第23話 暁の訪れ

 永い永い、夢を見ていた気がする。


 果てしなく広がる楽園のような場所で、私は一人歩いていた。名前も分からない色とりどりの花が咲き乱れていて、裸足の足には何だかくすぐったい。


 花畑の先では、華やかな笑い声と優しい白い光があって、訳もなく私はそこを目指して歩いていた。


 でも、その途中である女性が私を引き留めたのだ。懐かしい人だった。愛しいあの人によく似た黒髪の、美しい人。


「……どうやらあなたは、この先にはいけないみたいよ。私の息子がごめんなさいね。あの子はあなたのこと、離してあげられないみたい」


 その人はくすくすと笑って、私が歩いてきた方を指さす。黒く靄がかかったようなその場所を見ると、何となく不安な気持ちに駆られたが、その中に殿下の声を聞いた気がした。


「……殿下?」


 私の名を繰り返し呼ぶ、あの人の切ない声だった。よくよく耳を澄ませてみれば、コーデリア姉様の声も聞こえる気がする。


 あの靄の中に、殿下がいらっしゃる。それならば怖いことなんて何もない。私はたまらずその場から駆け出した。


 ルーナ、と私の名を呼ぶ声がする。帰らなくちゃ、彼が、私を呼んでいるのなら。


「……二度と会うことはないでしょうね、私たち」


 背後で女性の寂し気な声が響く。それに構うこともなく、私は真っ黒な靄の中に夢中で飛び込んだのだった。


◆ ◆ ◆


「っ……」


 呼吸が懐かしい、なんて思うのは生物としてきっとどうかしている。


 それでも、肺の奥底にまで空気を巡らせたのが、とても久しぶりな気がしてならない。それほど深く、私は眠っていたのだろうか。


 ああ、確か私は呪いに蝕まれて、殿下や姉様を傷つけて、最期に自分の胸を貫いたのだっけ。


 あれは間違いなく死んだと思ったのだが、どうやら私は助かったらしい。すっかり見慣れた離宮の寝台の上で、ゆっくりと何度か瞬きを繰り返す。ああ、前も肩を負傷したときに、こんな心地で天蓋を眺めていたのだっけ。


「……ルーナ?」


 恐る恐る私の名を呼ぶその声は、紛れもなく愛しいあの人のものだった。


 ゆったりと首を傾ければ、ベッドサイドではどこかやつれたような顔をした殿下が私を見守っておられる。


「……殿、下」


 やはり、随分長いこと眠っていたようだ。上手く声が出ない。体が鉛のように重たかった。


「ルーナ……本当に……本当に目覚めてくれたのか……?」


 殿下は信じられないものを見るような目で、私に手を伸ばした。骨ばった長い指先が震えている。この様子を見る限り、私は随分危ない状況だったらしい。


 それもそうだ。今こうして生きているのが、私自身不思議でならないのだから。


「ルーナ……っ!!」


 感極まったように私の名を呼ぶと、殿下は透明な涙を何粒か零した。彼にはひどい心配をかけてしまっただろう。それが分かるだけに、私は全身の力を振り絞って、私に向かって伸ばされた彼の手を取っていた。


 それを機に、殿下は言葉もなく私を掻き抱いた。胸の傷が痛むかと思ったが、不思議と何も感じない。目覚めたばかりで、殿下の背中に腕を回す力も出ないのが残念だ。


「殿下……ごめん、なさい。私……私……っ」


「いい、何も話すな」


 殿下はそのまま私の肩口に顔を埋めるようにして、私の体を抱きしめていた。私の温もりを確かめるかのような彼の姿に、胸の奥をきゅっと掴まれるような切なさを覚える。


 私に触れることすらあれ程躊躇っていた殿下が、なりふり構わずこうして私を抱きしめるなんて。そうせざるを得ないほどの不安に駆られていたのだろうか。


 そう思うと、姉様と殿下の命を救うためとはいえ、彼の目の前で自ら剣を突き立ててしまったことを深く後悔した。


 この人は、私の他は何も要らないとまで言ったのだ。その私が私を終わらせる決断を下すことは、どんな事情があったって許されなかったに違いない。


 殿下に抱きしめられているうちに、少しずつ指先にまで力が戻って行って、いつしか彼の背中に腕を回せるようになった。


 やはり自分の意思で体を動かせるのは気分がいい。私はそっと彼の後頭部に手を添えて、髪を指に絡めるように頭を撫でた。青みがかった黒の髪は、さらさらとしていて柔らかい。


 彼は私の心臓の音を確かめるかのように、静かにもたれかかっていた。いや、声も無く泣いているのかもしれない。重すぎる愛も、想い人から向けられるのならば喜ばしい。


 私の手が、彼を殺さなくて良かった。彼が生きていてくれてよかった。


 彼の髪を撫でながら、眠りに落ちる直前の騒動を思い返してみた。彼らからしてみれば、私は錯乱してたように思えただろうか。


 事情を説明するべく、彼を抱きしめたまま思い切って口を開く。これほどの出来事があったからか、不思議と殿下の前でもするすると声が出てきた。


「……殿下、あのとき私は、何かよく分からない化け物のようなものに取り憑かれていたのです。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、あれは私の意思ではありませんでした」


 落ち着いたからか、先ほどよりもずっと滑らかに話すことが出来た。あれだけの負傷をした後だと言うのに、私は案外頑丈にできているらしい。


「分かっている。俺も何となく気配を感じていた」


 私に忠告してくださっただけあって、殿下も察しておられたようだ。これも聖女の血がなせる業なのだろうか。


 と、そこまで考えて、眠りに落ちる直前、私の手が殿下の肩を刺していたことを思い出した。はっとして彼の肩を確認するべく少しだけ体を離せば、深緑の瞳が不満そうに向けられる。


「っ……殿下、右肩の傷は? 私が刺してしまったでしょう……?」


 あれも相当深い傷だったはずだ。下手したら手が動かなくなってもおかしくないような怪我なのに、ひょっとして彼は今、痛みに耐えて私を抱きしめてくださっているのだろうか。


「……平気だ。もう痛くない」


 それだけ告げて殿下は再び私を抱きしめる。あれだけの傷がもう痛まないなんて。


 でもそういえば、私の胸の傷も少しも痛まない。怪我しているのが嘘みたいだ。


「良かったです。……私も、不思議と傷が痛みません。あれだけ深く刺したのに……」


 噴き出した血の量といい、あの意識の薄れ方といい、死を覚悟するには充分だった。こうして生きていることを改めて不思議に思っていると、殿下は私の髪を撫でながら小さく微笑む。


「……腕の良い医者に診てもらったからな」


 何かを誤魔化すような笑い方をする殿下を不思議に思いながらも、そっと自らの胸に手を当てる。幾重にも包帯が巻かれた胸元は、少し息苦しいくらいだった。


「目覚めたとはいえ、まだ無理をしてはいけない。しばらくは安静にするようにな」


 殿下はようやく私を抱きしめる力を緩めると、そっと寝台に横たえた。これには素直に従うほかない。


「はい、殿下」


 殿下はそっと薄手の毛布を私の首元まで引き上げてくださる。至れり尽くせりだ。


「……姉様や、ガーネットたちはどうしていますか?」


 姉様の細い首を絞めてしまったことを思い出して、血の気が引く想いだ。傷跡が残っていたりしたらどうしよう。


「みんな元気に過ごしている。コーデリアは今、少し忙しくてな……。すぐには来られないかもしれないが……ずっとルーナのことを心配していた」


「……御無事で良かった。早くお会いしたいです」


 予言の期日が過ぎた今も、姉様は聖女として活動なさっているのだろう。忙しくて当然だ。


「ルーナが一番重症なんだから、君が元気になってくれないとな。治ったら、約束通りこの離宮で宴を開こう。思いきり華やかで、特別なものを」


「はい、楽しみです」


 殿下は柔らかく微笑みながら、慈しむような手つきで私の頬を撫でる。くすぐったい感覚にくすくすと笑い声を上げれば、自然と二人の視線が絡んだ。


「……目覚めてくれてありがとう、ルーナ」


「大袈裟です……と言いたいところですが、私も似たような想いです」


 毛布からそっと手を伸ばして、殿下の手に触れる。私より少し冷たくて大きな、やさしい手。


「……もう一度、あなたに会えてよかった」


 その言葉に、殿下は満ち足りたような微笑みを見せた。そのまま軽く上半身をかがめるようにして、私との距離を詰める。彼の長い指が、私の頬にかかった髪をよけてくれた。


 数秒間、至近距離で見つめ合った後、惹かれ合うように二人の唇は重なっていた。触れるだけの優しく甘い口付けだった。


 唇を離し、どちらからともなく笑い合う。本当はここで「愛しています」の一言でも言えればいいのだろうが、生憎そこまでの勇気はまだない。


 殿下は甘やかすように私の髪を撫でた後、姿勢を正した。今日の彼の装いは、シャツも上着も黒で統一されていて、黙っているといつもより鋭い印象を受ける。柔らかい表情を見せる殿下も好きだけれど、凛とした面持ちの殿下も素敵で、思わず見惚れてしまった。


「……そんな目で見ないでくれ。目を覚ましたばかりの君に無理をさせたくない」


 殿下はそれだけ言って、それとなく視線を逸らしてしまう。


 彼にしては積極的な発言に、ばくばくと心臓が早鐘を打ち始めた。


 私に触れることすら躊躇っていた彼は、一体どこへ行ってしまったのだろう。たちまち頬が熱を帯びるのを感じ、赤みを隠すように毛布の中に顔を隠した。


 ……おかしいわ、この恋の主導権は私にあったはずなのに!

 

 調子が狂うのを感じながら、私は毛布から僅かに顔を出して、ちらりと殿下を見やった。何事も無かったかのように穏やかに笑うその顔が、どこか憎らしく思えてしまう。彼に振り回される予定ではなかったのに。


 それでも不思議と不快ではないのは、私の心までもが彼に囚われている証なのだろうか。


 幸せな戸惑いだ。口元がだらしなく緩むのを感じながら、再び彼と視線を絡めあったのだった。


◆ ◆ ◆


「ルーナが目覚めたの!?」


 離宮から出て早々、俺は真っ先にコーデリアにルーナの回復を報告した。


 いや、回復という表現はおかしいのかもしれない。彼女は確かに一度死んでいたのだから、蘇生というべきなのだろうか。


「ああ! 早くわたくしも会いに行きたいわ!! あなたばっかりずるいわよ!!」


 俺と同様にルーナを案じていたコーデリアは、背中に生えた真っ黒な翼を揺らめかせながら不満を述べる。


「それならば早くその翼を隠せるようになれ。いつまで経っても会いに行けないぞ」


「たった半日で隠せるようになったあなたがおかしいのよ!!」


 魔の者に支配された王城には、日に日に仲間が増えていく。古の魔の者たちから魔力を受け継いだ元人間たちだ。その中でも強大な魔力を受け継いだコーデリアは、俺と同様に特別な存在だった。

 

「コーデリア様の魔力ならすぐに隠せるようになるはずなんですがね……。ガーネットやオパールも既に習得していますし」


 共に歩いていたクリスが心底不思議そうに首をかしげる。翼を隠すのは魔の者にとって初歩の初歩というべき魔術だそうだ。クリスも嫌味で言っているわけではないのだろうが、コーデリアにきっと睨まれていた。


「そもそもわたくしの翼、蝙蝠みたいで可愛くないのよ! わたくしもあなたみたいな、大きな鳥のような翼が良かったわ」


 コーデリアは俺の背中を見やりながら、ぶつぶつと文句を垂れていた。周りに後れを取っていることが相当許せないらしい。


「お前の恋人はその翼を褒めていたはずだがな」


 さりげなく彼女の機嫌を取るようなことを呟けば、コーデリアの表情がたちまち明るくなる。


「あら、本当? ま、まあ、確かに見ようによっては愛らしく見えるかもしれないわね」


 だらしなく頬を緩ませるコーデリアを横目に、小さく息をついた。このところずっと惚気話を聞かされているせいか、彼女のあしらい方もだんだんと分かってきた気がする。


「ついでに恋人にでも練習に付き合ってもらえ。ルーナと宴を開く約束をしたから、それまでには何とか隠せるようになっておくんだ」


「そうね……そろそろ本気を出して頑張らなくちゃ」


 古の魔王から魔力を受け継ぐと決めたあの日から早半年。この国に、もはやかつての面影はなかった。


 魔力を受け継いだ俺は、ルーナの蘇生のために動き出すと同時に、ルーナに最適な環境を生み出すべく、この国を奪うことに力を尽くした。


 ルーナの蘇生には大勢の命が必要だったのだ。いちいち人の命を奪う名目を用意していられないから、国ごと堕とすことにした。俺にルーナを救えるほどの魔力を継承してくれた、古の魔王の望みをかなえてやろうと言う気持ちも少しはあった。


 父を亡き者にし、側近も始末すれば、驚くほど簡単に国は傾いた。特に神殿の呆気ない崩壊ぶりには、声を上げて笑ってしまったほどだ。


 俺を始めとした新たな魔の者に支配されたこの国の住民は、逃げるようにこの土地から出ていった。残された者は、新たな魔の者となった元人間たちばかり。いつの間にか周辺諸国からは、魔の国と称されるまでになった。

 

 新たな魔の者の魔力に満ちたこの国では、もうしばらく陽の光を見ていない。どうやら俺たちの魔力は雲と翳りを呼び寄せるらしい。


 一日中薄暗いこの国は、人間たちにはさぞかし不気味に映っているだろう。この国がかつて女神の名を冠した神聖なる王国だったなんて、もう誰も信じないに違いない。


「ああ……そういえば陛下、隣国で『勇者』を名乗る者たちが魔王討伐と称してこちらに向かっているとか……。囚われの聖女を奪還しようとしているそうですよ」


 クリスが思い出したように告げる。またか、と思わず溜息が零れた。


 国を亡ぼす際に、離宮で眠るルーナの情報がどこからか漏れてしまったらしく、今や彼女は魔王に囚われる憐れな聖女様として広く知れ渡っているのだ。


「性懲りもない奴らねえ」


 話が聞こえていたらしいコーデリアが退屈そうに欠伸をする。クリスもそれに同調するように小さく笑った。


「まあ、魔王討伐なんて響きがいいですからね。もし討伐して聖女を連れ帰ることが出来たら、それこそ人間にとっては英雄ですから」


「聖女を連れ帰る? 笑っちゃう。この人があの子のこと手放すわけないのに」


 コーデリアは意味ありげに笑ってちらりと俺を見た。否定できないだけに、返す言葉もない。


「……とりあえず、その勇者御一行とやらにはこの世からご退場願え。この国の土地を踏ませるな」


「承知いたしました。すぐに適当な者たちを向かわせましょう」


 クリスは恭しく腰を追って早速傍の者に指示を下していた。この城ではもうすっかり恒例のやり取りだが、決してルーナには聞かせられないな、と薄い笑みが零れる。


 ルーナには、言えないことばかりだ。この国の現状も、俺の正体も、ルーナを呼び戻すのにどれだけの犠牲が払われたのかも。


 ルーナを蘇生するのには、古の魔王の魔力が宿っている俺でも半年かかった。その間、彼女の体を美しく保つために失われた少女たちの命はいかほどだろう。一日で一人を消費したから、ざっと二百人近くだろうか。加えてルーナの心臓を修復するのに百人程度と、ルーナの痛みを取り除くために数十人……。


 そこまで数えて、馬鹿らしくなってやめた。まあ、尊いルーナのために命を散らすことが出来たのだから、彼女たちも喜んでいるに違いない。


 今も地下牢には数十人の少女たちがルーナのために待機しているが、もう不要になってしまった。かといって一度この国の土地を踏んだ者を生きて返すわけにはいかない。


 生かしておけばそのうちルーナのために使えたりするだろうか、と考えてやめた。そのときはまたどこかから調達して来ればいい。地下牢生活で疲弊した命を、輝かしいルーナのために使うなんて無礼にも程がある。


「クリス、地下牢の処理も頼んだ。ルーナが目覚めた今、あれらはもういらない」


「承知いたしました。今日中に処理いたします」


 クリスが慎ましく答える中、コーデリアがくすくすと妖艶な笑みを見せた。魔の者らしく漆黒の衣装を纏ったコーデリアは、「聖女」だったときより生き生きとしている。


「ふふ、怖い人ね。ルーナ以外のことは何とも思っていないのだから」


「……何か文句でも?」


 友人の揶揄うような声に溜息交じりに問い返せば、コーデリアとクリスは大げさなほどに恭しく礼をした。


「いいえ、滅相もございません。何もかもあなたの仰せのままに——」


 二人が意味ありげな笑みを浮かべて俺を見上げる。


「――我らが偉大なる魔王様」


 彼らの言葉に応えるように、小さく頬を緩ませる。


 誰が何と言おうと、これは正しい道だった。


 だってそうだろう、ルーナがいなくなるなんてこと、許されるはずがないのだから。


 ……君は何も知らずに、穏やかに生きていてくれればいい。


 雷鳴が轟く。この城の陰鬱な気配も、流れた血の色も、今もどこかで響く誰かの断末魔も、君は何一つ知らなくていい。


 ただ、息をして、笑って、今日もあの可憐な声を響かせてくれ。


 君のためだけに作り上げた、この美しい魔の箱庭の中で。

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