第15話 口付けに散る白銀

 それから私は、殿下と姉様の結婚式の日まで、悶々とした心地で過ごした。


 表向きには今までと変わりないように振舞って、ガーネットたちと穏やかに過ごすように努めたけれど、一人になるとどうしても殿下と姉様のことを考えてしまう。


 ただただ悔しかった。やるせなかった。こんな目に遭ってもまだ、二人が私の心に無視できないほどの鮮やかさを伴って、確かに存在しているということが。


「……お嬢様、顔色が優れませんが大丈夫ですか?」

 

 ガーネットが、ひどく心配そうに私の顔を覗き込む。彼女たちの前で弱音を吐きたくない意地っ張りな私は、敢えて明るく笑ってみせた。「大丈夫」と答えるほど強がることはできなかったけれど。


 そんな強がりを繰り返しているうちに、運命の日はやって来た。


 殿下とコーデリア姉様の、結婚式の日が。




 式の朝、なぜか殿下は式に臨む礼服姿で私のもとに現れた。


 青みがかった黒髪の片側を上げて、髪と同じ色の品の良い黒の礼服に身を包んだ殿下は、王子様というよりはお伽噺に登場する悪役のようにも見える。それこそ、魔王みたいだ。


 恐ろしいほどに整った顔立ちに浮かぶ物憂げな表情が、無視できない色気を醸し出していて、ガーネットたちと談笑するときの彼とはまるで別人のようにも見えた。


「……素晴らしい装いですね、殿下」


 オパールが心底感心したように溜息をつく。ガーネットもクリスも、今ばかりは殿下の美しさに見惚れているようだった。


「今日は特別お忙しいでしょうに、離宮に何か御用ですか?」


 クリスがちらりと置時計を見やる。


 彼の視線を辿るように私も時刻を確認すれば、式まではあと二時間程度と言ったところだ。コーデリア姉様のお傍にして差し上げなくていいのだろうか。


「……ルーナと二人きりにしてくれないか」


 殿下は、淡々とした調子で三人に下がるように告げると、ガーネットたちは慎ましく一礼してすぐに指示に従った。離宮の談話室には私と殿下だけが取り残される形になる。


 今日の私は、花嫁とは対照的な灰色のドレスを纏っていた。彼と並び立つとどうにも惨めさを増すようでならない。


 ……彼と言葉を交わさないと決めたとはいえ、今ばかりは祝福の言葉を述べた方がいいのかしら。


 どんな言葉を選んでも皮肉にしかならない気がして、思わず彼から視線を逸らす。一体、私に何の用なのだろう。


 気まずさに耐えかねてぎゅっとドレスをに握りしめていると、殿下は私の目の前に歩み寄り、じっとこちらを見下ろした。彼の影がかかるほどの距離に、思わず一歩後退りそうになるも、彼が私の左手を取る方が早かった。


「……っ」


 痛くはないが、決して自由にならない力で左手首を掴まれ、どうすることもできない。窺うように彼の顔を見上げるも、翳った深緑の瞳に浮かぶ感情はあまりにも複雑で、一目で判断できるようなものではなかった。


 そのまま、どれくらいそうしていただろう。殿下はただただ食い入るように私を見下ろし、深緑の瞳には何かを切実に求めるようなあの熱が帯びていた。


 やがて彼は手首を放したかと思うと、代わりに私の銀髪を一房手に取った。指先でさらさらとその感触を確かめるように弄んだあと、不意に身をかがめる。


 一体どうしたのだろう、と目を瞬かせた次の瞬間には、彼は私の髪に口付けていた。


 親子や恋人たちの間で行われる口付けを見たことは何度かあるが、これほど丁寧で繊細な口付けは見たことが無かった。肌に触れているわけでもないのに、一切相手を傷つけまいとするような過剰なまでの優しさが伝わる。


 髪の毛に口付けられたところで当然感触など伝わるはずもないのに、頬が熱を帯びて仕方がなかった。この瞬間だけは、彼が私をここに閉じ込めている張本人だと言うことも忘れてしまう。


 彼はゆっくりと私の髪から唇を離すと、熱に浮かされたような、ひどく切なげな表情で私を見つめた。髪の束を手放す瞬間すらも、惜しむような素振りを見せる。


「……勝手な真似をして悪かった。ただ……覚えていてほしい」


 深緑の瞳が、これ以上ない真剣さを伴って私を射抜く。


「これが、生まれて初めて誰かに捧げた口付けだ」


 憎らしいほど心地の良い声で告げられたその言葉に、ますます心が乱されていくのが分かった。


 この間の「君を愛している」というあの言葉といい、彼は、私がずっと欲しくてたまらなかった台詞をいとも簡単に口にしてしまう。どういう意図が込められているのかも分からないままに、受け取れるような言葉ではなかった。


 もしも、本当に彼が私を愛しているというのなら。


 それならばどうして女神様を欺いてまで、私を聖女の座から引きずり下ろしたのだ。コーデリア姉様の手を取ったのだ。


 このところ私を悩ませる想いに囚われると、彼を睨まずにはいられない。聖女候補であったときは、こうして誰かを睨むなんて考えたことすらなかったのに、よりにもよって初恋の人にこんな醜い表情を晒すなんて。


 だが、彼は私の睨みを違う意味に捉えたらしく、端整な顔立ちにどこか寂し気な表情を浮かべて、そっと視線を伏せた。


「……不快だったよな。すまなかった」


 伏せた睫毛の合間から、翳った深緑の瞳が窺えた。


 そうだ、そのとおりだ、不快でたまらないのだと言ってやれば少しは胸がすくだろうか。


「君はいつも通りにガーネットたちと過ごしていろ」


 殿下はそれだけ告げると、長い黒の上着を翻して私の目の前から去っていった。


 彼が離宮から去る足音を聞き届けた後に、気づけば私は衝動的にテーブルの上に置いてあった果物ナイフを手に取っていた。


 そのままもう片方の手で腰まで伸びた銀の髪をぴんとはり、ナイフの刃を通す。切れ味の良いナイフの刃に触れればたちまち銀色が床の上に散っていった。


「冗談じゃない、冗談じゃないわ……!!」


 生まれて初めて捧げる口付けは、これからコーデリア姉様に贈るのだろう。それなのに、どうして私にこんなことをするのだ。


 しかも、よりにもよって結婚式の朝に私に会いに来るなんて。私をどこまで狂わせれば気が済むのだろう。


「嫌いよ……殿下なんて大嫌いっ!!」


 気づけば両目からぼろぼろと涙が伝っていた。滲む視界の中でがむしゃらに銀の髪を切り取れば、余計に虚しさが増していく。

 

 視界が悪いせいか、髪を切り取る際に指先が僅かに切れる感覚もあったが、もうどうでもよかった。


 痛みでも何でもいい。この重苦しさから、解放される術があるのなら。


 本当ならば、今日、殿下の隣で笑うのは私のはずだった。私のはずだったのに。


「……っどう、して……」


 その場に崩れ落ち、ばらばらに切り落とされた銀の髪と僅かに滴った血の中で、私は声を上げて泣いた。半狂乱に陥っていると言っても良かったかもしれない。

 

 ――おおきくなったら、俺はルーナを妃に出来るんだよな! 楽しみだなあ。早く大人になりたい。


 ――わたしも、殿下の花よめになる日がたのしみです。


 花が咲き乱れる神殿の庭で、幼い彼と笑い合った日のことが鮮明に蘇る。他愛もない子供同士の会話だったけれど、あれは確かに私の宝物だった。


 あの日からずっと、私は殿下の花嫁になる日を待ち望んでいた。公爵家でナタリア様に冷遇された時や、聖女としていい子でい続けるのが辛くなったときも、いつかは殿下と結ばれるという未来だけは確かに私の心の拠り所になっていた。


 その彼は今日、コーデリア姉様と結婚式を挙げるのだ。国中の祝福に包まれて。


 やり場のない怒りと寂しさから、思わず磨かれた床を殴りつければ、手を振り上げた際に右肩の傷が開いた気がした。まだ完全に塞がっているわけではないと知っていたけれど、その痛みに余計に涙が溢れだしてくる。


 もう、ぐちゃぐちゃだ。殿下の心はおろか、自分の感情すらも正しく認識できなくなってしまう。


 ――ずっと一緒にいよう。国のみんなを守って、二人でいつまでも幸せに暮らそうね、ルーナ。


 ――はい、やくそくですよ。


 ぽたぽたと大粒の涙が伝っていく。こういう時に蘇るのは、どうしてこうも美しい思い出ばかりなのだろう。


 二人で笑い合った花畑の中の甘い香りも、髪を揺らした風の優しさも、指切りをした彼の手の温もりも、恐ろしいほど鮮明に蘇る。まるで、あの頃に戻ったみたいだ。


 ……こうして過去に縋るだけならば、もう、未来なんていらないわ。


 突き放してくれるわけでも受け止めてくれるわけでもない殿下に、期待するのはもう疲れた。表面上はいくら楽しく振舞っていても、殿下がいる限り、私の心は日に日に爛れていくばかりだった。


 それならばもう、こんな陰鬱な日々とは別れを告げよう。聖女としての矜持も掟を破る抵抗感もすっかり薄れてしまった今ならば、もう、どんなことも怖くない気がした。


 最初から、こうすればよかったのだ。


 私は切り落とされた銀髪の中に紛れ込んだ果物ナイフを手に取って、そっと自分の胸に刃先を向けるように掲げる。


 我ながら最悪な結末だ。傍から見れば何と愚かなことを、と思うに決まっている。


 こんな愚かな道しか選べなかった私は、きっと女神様の御許へはいけないのだろう。でも、いつしか女神様や歴代の聖女が住まうとされる楽園への憧憬は薄れていて、私を待ち受けるのが魔の者たちであっても、構わないような気がしていた。


 もう、聖女候補としての誇りはかけらも残っていないのだわ、と思い知らされて自嘲気味な笑みが浮かぶ。泣きながら私の姿は、きっとこれ以上ないほどに醜いに違いない。


 ……偽りの聖女にはお似合いの最後だわ。


 何にもならない嘆きを零して、私は遂にナイフを思いきり掲げた。この煩い心臓の音とももう、さようならだ。


 勢いに任せてナイフを振り下ろす最後の瞬間まで、私の心を占めていたのは殿下との美しい思い出ばかりだった。


 窓の外では祝砲が鳴る。離宮に閉じ込められた嘆きの聖女のことなど、もうきっと、誰も覚えてなどいなかった。   

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