第13話 嫉妬と追いかけっこ
それからというもの、私は閉じ込められている事実を忘れるほどの穏やかな離宮生活を送っていた。
ガーネットたちとは、仕事を教えてもらう上でますます打ち解け、今ではちょっとした空き時間に一緒にお茶をしたり、遊んだりする仲になっている。中でも私の運動不足解消を兼ねて行われる追いかけっこは、回数を経るごとに白熱していた。
「クリスが魔王役だと敵いませんわ。なんて勘が良いのでしょう……」
魔王役は隠れている人を探し当て、そこから走って捕まえるわけだが、足の遅い私は実質見つかるまでが勝負だった。そのため、日々離宮の中をくまなく探索し、誰にも知られていないような隠れ場所を見つけようと奮闘しているのだが、クリスだけはどうも欺けない。
「オパールやガーネット相手に随分遊びましたからね。経験の差がものを言うのでしょう」
クリスに追いかけられ捕まってしまった私に、彼はそっと手を差し伸べる。私は随分息が上がっているというのに、彼は少しも呼吸が乱れていない。オパールとそっくり同じ灰色の瞳はどこか悪戯っぽく輝いていて、悔しさが募るばかりだ。
「次は負けませんわよ……」
「期待していますね」
涼しげな顔であしらわれ、クリスはオパールとガーネットを捜しに行ってしまった。彼のことだ。残りの二人もすぐに見つけるのだろう。
私は休憩がてら談話室に移動し、水差しからコップに水を組み入れ、水分補給をした。
こんな些細なことでさえ、かつては自分でやったことが無かったのだが、今はもうあの頃とは比べ物にならないくらい色んなことが出来るようになった。
技術はまだまだだけれども、お茶だって淹れられる。オパールからは日々新しい掃除の仕方を教えてもらっている最中だ。クリスは今度はレモンケーキ作りに挑戦しようと言ってくれた。
今までとはまるっきり違う生活だけれども、不思議と充足感を覚えている私がいた。それこそ、日々の大半を費やしていたはずの女神様への祈りを忘れてしまうくらいには。
……女神様のお声は、もうしばらく聞いていないわね。
最後に聞いたのは、殿下に捕まったあの祝宴会の夜だった。あれからすでに一月以上経過したことに驚きを隠せない。
右肩の傷もかなり良くなって、痛むことも減って来た。それに伴って、殿下への怒りも少しずつ薄れているような気がして、これには思わずぎゅっと手を握りしめる。
いくらこの生活が満たされているとはいえ、許してはならない相手だ。女神様を欺き、長年の友人であったはずの私を裏切ったのだから。
そう自らに言い聞かせながら、私は殿下から贈られた銀髪の人形の前に歩みより、そっと触れてみた。
豪華な椅子の上で、お行儀よくちょこんと座った姿は何とも愛らしい。人形は、ルーを抱えるようにしてこうして飾ってあるのだ。
確証はないが、やはりこの人形にはコーデリア姉様も関わっているような気がしてならない。殿下にはルーを見せたことはあっても、人形に憧れていた幼い私の気持ちや、人形にまつわるあの辛い事件のことは知らないはずなのだから。
……殿下とコーデリア姉様は、普段どんな風に過ごしていらっしゃるのかしら。
聖女選定の日や、祝宴会で見た二人の姿は、疑いようのないほどに仲睦まじかった。あれこそ、女神様が巡り合わせるべくして巡り合わせた運命の二人なのだ、と言われても納得がいく。
二人は、いつから恋人同士だったのだろう。私と殿下は何かにつけて行動を共にすることはあったけれど、コーデリア姉様は王城で開かれる夜会だとか、何か公的な行事がない限りは、殿下と顔を合わせる機会などなかったはずなのに。
人目に触れぬように、ひっそりと愛を育んでいたのだろうか。私が、女神様のお声を聞くべく、礼拝堂で一人で祈っている間に。
コーデリア姉様を優しく抱きしめる殿下の姿を想像して、抑えがたい苛立ちに襲われた。
思わず唇を噛みしめて、この感情をやり過ごそうとするも、鮮烈な黒い感情は心の奥底を焼くように痕を残す。
……冗談じゃないわ。今更、私には関係ないもの。二人とも、お好きになさればよろしいのだわ。
「そんな難しい顔をしてどうしたんだ、ルーナ」
不意に隣から声をかけられ、びくりと肩を揺らして見上げれば、いつの間にか殿下がいらっしゃっていた。このところは昼と夜と言わず、ちょっとした空き時間にも足を運ぶことが多くなった殿下だけれど、いつのまに離宮に足を運んでいたのだろう。
「……驚かせて悪かった。一応、入るときに声はかけたんだが……」
考えごとをしていたせいか気づけなかったようだ。もっとも、気づいていたところで返す言葉もないので、大して変わりはなかったのだけれども。
「この人形に名前は付けたのか?」
殿下がさりげなく人形の銀糸の髪を梳きながら問いかけてくる。私と同じ色彩を持った人形を愛でる殿下の姿に、なんだか妙に感傷的な気分にさせられた。
……いつかはそういう手つきで、私の髪も梳いてくれるかしら、って思っていたものなのにね。
「……やはり、答えてはくれないか」
殿下は責める風でもなく、どこか寂し気な表情で笑って私を見ていた。かつて恋焦がれたその端整な顔立ちに浮かぶ哀愁を見ていられなくて、ふい、と顔を背けて殿下から距離を取る。
「メイド服、相当気に入ったんだな。動きやすいのがいいのか?」
殿下はさりげなく私の後を追いながら、笑うように呟く。初めはガーネットから借りていたのだが、いつしかクローゼットの中に私専用のものが用意されるようになっていた。
公爵邸のメイドたちは黒のワンピース姿にエプロンを着けていたけれど、離宮に務めるガーネットたちのメイド服は深い青なのだ。鮮やかな色合いではないために、多少抵抗感は薄い。何より、動きやすさには代えられなかった。
これも、離宮にやって来た当初からは考えられない変化だと思うと、何だか皮肉だった。やはり、だんだんと女神様から引き離されているような感覚に陥る。
「……ガーネット辺りが来てくれないかな。そうしたら、君の声を聞けるのに」
そう言ってまた寂しげに笑う殿下に、苛立ちと戸惑いばかりが募っていく。
コーデリア姉様という人がありながら、捉えようによっては口説いているような言葉を吐くなんて。これには思わずきっと睨みを利かせてしまった。
だが、こちらは懸命に睨んでいるというのに、私と視線が絡んだことに殿下は僅かに嬉しそうに頬を緩めるのだ。
本当に、怒り甲斐のない人だ。こちらが馬鹿らしく思えてきてしまう。
「おや、殿下、いらしてたんですね。今ちょうど例の追いかけっこをしていたのですよ。お嬢様の運動を兼ねまして」
クリスがガーネットとオパールを引き連れて談話室にやって来た。ガーネットたちは息を切らしてクリスを睨んでいる。
置時計を確認すれば、あと五分程度逃げ延びられればガーネットたちの勝ちだったようだと知った。これは悔しさもひとしおだろう、と私は彼女たちに苦笑を贈った。
「悔しい!! 次は絶対勝つわ! もう一勝負して、クリス!」
もともとは私のために行われるようになった遊びのはずが、オパールにすっかり火がついてしまったようだ。オパールは双子であるだけあってか、何かとクリスと対抗したがる節がある。
「別にいいけど……お嬢様はまだ走れそうですか?」
「ええ、平気です。少し疲れるくらいの方が、夜ぐっすり眠れますから」
夜、眠りに落ちるまでにいろいろと考えてしまうあの時間が嫌いだ。閉じ込められている私に、この現状を打開し得る術など何一つないというのに、あれこれと考えては眠れなくなってしまう。
「それなら、もう一戦――」
と、言いかけたところで、クリスはちらりと殿下に視線を投げかけた。
「――もしよかったら、殿下も久しぶりにどうですか? いい運動になりますよ」
クリスがどこか悪戯っぽく笑えば、すぐさまオパールが賛同の声を上げた。
「いいですね! やりましょやりましょ! 今度はあたしが魔王役をやりますから!」
オパールははしゃいだ声を上げたかと思うと、クリスに意味ありげな笑みを向ける。
「一番初めに見つけてあげるわ、クリス」
「望むところだね」
闘争心を燃やす双子を見ながらも、私は複雑な心境だった。殿下と一緒に何かに取り組むなんて御免なのに、先にクリスにもう一戦することを了承してしまった以上、何だか断りづらい。
「……大丈夫ですか、お嬢様?」
ガーネットだけが、気遣うような弱々しい微笑みを投げかけてきた。彼女は私の一番傍で色々と世話をしてくれているだけあって、私が殿下に向ける感情に最も敏感な人だった。
「……大勢の方が楽しいでしょうから、別に構いません」
言葉とは裏腹に不機嫌な声が出てしまった。そもそも殿下が興じるにはあまりに幼い遊びなのだが、殿下自身参加なさるおつもりなのだろうか。
ちらりと殿下の表情を窺ってみれば、彼は懐かしいものを見るようにクリスたちを見守っていた。彼らを拾ったのは殿下なのだから、心境的には彼らの兄のような気持ちなのかもしれない。
そんな表情を見せられると、文句の一つも思い浮かばなくなってしまう。私を離宮に閉じ込める非道な行いをする彼の中にも、クリスたちを慈しむ心は確かにあるのだ。
「それじゃ、今から五分後に捜しに行きますから、お嬢様たちも準備してください!」
オパールが懐中時計を片手に溌溂とした笑みを見せた。早速殿下とクリスが出ていくのを見て、ガーネットがにこりと私に微笑みかける。
「参りましょう、お嬢様。今日こそ、最後まで残れるといいですね」
ガーネットの慎ましやかな笑みを見ていると、殿下を前にして立っていた気が少し鎮まるのが分かった。
「ええ、見ててください。最後まで隠れ続けてみせますから」
私もまたガーネットに笑いかけ、談話室を後にした。本日最後の追いかけっこが幕を開けたのだ。
それから十五分ほど後のこと。
私はオパールから懸命に逃げているところだった。
「お嬢様、逃がしませんよ!」
嬉々としたオパールの声がそう遠くないところから響く。書斎に身を隠していたのだが、あっさりと見つかった結果、こうして追いかけまわされていた。
体力をつけるためにやっていることなのだが、この瞬間ばかりはどうにも辛い。息が切れて呼気に血の味が混ざっているような気がした。
悔しいのは、これでもオパールたちは私に手加減をしていそうだというところだ。体力もなく、平民の子どもたちが興じる遊びの一つも知らない私が、ほどほどに楽しめるように計らってくれているのだろう。
ちなみにオパールは執念でクリスを発見したようで、先ほどまで吹き抜けの広間から双子が言い争う声が響き渡っていた。これで引き分けだ、とか、次は負けないだとか、先ほどと似たような言葉を並び立てていたような気がする。
仕事に集中しているときは十代半ばとは思えないほど大人びた表情見せる二人なのに、こういうところは何だか子どもだ。ガーネットはさぞかし苦労してきただろうな、と苦笑が零れる。
「おやおや、お嬢様、そんな余裕を見せていていいんですか?」
先ほどよりも少し近い場所でオパールが笑うのが分かった。まずい、少々考えごとに没頭しすぎたようだ。
魔王役に見つかってしまってから、走って逃げおおせたことは一度もないのだが、途中で諦めるのは私の性分に合わない。子どもじみた遊びだって、一生懸命やるから楽しくなるのだと、ガーネットたちが教えてくれた。
意を決して、何とか足を早めようとする。メイド服に合わせたブーツが磨き上げられた床の上で鳴った。
離宮の二階は書斎やアトリエなどのこまごまとした部屋が多く、廊下も複雑だ。その形を利用して何とかオパールとの距離を保っている訳なのだが、そろそろ限界が訪れようとしている。五分も走っていないと思うが、聖女候補だった時代は走るなんてことは殆どなかったことを考えると、これでも随分な進歩なのだ。
そろそろ捕まってしまうかしら、という予感を覚え始めながら、入り組んだ廊下の中に飛び込んだその時、不意に、曲がり角の影から左腕を引かれ、引き寄せられた。
「……っ」
息を呑んだのは、私の腕を引いたのが、どこか悪戯っぽく笑う殿下だったからだ。すぐに手を振りほどこうとするも、彼は優しく私を抱き寄せて、自らの唇に手を当てた。
勝負中でなければ構わず彼の手を振り払っただろうが、今声を出せばすぐにオパールに気づかれてしまう。悔しさを感じつつも、乱れた呼吸の音を悟られぬようう、両手でそっと口元を覆った。
殿下はその様子を見てふっと笑ったかと思うと、不意に私の背中に手を伸ばし、私の呼吸を落ち着かせるようにそっと摩り始めた。そのせいで、半ば抱きしめられるような形になってしまう。
……コーデリア姉様という人がありながら、こんな風になれなれしく触ってくるなんて。
思わず殿下を睨むように見上げるも、彼の深緑の瞳に宿った複雑な感情に、不覚にも心が揺らいでしまう。
幼い日の彼を思い起こさせる優し気な色を帯びているのに、何かを切実に、貪欲に求めるような、そんな目で、彼は私を見ていたのだ。既に私からは何もかもを奪っているというのに、他に何が欲しくてそんな切なそうに私を見るのだろう。
「お嬢様ー?」
すぐ傍でオパールが私を捜しまわる声が響く。はっとして口元を抑える手に力を込めれば、今度こそ殿下に抱き寄せられてしまった。
身長差のせいで、彼の胸に横顔をつけるような形になる。殿下が男性の中でも背が高いお方であるのもあるが、私が特別小柄なせいもあって、私たちの背の高さにはかなりの差があった。
陽の光を背負って、影の差す顔で微笑む殿下は、私の知らない誰かだった。滅多に笑わなくなったある時から、陰鬱な雰囲気を背負っていた方ではあったけれど、いざこうして見るとその翳りの鮮烈さに息も出来なくなる。
……あなたは、何をそんなに求めているの? コーデリア姉様がいて、輝かしい玉座があなたを待っていて、何一つ、足りないものなんてないはずなのに。
殿下の心臓の音が、静かに規則正しく響いていた。特別早くも遅くもない、とても落ち着くリズムだ。
こんな心臓、今すぐ止まってしまえばいいと思うのに、この音が彼の命を繋いで、今も静かに体中に温かな血を巡らせているのかと思うと、何よりも尊い音のようにも思えてしまう。
認めたくない。彼へ向ける怒りは殺意を帯びるほどの激しさではないけれど、今だって確かに心の中で小さく燃えているはずなのに。
いっそ、私に関わらないところで勝手に死んで、ああ、死んじゃったなら仕方がないな、と彼に向けるすべての感情を諦めさせてほしい。そうしたら私はきっともう一度、彼に昔のような笑顔で笑いかけることが出来るだろう。
そこまで考えて、ますます心の中がぐちゃぐちゃに溶けていくような気がした。
……私は彼に、笑いかけたい、と思っているの?
矛盾だらけの感情から目を背けたくて、何か別のことでも考えようと思ったのに、不意に、殿下の手が一つに結い上げた私の銀の髪をさらさらと撫でた。先ほど人形に触れていたときとは比べ物にならないほど優しく丁寧な手つきに、どくん、と心臓が大きく脈打つ。
「……ルーナの髪は、月の光にも陽の光にも輝いて綺麗だな」
さらさらと手から滑らせたり、指に絡ませたりと、随分好き勝手なことをしているようだ。彼の手を振り払うことなど簡単なのに、それを躊躇う自分が憎くて仕方がない。
「女神のためのベールなんかに隠れていたときよりずっと、この方がいい」
殿下は度々女神様を愚弄するような言葉を口にする。女神の名を冠するこの国の王太子が、女神様への不信を思わせるような素振りを見せるなんて、一体どういう了見なのだろう。
昔は女神様の声を聞ける私の力を褒めてくれていたものだし、女神様自体も尊重していたことを考えると、彼が女神様を良く思わなくなったきっかけが何かあるのかもしれない。
これだけ長いこと一緒にいたのに、私は彼の変化に理由を何一つ知らないのだと思い知らされた。
コーデリア姉様は、きっとご存知なのだろう。殿下の御心を知ることを許された特別な人だからこそ、今、殿下の婚約者として君臨しているのだ。
コーデリア姉様がこの場面を見たらどう思うだろう。あの美しい顔が嫉妬に歪むだろうか。
……もしそうなら少しだけいい気味だわ。こういう時にざまあみろ、と言うのだっけ。
だが、そこまで考えてどうしようもない虚しさに襲われてしまった。黒い感情で心が満たされても、少しも良い気分ではない。
「……ルーナ」
不意に殿下は私の髪を一房握りしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺を、憎んでいるか?」
問いかけと共に、深緑の視線が静かに私を射竦める。先ほどと同じ、寂寥と狂おしいほどに何かを求める熱が入り混じった、不思議な瞳だった。
これには答えない、というより答えられなかった。問答無用でそうだと言ってやりたいのに、彼との長年の付き合いで生まれた情が、初恋の熱の名残が、私を思い留まらせる。
息も詰まるような沈黙の後、殿下はどこか自嘲気味に笑った。
「……憎んで、いるに決まっているよな。当たり前のことを聞いて悪かった」
殿下は二人の間に漂った気まずさを誤魔化すように上着から懐中時計を取り出すと、手短に時刻を確認する。
「……あと数分で終わりだ。俺たちの勝ちかもな――」
と、殿下が言い終わるか否かという頃に、廊下の先に灰色の髪がなびいた。オパールだ。
「あ! お嬢様、殿下! 見つけましたよ!!」
そのまま逃げる間もなくオパールに追い詰められてしまい、半時間に亘った追いかけっこは、魔王役側の勝利で終わったのだった。
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