幕間3 追憶のコーデリア
聖女の装束を脱ぎ捨て、私室のベッドの上に腰かける。自然とふう、と溜息が零れた。
聖女様らしく振舞うと言うのも気疲れする。軽く伸びをしながら、一日の疲れを何とか誤魔化せば、胸元で青い貝殻のペンダントが揺れた。
「聖女様、聖女様って……私がちょっと言葉をかけるだけでみんなして涙するのよ。ふふふ、滑稽だと思わない?」
貝殻を摘まんで、口元を歪めながら語り掛ける。傍から見ればこれは独り言に過ぎないのだろうが、私にとっては、「彼」と対話する大切な時間だった。
「女神の愛し子は私がこの手で堕としてやったってのに……あの人たち、本当は一体何を信じているのかしら? 神殿? 王家?」
肌着から露わになった足を組みながら、私は貝殻をまじまじと見つめる。こうして「彼」に話しかける時間が一番満ち足りているような気がしてしまうのだから、私も大概だろう。あの王子様の歪みを馬鹿にできない。
「ああ、そうそう、今日はね、あの子にちょっとした贈り物をあげたのよ。どんな顔して受け取ったのかしら? 殿下曰く、意外に気性の激しい子みたいだから『この離宮でお人形遊びでもしてなさいってこと?』なんて言ってるかもしれないわね……」
今日離宮に運ばれたはずの、銀の髪に水色の瞳を持つ立派な人形を思い出す。遊ぶような歳ではないだろうが、離宮の彩の一つくらいにはなるだろう。
「あ、でも、嫌なことを思い出すきっかけになっちゃったかしら。……まあ、それはそれで悪くないかもしれないわね。散々泣いて苦しんで、何もかも全部恨めばいいのよ」
ベットに仰向けに横たわり、はあ、と恍惚の混じった溜息を零す。
「……この世界のことも、女神アデュレリアのことも、何もかも、ね」
嫌なことを思い出すのは、実は私も同じだ。失った日々のことをぼんやりと思い返しながら、私はそっと貝殻に口付けた。
「あなたに出会わなければ私はきっと……つまらない人間になっていたでしょうね」
不思議だ、こうして口付ければ、「彼」の温もりが蘇る気がする。
もうこの世のどこにもありはしない、あの愛おしい温もりが。
「思えば私は、昔からひどい女の子だったわよね……」
ぎゅっと貝殻を握りしめながら、遠い記憶の中の日々に思いを馳せる。陽だまりのような笑みを浮かべる、大好きな「彼」と出会った日のこと、そして、私に初めての妹が出来た日のことを。
物心がついたころから、私はそれはもう我儘で傍若無人な振舞ばかりする子どもだった。
正式な縁で結ばれた仲ではなくとも、王国有数の公爵家の当主様が私のお父様で、お母様はその公爵様に大切に大切に大きな屋敷の中に囲われていた。
身分こそ確かなものはなかったけれど、下手な貴族よりずっと豪華な暮らしをしていたと思う。
私の一日は、お父様が買って来てくださった数えきれないほどのプレゼントを開けることから始まって、栄養たっぷりの食材の一番おいしい部分だけを使った料理を食べて、お姫様のように扱われる。それが私の日常だったのだ。
世界の中心は私だと思っていた。使用人の子どもをからかって遊んでも叱られないのは、私が特別な存在である証だと思っていた。
だが、ある日、たった一人の少年が私のその歪んだ世界観を打ち壊したのだ。
その日は確か、メイドの子どもの髪を引っ張って遊んでいたのだが、それをたまたま見かけた庭師見習いの少年が真正面から私を止めに来たのだ。
雪のように真っ白な髪と、温かい海を思わせる鮮やかな青色の瞳の少年だった。
「いくらお嬢様だからって、こんなことはゆるされないんだ!」
少年は、庭仕事で薄汚れた手を目一杯広げて、メイドの子どもを庇っていた。真っ向から叱られたことの無い私は、当然ながら抑えようのない怒りを覚える。
「何ですって? わたくしを誰だと思っているの!」
そこから、私は真っ白な髪の少年と取っ組み合いの喧嘩を始めた。
生まれて初めて痛い思いをしたし、生まれて初めて全力で何かに抗おうとした。薄汚れて、擦り切れて、とても不快だったけれど、私が髪を引っ張って遊んでいたあの子たちもこのくらい痛かったのだろうか、と初めて想像したのも確かだった。
当然ながらすぐに大人たちに喧嘩は収められ、少年はお父様の怒りを買ってしまい、出て行けと罵られながら、殴られそうになっていた。
私を傷つけたのだ、殴られて当然だと思う自分も確かにいたのに、気づけば私は少年を庇うようにお父様に強請っていたのだ。
「お父様、わたくし、この子のことが気に入りましたわ。お友だちにしてもよろしくて?」
お父様は私に甘い。なぜこんな奴を、と二言三言彼に向かって悪態をついたけれど、結果的にこのおねだりはすんなりと受け入れられ、彼は引き続き庭師見習いとして働くことになった。
「……俺はお嬢様の『お友だち』になんてなった覚えはありませんよ」
翌日、庭師見習いとして草むしりをしながら彼は言った。歓迎されていないのは火をみるよりも明らかだったが、どうしても彼のことが気になって、私はその日から暇さえあれば彼のもとへ足を運ぶようになったのだ。
私はひたすらに彼の姿を観察した。みすぼらしい服も、薄汚れた手足も、美しさとは程遠いはずなのに、彼の熱心な仕事ぶりを見ていると、どうしてか馬鹿にする気持ちが湧き起こらなかったのだ。
毎日のように通い続ける私に、彼は酷くうんざりしていたようだったけれど、一週間もすれば慣れてしまったようだった。
彼は、同年代の友人がたくさんいた。屋敷で働く使用人たちの子どもたちとはもちろんのこと、屋敷の塀の外でも楽しげに笑い合っていたりもする。「友だち」が多い人なのだと知った。
いつしか、今までの私の我儘な振舞は、彼らの輪を乱していたのだといつしか理解するようになった。これに気づいた時には、思わず彼の前で泣いてしまったものだ。
私が傍にいることに慣れ始めていた彼も、私の涙にはびっくりしたように綺麗な海色の瞳を見開いていた。
「……お嬢様、何で泣いてるんだよ。また俺がお嬢様を虐めた、何て言われるのは御免だぞ」
「違うの……ただ、悲しくて……。わたくし、どうしたら、あの子たちの輪にもう一度入れてもらえるようになるのかしら」
今だって、私が駆け寄れば拒絶したりはせずに受け入れてくれるのだろう。「友だち」ではなく「お屋敷のお嬢様」として。
今まではそうやってちやほやされることで満足していたけれど、少年を通して見る彼らの世界はもっともっと魅力的で、楽しい場所だと知ってしまった。
「……ちゃんと謝れば、あいつらだって許してくれんじゃねえの」
少年はぽつりと言い放ったかと思うと、「ああ、もう、めんどくせえ」と髪を掻き毟り、私の腕を取って子どもたちの元へ駆け出した。
「謝り方は知ってるか? 『ごめんなさい』って心を込めて言うんだ。それで相手が許してくれるかはまた別の話だろうけど、まあ、ここの奴らは許してくれんだろ」
恐らくはもっと幼いころに知るべきだったごく当たり前のことを、彼は教えてくれた。彼が連れ出してくれた先で、私が意地悪をしてきた子供たちがどこか怯えるように私を見る。
「……ごめん、なさい。いままでずっと、ひどいことをしてしまって」
それは、生まれて初めて口にした謝罪の言葉だった。どくどくと心臓が暴れて、何だかいたたまれない気持ちのままに、ワンピースの裾をぎゅっと握りしめたが、間もなくして一人の女の子が私の手を取ってくれた。
「……一緒に花冠作ろ! お嬢様」
その子の一声を機に、私は彼らの輪に迎えられた。生まれて初めてのことに戸惑っていると、少年が陽だまりのような笑顔を私に向けたのだ。
「よかったな、お嬢様。改めて、今日からよろしく。俺はジル。ここで庭師見習いをしてんだ」
「ジル……そう、わたくしは——」
「ああ、いいっていいって。流石にお屋敷のお嬢様の名前も知らないほどの馬鹿じゃないからな!」
ジルはにかっとわらって私の手を握った。
「コーデリアお嬢様、だろ? 可愛い名前だよな!」
ジルがいたから、その日は私のもう一つの誕生日になった。我儘なお嬢様ではなく、ジルの友だちのコーデリアとしての。
私はそれが何だか誇らしくて、どんな宝石やドレスよりも宝物のように思えてならなかった。
その日から、私は事あるごとにジルを訪ね、私たちはすっかり仲良しになった。お母様やお父様は身元の知れぬジルのことをあまり好ましくは思っていなかったようだけれど、それでも私たちは気にせずに友人でい続けた。
その交流は、お父様の奥様であるステラ様が亡くなって、私とお母様が公爵邸に移動した後も続いたのだ。
その公爵邸で、私はもう一つ忘れられない出会いを果たすことになる。
ステラ様の一人娘——私の異母妹に当たるルーナと出会ったのは、私が7歳、彼女がようやく5歳になろうかという頃だった。
裕福な愛人の娘から、王国有数の公爵家の令嬢として扱われるようになり、どことなく息が詰まるような感覚を覚えていた頃、ある日、私はばったりとルーナと鉢合わせた。
お母様からは、ルーナについては「お父様を誑かした悪い女の娘なのだからあまり近寄らないで」と言われていたのだが、同年代の少女に興味が湧かないわけがなかった。
何より、私は妹が欲しかったのだ。お揃いのお洋服を着たり、髪を可愛く結ってあげたり、お姉さんとしてやってみたいことが山ほどあった。
ルーナは、とても愛らしい子だった。ステラ様譲りの銀の髪に、雪を思わせる水色の瞳。潤むような目はぱっちりとしていて、白磁のような肌はまるで妖精の様だとも思った。
ジルたちと外で遊びまわっていた私は少々日焼けが目立っていただけに、同じ公爵令嬢として彼女を見習わねばと思ったほどだ。
どうやら彼女は当代の聖女候補、というものらしいが、このころの私はその意味をよく分かっていなかった。ただ、毎日のように白い服を着た大人たちに神殿に連れていかれ、外で遊ぶ楽しさの一つの知らない彼女の淡々とした表情だけが気がかりだった。
その日私は、お父様に買って頂いた大切なお人形の「エリー」を抱えていた。苺色の髪に琥珀色の宝石をはめ込んだその見事なお人形は、私のためだけに誂えられた特別なものだった。
ルーナは、私が抱えているエリーに視線を奪われているようだった。滅多に瞳を揺らがせることの無い、それこそお人形のようなルーナが私に初めて見せた子どもらしい表情に、私は軽く咳払いしながら語りかけてみた。
「……エ、エリーのことが気になるの? もしよければ、あなたのお人形とリアをお友だちにしてあげてもいいわよ」
形式ばった挨拶を抜きにすれば、これが妹となる少女に初めて話しかけた言葉だったのだから、呆れてしまう。だが、これは当時の私なりに一生懸命考えた戦法だったのだ。
公爵家の令嬢ならば、きっと、私の持つエリーにも負けないくらい立派なお人形を山ほど持っているのだろう。私もお人形は好きだ。こういうのを、「趣味が合う」というはずだ。
まずはお人形同士をお友だちにさせて、それから私もルーナとお友だちになればいいのだ。もっとも私たちは異母姉妹なのだから、きっと普通のお友達以上に仲良くなれるに違いないのだけれども。
我ながら完璧な計画に鼻息を荒くしていると、ルーナがどこか寂しそうな微笑みを浮かべて私をまっすぐに見つめた。とても綺麗な笑みだったが、子どもがする笑い方ではないと言うのは、彼女とたった2つしか違わない私でも分かった。
「……折角ですが、私は、そういうすてきなお人形を持っていないのです」
鈴の音のような可憐な声なのに、どこか恥じらうように震えているせいで、今にも消えてしまいそうだった。
「持っていないの? ひとつも? お父様は毎日のように私の部屋に新しいお人形を運んでくるのに!」
決して嫌味のつもりで言ったわけではなかったが、やっぱり寂しそうに笑うルーナを見て、はっと口を噤んでしまった。
「……私は、聖女になるから、お人形遊びをしちゃいけないって言われてるんです。俗世、に染まるといけないからって」
たどたどしい言葉で説明していたルーナだったが、ここに来てちらちらと私を見つめると、やがて何やら手に握りしめているものを私に見えるように掲げた。
いまいち何だかわからなくて、小首をかしげていると、ルーナはおずおずと私に近付いてきた。距離が縮まると、彼女がまだ私よりも随分小さな女の子だと分かった。
「でもね、私、こっそりお人形をつくったんです。お姉様には、見せて差し上げますね」
子どもながらにぶれることの無い丁寧な口調のまま、ルーナはどこか楽しそうに笑った。そうして、宝物を見せるようにそっと私に手の中のものを見せてくれる。
それは、白いハンカチを丸めて、レースのリボンで纏めた、やっぱりよく分からないものだった。よくよく見れば、ハンカチの丸めた部分にたどたどしい手つきで目と鼻のようなものが刺繍されている。それが、辛うじて「お人形」らしい部分なのだろうか。
公爵家の令嬢が大切に持ち歩くにしては、あまりに粗末な代物だったが、ルーナが愛おしむようにその「人形」を撫でるのを見ると、決して馬鹿にするような気持ちは湧き起こらなかった。
ジルに連れられてよく一緒に遊ぶようになった子供たちも、一見すればガラクタのようなものを大切にしていた。綺麗な色の釦とか、家族でピクニックに行ったときに積んだ花の押し花だとか、そう言う可愛らしいものから、虫の抜け殻だとかよく分からない小動物の骨だとかを大切にしている子もいた。正直、虫も骨も私からしてみれば御免だが、持ち主にとっては唯一無二の宝物のようだった。
ジルは、初めて行った海で拾った薄い青色の貝殻を大切にしているんだっけ、と親友のことを思い出しながら、私は目の前の妹が握るお人形を改めて見つめてみた。
これも、ルーナにとっては大切なものなのだろう。普段お人形のようなルーナがこんなにも目を輝かせるくらいなのだから、大切なお友だちのはずだ。
「ふうん、その子はなんて名前なの?」
私はエリーの手を摘まんで、ルーナに手を振らせた。それだけで、ルーナはぱっと表情を明るくさせる。普段は綺麗という印象が強い子だけれど、笑うとこんなに可愛いのか、と子供心に何だか惜しいような気持ちになってしまった。
「この子は、ルーっていうんです。ルーナのお友だちだから、ルーなの!」
初めて口調が砕けたルーナを前に、これはいい調子だと私もほくそ笑む。
贈り物は、仲良くなりたい相手への一つのアプローチの仕方だとジルが言っていた。私は意を決して、エリーをルーナの前にそっと差し出す。
「よ、よかったら、この子をルーのお友だちとして、貴方に差し上げてもよろしくてよ」
エリーは私にとっても大切な友だちだが、部屋にはまだ山ほどお人形がある。ルーが一人ぼっちじゃかわいそうだから、エリーをあげてもばちは当たらないんじゃないかしら。
それに、エリーの様子を見に行くという口実で、ルーナともっと距離を縮められそうだ。
ルーナは、私から手渡された人形を、恐る恐ると言う様子で抱いていた。小さなルーはエリーに抱かせて、ルーナはまじまじと二つの人形を眺めていた。
「この子はエリーっていうの。ちゃんと大切にしてよね」
「エリー……」
私に教えられた名を大切そうに呟いたかと思うと、ルーナは水色の瞳を輝かせて、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、お姉様! 私、大切にいたしますね!」
お友だちが出来てよかったね、ルー、と語りかけるルーナは年相応に無邪気で、こんなに喜んでくれたのならよかった、と私もほっと胸を撫で下ろした。
「お姉様、なんて堅いわ。名前で呼んで頂戴」
笑いかけるように告げれば、ルーナはしばらく迷った後、軽く小首をかしげながら恐る恐ると言った様子で呟く。
「……コーデリア姉様?」
思っていたのとは違うが、可愛いから良しとしよう。私たちはどちらからともなく笑い合って、終始和やかな空気のまま別れたのだった。
その翌日。
私は早速、「エリーの様子を見に来た」という口実と、お父様が買ってきた王都で流行りのお菓子を持って、ルーナの部屋に向かっていた。今日は、私の一番大切にしているお人形のリアも連れてきた。
ルーナのあの様子じゃお人形の遊び方も知らないのだろうから、今日は私がお姉様としてしっかり教えてあげなくちゃ、と意気込んでいた気がする。
ルーナの部屋の中から響く、お母様の怒鳴り声を耳にするまでは。
「コーデリアの持ち物を奪うなんて、一体どういうつもりなの!? なんて浅ましい子なのかしら!」
はじめはそれを、お母様の声だとは思わなかった。私やお父様の前ではいつでも優しくて、華やかで、綺麗なお母様が、こんな風に怒りを滲ませて激しく罵る声を私は聞いたことが無かったのだ。
僅かに開いた扉からは、よく聞けばルーナの泣きじゃくる声も漏れ聞こえてくる。
「違います、お義母様、これは、コーデリア姉様が下さったもので——」
「――嘘おっしゃい! それに、お義母様ですって? 冗談はやめて頂戴な。あなたにそんな風に呼ばれる筋合いはないのよ!!」
「嘘じゃありません、ほんとうに、昨日、お姉様が——」
その瞬間、ぱん、と手のひらで何かを叩き落とすような音が響く。どうすることも出来なくて、扉の外でそっと様子を窺っていた私だったけれど、これにはさっと血の気が引いた。
間もなくして、ルーナの泣き声が先ほどまでとは比べようにならないくらいの大きなものになる。普段あれだけ感情を表さない彼女が、こうして大声で泣かなくては耐えられないほどの衝撃を受けたのだ。
それを察した途端、私は扉の影から飛び出して、お母様とルーナの間に割って入った。ルーナの左頬は真っ赤に色づいて、よく見ると唇の端が切れていた。
「コーデリア……」
お母様は私の登場に戸惑っている素振りだったが、構わず私はきっと睨み上げるようにお母様を見つめる。
「あんまりです! お母様! このお人形は昨日確かにわたくしがあげたものですのよ! それに、ルーナを叩くなんて……!!」
子供同士で喧嘩したことはあっても、大人に殴られたり叩かれたりしたことはない。きっと、物凄く痛いはずだ。ルーナが今も嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっているのが何よりの証だった。
「ルーナ……大変、痛いわよね……? 待ってて、すぐに誰か——」
お母様から視線を逸らし、ルーナに寄り添おうとしたところで、不意に、ふわりとお母様に抱きしめられる。お母様がいつも付けている甘い香水の香りに包まれた。
「コーデリア……あなたは何て優しい子なのかしら。嘘をついたこんな娘を庇うなんて……お母様はあなたの心の美しさに涙が出そうよ。あなたの方がよっぽど聖女らしいじゃない」
「お母様……ですから、これは嘘ではなく——」
「――それにくらべてあなたはどうなの? そのあざとい顔で周りの人を誑かすのは母親譲りなのかしら? 本当、憎々しいほどあの女にそっくりね」
お母様は私を抱きしめながら、床に崩れ落ちて泣き続けるルーナを蔑んだ。見る見るうちに頬が腫れていくのを見て、不安でたまらなくなる。
……これは、一刻も早くわたくしたちがここから去って、ルーナのメイドたちに見つけてもらった方が早いんじゃないかしら。
「お母様、あんまり怒っちゃ嫌だわ。ねえ、あっちで一緒にお父様が買って来てくださったお菓子を食べましょう? お父様も、お母様と一緒にお食べって言っていたもの」
お母様のドレスを引っ張るようにして、私は無理やり笑みを取り繕い、何とか話題を逸らそうとした。お母様のルーナへの怒りが消えた様子はなかったが、お母様はエリーをルーナの元から回収すると、私の手を引いてそのまま廊下へ歩き出した。
「……あんな娘に触られて、折角のお人形が汚れてしまったわね。お父様にまた新しいものを買って頂きましょうね」
いつも通りの優し気な笑みでお母様は、エリーを通りがかったメイドに手渡そうとした。その時、エリーが持っていたルーの存在に気づいたようだ。
「……何かしら、この汚らしい布は。一緒に捨てて置いて」
お母様は手短に告げると、エリーとルーをメイドに手渡してさっさと歩き始めてしまう。その光景にどうしようもなく、胸が痛んだ。
……ルーナに近付いたのは、きっと、間違いだったのね。私が不用意にルーナに話しかけたりしたから、ルーナはあんな目に遭ったんだわ。
もともとお母様がルーナの母君のステラ様を良く思っていないことは分かっていたのに。
「奥様、王太子殿下がルーナお嬢様にお会いしたいと訪ねて来られました。今日は、御一緒に神殿に参る日ですので……」
別のメイドがお母様に耳打ちするように報告する。お母様はうんざりしたように溜息をついた。
「今日は体調が悪いから、とでもいって礼拝はお断りしなさい」
「かしこまりました」
慎ましく礼をして立ち去っていくメイドを他所に、お母様はぶつぶつとどこか悔し気な声音で呟く。
「……何であの女の娘が王家に嫁ぐのよ……。聖女も、正妃の座も、私の娘のほうがよっぽど……」
「……お母様?」
どことなく不穏なものを感じお母様を見上げれば、お母様はすぐにぱっと華やかな笑みを見せてくださった。
「なんでもないのよ、コーデリア。さあ、お父様が買って来てくださったお菓子を一緒にいただきましょうね。今日は何かしら? 楽しみね」
お母様の心の中が見えないと感じたのは、これが初めてのことだったかもしれない。どことなく薄ら寒いものを覚えながら、私はただ、ルーナのためにもお母様のためにも、もう不用意にルーナに近付くのはやめよう、と心の中で決心したのだった。
懐かしい日々のことを思い返して、再びふう、と息をつく。青い貝殻を額に当てるようにして、今まで私がしてきた選択は正しかったのか、少しの間だけ思いを馳せた。
「……もう、どうにもならないことばかりだけれどね」
誰より大好きな「彼」もたった一人の異母妹も、もう、私の傍にはいないのだから。
今更、後戻りはできない。私は命を賭けて、抗ってみせると決めたのだ。
「見てなさいよ、女神アデュレリア」
天蓋に描かれた女神アデュレリアの絵姿を睨み上げ、好戦的ににっと笑ってみせる。
女神の定めた運命などに、流されてやるものか。好戦的ににっと笑みを浮かべて、私は貝殻をそっと握りしめて瞼を閉じた。
「……力を貸してね、ジル」
もうどこにもいない大切な人の名を呟きながら、手のひらの中に貝殻に口付ける。
大好きだと言えばよかった。
その後悔を胸に抱きながら、せめて夢の中では会えますように、と今夜も女神ではない誰かに祈って、感傷的な想いをやり過ごすのだった。
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