで口付けなくてもいいじゃありませんか!」


「わ、悪い……ルーナがあんまりかわいかったから……」


 以前の怖いくらい控えめなエリアルはどこへ行ってしまったのだろう。


「……ひどいものはひどいのです。エリアルはやっぱり悪い王子様ですわ」


 彼に翻弄されるのが悔しくて、軽い力で彼の胸を何度か叩く。エリアルはそれすらも微笑ましいと言わんばかりに、柔らかな眼差しで見守っていた。


「否定できないな、それは。ルーナのためなら何でもできてしまうから」


「何でも……?」


「何でも、だ」


 彼は私の髪を梳きながら、楽しそうに笑った。何でも、なんて大袈裟な王子様だ。


「世界をぜんぶ敵に回すようなことでも?」


 からかうように問いかければ、エリアルは柔らかな笑みを崩すことなく淡々と声たる。


「訳もないな。既に俺は世界で一番の嫌われ者だ」


「え?」


 予想外の返答に目を丸くすれば、彼は可笑しくてたまらないとでもいうように軽く声を上げて笑った。


「冗談だ」


 冗談を冗談風に言わないからこの人は厄介だ。もう、と軽く拗ねる素振りを見せれば、彼の手が宥めるように私の頭を撫でた。


「……もしも本当に俺が世界で一番の嫌われ者だったとしても、君は俺を好きでいてくれるだろうか」


 例え話にしては神妙な雰囲気のある言葉を不思議に思いながらも、私は自身のドレスを摘まんで見せる。


「そんなの、今夜私が着ているドレスが答えですわ」


 エリアルはまじまじと私の姿を見つめた後に、曖昧な笑みを見せる。期待していたものとは少し違う反応に、胸騒ぎがした。


 まさかエリアルは、令嬢たちの間でお決まりの「好きな人の瞳の色のドレスを着る」という習慣をご存知ないのだろうか。

 

「……いいです、コーデリア姉様にでもお聞きになったらよろしいのだわ」


 私からは教えて差し上げるものか。ふん、と鼻を鳴らすようにエリアルから顔を背ければ、彼があたふたと私の機嫌を取ろうとするのが横目に見えた。

 

「ごめん、綺麗だな、としか思ってなかった」


「褒めても教えて差し上げません」


「ルーナのことばかり見てしまうから、ドレスにまで気が向かなくて……」


「何を仰っても同じですわ」


 彼の腕の中でしばらくこんなやり取りを繰り返したのちに、困ったように揺らぐ深緑の瞳と目が合ってしまった。


 流石に我儘が過ぎただろうか、と少しだけ反省した私は、彼の耳元にぐっと近寄ってドレスの意味を教えて差し上げる。私ってなんて優しいのかしら。


 そう、私は優しいから教えて差し上げただけで、決してエリアルのしょんぼりした顔に絆されたわけではないの、と誰ともなしに言い訳を並べる。


 エリアルの耳元で、この王国の可愛らしい風習のことを教えてあげたところで、彼は幸せそうに目を細めて小さく息をついた。その横顔が何だか可愛らしかったから、私は耳元から離した唇をそのままそっと彼の唇に重ねた。


「っ……」


 激しく動揺したようなエリアルは、言葉もなく食い入るように私を見ていた。耳の端が赤い。


 私はにっと悪戯っぽく笑ってみせたのを最後に、彼の腕から離れた。今夜はここまで、と言わんばかりに小首をかしげて笑いかければ、エリアルが頭を抱えて悩まし気な溜息をつく。


「……降参だ、ルーナに適う気がしない」


「ふふ、何の話です?」


 そうやって私に翻弄されていればいいのだ。どことなく得意げな気持ちを覚えながら、私はくるりと身をひるがえした。


「さあ、広間へ戻りましょう? あんまり遅いと、姉様にあれこれと詮索されてしまいます」


「それは面倒だな」


 エリアルはすぐさま私の隣に並び立つと、エスコートするように手を差し出した。いつかは無視したその手に、自らの手を素直に重ねられることを嬉しく思う。


 箱庭の中でも、限られた人にしか会えなくても、私は今、こんなにも幸せだ。


 美しく完結したこの小さな世界を愛おしく思いながら、私は殿下と共に、姉様たちの待つ広間へと足を踏み出したのだった。

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嘆きの聖女は王子様の箱庭の中 染井由乃 @Yoshino02

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