第14話 かりそめの平穏

 追いかけっこを終えた私たちは、談話室で冷たい水を飲んで一息をついた。お茶でも良かったが、やはり運動した後は冷たいものが欲しくなる。


「ふふ、お嬢様、今日はなかなか奮闘なさったようですね」


 ガーネットが褒めてくれるも、半分は殿下のお陰だと思うと複雑な気分であることは確かだった。私は曖昧に微笑みながら、ガラスのコップを傾ける。


 クリスとオパールは未だ何やら言い争いを続けていて、二人の仲睦まじさには驚かされるばかりだ。殿下は見慣れているのか、柔らかな面持ちで二人を見守っている。


「殿下は、昔より少し弱くなったのではありませんか? 以前はどれだけ捜してもなかなか見つからなかったものなのに」


 ガーネットは遠い日を懐かしむような穏やかな目で殿下を見ていた。公の場では無表情を決め込む殿下も、ガーネットたちの前では表情が緩むらしく、ふ、と小さく笑ってみせた。


「随分、久しぶりだったからな。……いい気分転換になった」


「それはようございました」


 ガーネットが愛想よく殿下の対応をしてくれるおかげで、言葉を交わさない私が気まずさを負うことはない。ガーネットはにこにこと微笑みながら、私と殿下のコップに追加の水を注いでくれていた。


「たまにはこういうのもいいですね。私もとても楽しかったです」


 言葉通り、ガーネットが嬉しそうに言い終わるか否かという時、不意に、遠くのほうで、どん、と大きな物音がした。


 思わず壁のようなガラス窓のほうを見やるも、特に異変はない。ガーネットたちも窓の外を見つめる中で、殿下だけは懐中時計に視線を落としていた。


「……何の音でしょう?」


 クリスが不安げな言葉を零せば、殿下はごく自然な調子で受け答えた。


「恐らくは、式に向けた祝砲の予行演習だろう。今日行うとの報告を受けている」


「式……? もしかして、殿下の結婚式ですか?」


 オパールが、反射的にぱっと華やいだ声を上げた。クリスもガーネットも興味を示すように目を輝かせたが、二人はすぐに私の存在を思い出したのか、どことなく気まずそうに表情を曇らせた。


 ……結婚、式。そう、もうそんな時期なのね。


 もともと聖女選定の日から結婚式まではそれほど間がなかった。二月も空いていなかったはずだ。離宮に来てから一月以上が経過していることを考えると、今まで忘れていたことが不思議なくらいだった。


 殿下は懐中時計をしまい込むと、窓際に歩み寄って淡々と説明を続ける。


「式は間もなく行われる予定だからな。そろそろ準備も佳境なんだろう」


 当事者のくせにまるで他人事のように振舞うのが、何だか癪に障った。私を聖女の座から引きずり下ろしてまで手に入れたコーデリア姉様との結婚式なのだから、もっと待ち遠しく焦がれるような素振りを見せてくれなくては困るのだ。


「庭に出ればもう少し祝砲の音を聞けるかもしれないぞ」


 殿下はガーネットたちを振り返って何気ない素振りで言う。オパールは目を輝かせて早速庭に飛び出していった。殿下が彼女の後を追う。


 ガーネットとクリスが、引き続きどこか気まずそうに私を見ていた。その気遣いが今は却って息苦しく感じてしまう。


 彼らにとっては兄と慕う殿下の結婚式なのだ。しかも殿下が心から望む女性と結ばれるのだから、喜ばしいことこの上ないに違いないのに。


「……私は平気ですわ。どうぞ、お庭に出て様子を窺って来てはいかがでしょう」


 むしろ、一人にしてほしかった。その気持ちが無理やり取り繕った笑みにも滲み出ていたのか、二人はちらちらとこちらを窺う素振りを見せつつも、オパールと殿下を追って庭に向かった。


 塀に囲われている庭だが、ごく小さな窓のような穴が塀に開いており、そこから外の世界を覗くことが出来る。城下町の一部の様子が窺えるはずだった。


 近頃城下町の様子は見ていなかったが、もしかすると今頃、王太子の結婚を祝う飾り付けで一杯になっているのかもしれない。きっと、殿下の深緑の瞳と、コーデリア姉様の琥珀色の瞳を意識した色をあしらっているのだろう。


 純白の聖女の装束を纏ったコーデリア姉様と、黒の礼服を纏った殿下が腕を組んで神殿を歩く姿を想像して、つきり、と胸が痛んだ。


 胸が痛む事実すら認めたくなくて、黒い感情を掻き消すように、ガーネットが淹れてくれた水を喉に流し込む。

 

 ……私は、意図的に殿下とコーデリア姉様の結婚式のことを考えないようにしていたのかしら。


 私を貶めた二人が祝福の中、幸せを手に入れるのが許しがたい、という気持ちがあるのはもちろんだが、恐らく、私はそれ以上に——。


 そこまで考えて、やめた。認めたくない。認めればますます自分が惨めになるだけだ。


 ……早く、早く消えてよ。


 未だ心の奥底で燻る熱を押さえつけるように、私は両手で顔を覆った。


 ああ、何もかも嫌になってしまいそうだ。殿下も、コーデリア姉様も、私を捨てた神殿もこの国もこの世界も、こんな運命を私に与えた女神様のことすらも、大嫌いになってしまいそうだ。


 駄目だ、他はともかく女神様のことを嫌おうとするなんて。


 咄嗟に指を組み、女神様に謝罪しようとして、すんでのところで思い留まった。


 ――祈っている姿を見る度に、あのメイドの指を一本ずつ落とすぞ。


 ガーネットにナイフを突きつけて告げた殿下の言葉が不意に蘇り、大きな息をつく。殿下はガーネットたちを弟妹のように大切にしているのだから嘘だと思いたいが、万が一本当に実行されてしまったら一大事だ。


 もっとも、今は殿下は庭にいらっしゃるから大丈夫でしょうけれど、と大きな窓ガラス越しに庭を見やったところで、どくん、と心臓が大きく跳ねた。


「……っ」


 殿下は、ひどく翳った目でこちらを見ていたのだ。口元には意味ありげな笑みを浮かべていて、確かに私だけをその目に映し出している。


 見られていた。危うく指を組みかけたあの瞬間を。


 その事実に、まるで追いかけっこの後のように、心臓がどくどくと早鐘を打ち始めた。


 恐ろしいほどに目ざとい人だ。冷や汗が背筋を伝っていく。


 ……もし、あのまま祈るような素振りを見せていたら? そうしたら、殿下はガーネットの指を……。


 そこまで考えて、あまりのおぞましさに身が震えた。思わずソファーの上で蹲るように、己の肩を両腕で抱く。


 ……分からないわ、殿下が。どうしてこうも私の祈りを封じるのかしら。どうしてあんな穏やかな顔の後に、こんな風に私を睨むことが出来るのかしら。


 聖女でも公爵令嬢でもなくなって、惨めに息をし続けるだけの私を見て楽しんでいるのだろうか。殿下とコーデリア姉様を羨んでは、黒い感情を募らせていく私を面白がっているのだろうか。


 ……それほどに私が憎らしいの? あの幼い日の穏やかな思い出も何もかも、偽りだったというの?


 何も見えなくなる、信じられなくなる。自分で自分を抱きしめても震えはちっとも収まらなくて、ただただ惨めさだけが増していた。


「そんなに震えてどうしたんだ、ルーナ」


 不意に、私の上に影がかかるのが分かって、はっと顔を上げた。いつの間にか殿下は庭からこちらへ移動していたらしい。


「言いつけを守って偉いな。危うくガーネットに痛い思いをさせるところだった」


 先ほどまでとは何ら変わらぬ穏やかな口調で、殿下は淡々と仰った。その冷静さが却って不気味で仕方がない。


 殿下はそっと私の耳元に顔を寄せると、笑うように囁いた。


「君がいつまでも女神に縋るようならば、もっとひどいことをしたっていいんだぞ。君の心から完全に女神の姿が消えるまで、君を鎖に繋いだっていいんだ」


 普段は憎らしいほどに心地よく感じる彼の声が、今ばかりはまるで魔の者の囁きのように聞こえてならない。彼の言葉で怯えるのすら悔しいが、震えが止まらなかった。

  

「……君はもう聖女でも何でもないんだ。それをゆめゆめ忘れるなよ」


 あくまでも口調だけは穏やかに、殿下は笑う。そこまでして、私と女神様を引き離したい理由は何なのだろう。


 ここに来た時のような女神様への執着は既に薄れているが、久しぶりに死を望む心を思い出してしまった。


 あのときのように「何もかも奪われて惨めでたまらないから死にたい」というよりは、ただひたすらに、殿下が分からなくて怖いのだ。普段は平穏で優しさすら見せる殿下が内包する翳りに、私はこの先一生怯えて生きていくのだろうか。


 殿下の心が、なに一つ分からない。それが怖くて恐くて仕方がなくて、自分の立っている足場までも崩れてしまいそうだ。


 それに耐えきれず、気づけば私は涙目で、ほとんど一か月ぶりの言葉を彼に投げかけていた。


「……一つだけ、私に真実をくださいませんか。あなたが私に向ける感情の中の、たった一つでいいから」


 憎悪や恨みなのだと、断言してくれた方がいっそ割り切れる。未練がましくこびり付いた初恋の名残が、彼に優しくされるたびに焼け付くように痛むのだ。


 いっそ大嫌いだと、私が苦しむ姿を見て楽しんでいるのだと、断言してくれた方がずっと救われる。


「君に伝える、真実、か……」


 殿下は約一か月ぶりに投げかけられた私の言葉を、どこか驚いたように受け止めていた。


 私に向ける感情は山ほどあるのだろう。深緑の瞳を揺らがせ、僅かに迷うような素振りを見せる。

 

 だが、それもほんの数秒ほどのことで、間も無く彼は何でもないことのように淡々と言い放った。


「君を愛している」


 一瞬、何を言われているのか分からなかった。目を瞠って茫然と彼を見上げる私は、きっと物凄く間抜けな顔をしていただろう。


 ……私を、愛、しているですって?


 その言葉に、気づけば私はふらりと立ちあがり、無意識のうちに彼を睨みつけていた。恐らくは、今までで最も憎悪と苛立ちを込めた眼差しで。


 私は、本気で縋って聞いたのに。どうしてここであからさまな嘘をつくのだろう。


 私が人生のすべてをかけて目指していた聖女の座をあっさりと奪いとり、挙句こうして私を監禁している人間が言っていい台詞ではなかった。

 

 しかも、殿下への初恋の熱の名残に苦しめられている私に向けた言葉としては、考え得る中で最悪だったと言ってもいいだろう。


 殿下は、私の心を壊したいのだろうか。私が傷ついた末に感情も何もかも失えば、ようやく満足なさるのだろうか。


 必死の言葉を最悪な答えであしらわれた悔しさから、一粒涙が零れ落ちる。それは、それだけは、絶対に私に言ってはいけない言葉だったのに。


「……泣かせるつもりはなかった」


 彼はしゅんと肩を落としたのちに、ひどく穏やかな、諦念の滲んだ微笑みで私を見た。


 その割に深緑の瞳には執着を思わせる翳りが窺えて、あまりの彼の不安定さに、もうこれ以上顔を合わせていられない。


 私は殿下から逃げるように踵を返し、寝室に逃げ込んだ。後ろ手に鍵をかければ、ようやく私一人きりの空間になる。


 私は扉にもたれかかりながら、ずるずると脱力するように床に崩れ落ちた。


 何一つ見えない。殿下の考えていることが。


 心が重苦しく溶けていく。ただただもう、ひどく疲れてしまったような気がして立ち上がれなかった。


 離宮の外では、祝砲が打ちあがる。初恋の人と、姉様の結婚を祝うための祝砲が。


 いっそ殺してほしい。仮初の平穏の脆さはもう、充分に思い知ったから。


 そのまま私は膝に顔を埋めるようにして、日が暮れるまで放心したように静かに泣き続けたのだった。

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