第12話 魔王と銀の人形

 それから数日後。


 私は、メイド服姿で離宮の中を駆け回っていた。銀の髪は一つに結い上げて、走りやすくしている。


「見つけましたわ! ガーネットさん!」


 食堂のテーブルの下に隠れていたガーネットを見つけるなり、逃げ出した彼女を追いかける。小さくまとめた赤毛がしっぽのように揺れていた。


「ふふ、お嬢様に捕まえられるでしょうか?」


 私に追いかけられているというのに、ガーネットは余裕だ。負けじと私も走る足を速める。


 今は、まさにこの間教えてもらった追いかけっこの真っ最中だった。それぞれの仕事が一段落したのを機に、こうして実際に遊んでみることにしたのだ。


 遊び方は実に簡単で、魔王役から隠れ、見つかったら捕まらないように逃げ出す、というものだ。魔王に全員が捕まってしまったら魔王の勝ち、半時間以内に全員を捕まえられなかったら魔王の負けだ。


 ちなみに今は私は魔王役で参戦している。既にガーネットたちも一回ずつ魔王役をやってくれたので、私にも順番が回ってきたのだ。


 先ほどまではずっと魔王の勝ちだ。三人とも見つけるのも追いかけるのも上手かった。私なんて一番初めに見つかってしまったのだ。


 この流れに乗って私も勝ちたいところではあるのだが、残り五分というところでまだ一人も捕まえられていない。隠れている三人を見つけはしたのだが、逃げ足がすばしっこくてとてもじゃないが追い付けないのだ。


 勝負するからには手加減は要らないと言ったのは私であるが、せめて一人くらいは捕まえないと格好がつかない。歯を食いしばりながら、恐らくは最後のチャンスであるガーネットを必死に追いかけた。


 ガーネットは広間に逃げ込んだ。先ほどオパールと一緒に磨き上げた床は、さらさらとしていて少し走りにくい。


「あはは! 滑りますね、この床。お嬢様、気を付けて下さいね!」


 心底楽しそう笑みを浮かべて、ガーネットは私を気遣う余裕を見せた。この床で距離を縮められれば、と思っていたが、私はバランスを保つので精一杯で、余計に距離を離されてしまった。


「笑っていられるのも今のうちですわよ!」


 言葉だけは威勢よく、彼女を追いかけ続ける。正直息も上がっていたが、どうにも楽しくて仕方がなかった。こうして同年代の少年少女と遊ぶのは初めてのことなのだ。


 もっとも、子どもの遊びとは違って、皆それぞれ体力があるだけに、まるで何かの競技のような気迫があるのだが、いくつになっても真剣に取り組めば面白い。


 メイド服の裾を翻し、一つにまとめた銀髪が後ろになびくのを感じながら、広間から談話室の方へ飛び込んだガーネットを追った。広間に比べれば狭い部屋だから、何とか追い詰められないだろうか。


 氷のような床から、絨毯に切り替わったところで、私は談話室の中に佇む人影を見てはっと足を止めてしまった。


 タイミングを見計らったかのように、追いかけっこの終わりを知らせるの鐘が鳴る。完敗してしまったが、私は茫然とした表情でこちらを見つめる彼を前に微妙な気まずさを覚えていた。


「……ルーナ、その恰好は」


 昼間だと言うのに殿下がいらしているとは思わなかった。避けようがなかったとはいえ、彼の前で満面の笑みを見せてしまったのが何だか悔しくて思わず俯いてしまう。


「お嬢様! 私たちの勝ちですね!」


 置時計の鐘の音が届いたのか、どこからともなくオパールとクリスが現れた。汗一つ書いていない涼し気な顔には、若干の悔しさを覚えたが、目の前に殿下がいるためにそれどころではない。


「殿下……いらしていたのですか」


 クリスが柔らかく笑いかけるように殿下の傍で慎ましく礼をする。ガーネットとオパールもそれに続いた。


「今、お嬢様と一緒に追いかけっこをしていたのですよ。お嬢様が魔王役でしたが、完敗でしたね!」


 オパールが殿下に手短に説明すれば、彼はふっと笑って私を見た。


「君が魔王役か。驚くほど似合わないな」


 公の場で、あれほど無表情を決め込んでいるのが信じられない柔らかな笑みに、思わずふい、と視線を逸らす。そのまま無言でガーネットたちの方へ移動した。


「あの……殿下、申し訳ありません。お嬢様に、メイド服などをお着せしてしまって……」


 ガーネットが、小さく頭を下げながら謝罪した。用意されているドレスを身に纏わなかったくらいで怒るのは、流石に心が狭すぎるだろう。


 もしそんなことがあれば、この場でメイド服を脱ぎ捨てて投げつけて差し上げようかしら、と頭の中で計画を練っていたが、返ってきたのはどこか愉し気な笑い声だった。


「謝ることはない。ドレスでは走りづらいだろうしな。ルーナにはいろんな遊びを教えてあげて欲しい」


 余計なお世話だ、と心の中で悪態をつきながらも、ふと、視線を背けた先で椅子の上にある人形が座っているのを見つけてしまった。


 陽の光に輝く銀糸の髪に、雪のような薄い水色の瞳。人形が纏うドレスも非常に凝っていて、子どもが持つものというよりは、貴族の間で観賞用として愛されるものに近い人形だった。


 その美しさにはっとしたのもあるが、私の注意は人形が握っているものにあった。

 

「わあ、殿下! このお人形素晴らしいですね! お嬢様への贈り物ですか?」


 オパールも人形の存在に気づいたのか、人形の座る椅子の傍に近寄ってまじまじと観察する。


「銀の髪に雪色の瞳の人形ですか……まさに、お嬢様にぴったりだ」


 クリスもオパールに賛同するようにして人形を褒め称えた。殿下は椅子の上から人形を抱き上げると私の前に見えやすいように掲げる。


「……どうだろう、ルーナ。君の離宮に飾ってくれるか?」


 好んでやって来たわけでもない離宮の主にされても困る、と殿下を一睨みしつつも、私は人形そのものというよりも、人形が抱えていたあるものにそっと手を伸ばした。


 それは、白いハンカチを丸めて、髪を結い上げる純白のレースのリボンで纏めた「お人形」だった。


 いや、事情を知らぬものにはただのハンカチとレースのリボンにしか見えないだろう。よくよく見ればハンカチには、目と鼻に当たる下手な刺繍が施されているのだが、これが「お人形」であることに気づく人はまずいないはずだ。


 だが、私には馴染みの深いものだった。これは、遠い昔、まだ私が聖女候補に選ばれて間もない頃、自分で作った「お人形」なのだから。


 聖女候補に選ばれた私は、基本的に嗜好品や娯楽品に当たるものは知らずに育った。俗世に染まってはいけない、常に慎み深く、無欲でなければいけない、との教えを受けていたのだ。


 とはいえ、聖女候補になったときの私は、まだ5歳やそこらの子どもだ。どうしても自分のお人形が欲しくて、でも強請れば「聖女候補としての自覚が足りない」と叱られてしまうから、私はハンカチとリボンを使ってこっそりとお人形を作ったのだ。


 名前は私の名から「ルー」。リボンを解けば、たちまちただのハンカチに戻る粗末な品だったが、私にとっては大切なお友だちだった。夜眠るときや、ちょっとした空き時間に、こっそりと愛でていたのだ。


 ……そう言えば、殿下にお見せしたこともあったのだっけ。


 何かの機会に、こっそり殿下に見せたこともあった気がする。ルーの存在を知っているのは殿下と、そしてお姉様だけだった。


 ある事件をきっかけに、ルーは捨てられてしまったものだとばかり思っていたのだが、多少薄汚れながらもまだこうして残っていたなんて。


 人形の手からそっとルーを受け取って、胸に抱いてみた。それだけで、幼い頃、ルーを一番の友だちだと思っていた日々が鮮やかに蘇る。


「……君の大切な友だちなのだろう。ルーも一緒に連れてきたんだ」


 ……このがらくた同然のルーの名前まで覚えていたというの?


 これには思わず目を瞠って、殿下を見上げてしまった。こんなの、殿下にとっては取るに足らない些事のはずなのに、どうして。


 聞きたいことは山ほどあった。どうしてこれを殿下が持っているのか、この美しい人形はどういうつもりで選んだのか、何よりも、こんながらくたの名前を憶えているそのわけは何なのか。


 口を開きかけて、やめた。疑問とよく分からない懐かしさのようなものが混ざり合って、言葉にならなかったのだ。


「この人形は、ルーの友人に」


 殿下は銀の髪の人形をそっと私に抱かせて、柔らかく微笑んだ。


 だが、その台詞は遠い記憶の中の「彼女」の台詞にあまりにもそっくりで、まじまじと殿下の深緑の瞳を見つめてしまう。


 ――よ、よかったら、この子をルーのお友だちとして、あなたに差し上げてもよろしくてよ。この子はエリーっていうの。ちゃんと大切にしてよね。


 ストロベリーブロンドの髪を揺らして、私から僅かに視線を逸らしてそう言い放った彼女のことを思い出す。


 懐かしいような胸が痛むような、腹立たしくてならないようなぐちゃぐちゃとした感情に胸を締め付けられる。


 ……もしもこれを、コーデリア姉様が手配しているのだとしたら、一体どういうメッセージなの? 離宮でお人形遊びでもしてなさいってこと? それとも――。


 人の悪意を疑うことほど醜いことはない。それでも今の私にとって、手放しに喜べるような贈り物でないことは確かだった。


「まあ、とっても素敵ですね! お嬢様の色彩とそっくり同じです。お名前をつけなくちゃいけませんね」


 ガーネットやオパールがきらきらとした眼差しで見つめて来るので、私も無理矢理笑みを取り繕うしかなかった。


 どのような意味で贈られたのであれ、人形自体に罪はない。何より、子どものころずっと憧れていた人形がこうして手元にあることには、胸が弾むような気がしてしまう。


「そっちのお人形は、ルーって言うんですか? じゃああたし、このお人形とお揃いの服をルーに作ってあげようと思うんですが、いいですか、お嬢様」


「オパールより私の方が上手くできると思いますわ。ルーちゃんのお洋服づくりは私にお任せ下さい」


「センスは僕が一番いいと思いますよ」


 三人とも、がらくた同然のルーを決して雑に扱ったりしないことに、驚いてしまった。あの短い会話だけで、私がルーを大切にしていたことに気づいたのだろうか。


 ……思えば、私の周りの人たちは、決して誰かの大切なものを笑ったりしない人ばかりだわ。それがどれだけみすぼらしく、一見して無価値であるようでも。


 殿下も姉様もガーネットもオパールもクリスも、みんなそうだ。殿下と姉様は今はどうかは分からないが、少なくとも昔はそうだった。


 このところ、奪われたものにばかり注意が行きがちだったが、私は周りの人に恵まれているのだと知った。


 今までは女神様だけが私の心の拠り所だと思っていたのに、祈りを封じられてからというもの、こうして見えていなかったものを一つずつ拾い集めているような感覚に陥る。

  

 ……私は、とても視野の狭い人間だったのね。聖女であるから女神様とだけお話しできればいいと、半ば盲信していたのかもしれないわ。


 民のために、周りの人のために、と口では言いながら、彼らの本当の姿は実は何一つ見えていなかったのかもしれない。


 私はルーと銀の人形を抱きしめながら、今一度殿下を見上げてみた。


 ……もしかすると、殿下の本当の姿だって、私は何も見えていないのかも。


 だからと言って、やっぱり今すぐ許せる気にはなれないし、言葉を交わすつもりもないが、視線を合わせる時間は少しだけ増やしてみてもいいかもしれない。彼が、何を考えているのか探るためにも。


 じっと殿下の深緑の瞳の奥まで見据えるように見上げれば、彼は珍しくたじろいだようにふい、と視線を逸らしてしまった。僅かに耳の端が赤い。


「……っ気に入ったようで何よりだ」


 別に笑いかけたわけでもお礼を述べたわけでもないのに、妙な行動ばかりする人だな、とどことなく冷めた目で見つめていると、ガーネットたちが何とも言えぬにやにやとした笑みで殿下を見守っていた。


「良かったですね、殿下」


 にこにこと微笑むガーネットたちを、殿下はどこか悔しがるように睨んだかと思えば、「公務がある」とだけ告げてさっさと立ち去ってしまった。


 ばたん、と殿下が出ていった扉を見据えて、私は銀の人形を抱え直しながらため息をつく。


「……変な人ですね、殿下って。少し疲労が溜まっているんじゃないでしょうか。疲れているのなら、無理にここに足を運ぶ必要はありませんって、どなたか殿下にお伝えください」


「殿下の楽しみを奪わないでいて差し上げてください。あれでも、拗らせた可哀想な王子様なんですよ」


 クリスが苦笑交じりに答えたので、私はふい、と顔を背けながら人形を抱きしめた。


 どれだけ私に優しくしようが、殿下は許すべき相手ではないのだ。それを自分に言い聞かせるように、敢えて嫌味を口にした。


「監禁している令嬢の様子を見に来るのが楽しみだと言うのなら、本当にいい趣味をしておられますこと」


 銀の髪の人形を椅子に座らせ、私はルーだけを改めて両手で包み込んだ。懐かしいハンカチの感触と少しくすんだリボンの色に、自然と頬が緩んでしまう。


 16歳になった私がこうして縋るのも子供っぽいのかもしれないが、遠い昔の友人との再会は、想像以上に私の心を躍らせた。下手な刺繍で施した目と鼻を撫で、そっと口付ける。


「……今度こそお友だちが出来てよかったわね、ルー」


 ぽつりと呟けば、蘇るのはやはり幼いあの日のことばかりだ。


 思えば聖女候補であった時代に、声を上げて泣いたのはあれが最後だったかもしれない。


 またしても感傷的な気分にさせられながらも、私は窓の外を見つめた。


 季節は夏。もうじき、この国の一番麗しい時節がやってくる。

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