第11話 お伽噺と初恋の熱

 その夜。


 私は寝室の続き部屋に当たる広い部屋の中で、月影を背に、ガーネットたちにあるお伽噺を読み聞かせていた。


 読み聞かせと言ったって彼らは私と同年代の少年少女な訳なのだが、どうやら文字を読むのが得意ではないらしく、物語というものにあこがれを持っていたそうだ。


 そこで私は、昼間彼らに様々な仕事を教えてもらっているお礼という形で、こうして御伽噺を読み聞かせることにしたのだ。


 私を含めて四人で一つのソファーに並ぶのは、何だか窮屈にも思えたが、楽しくて仕方がない。


 ちなみに別のソファーには、いつも通りに私の様子を見にやって来た殿下もいらっしゃるのだが、私たちの輪に無理に入ることはせず、じっとこちらを見守っている。


 ほとんど無表情と言ってもいいが、彼にしてはどことなく柔らかな雰囲気を纏っていることからして、この空間ではかなり気を緩めているのだろうと察せられた。


 私を捕らえておきながら勝手にこの部屋でリラックスされるのも腹立たしいが、ガーネットたちが嬉しそうに物語を待ち望んでいるので、今は彼に構わないことにした。


 読むのはこの国で最も有名なお伽噺。女神アデュレリアと魔物たちの戦いを描いたものだ。昼間、クリスが追いかけっこから派生した遊びを紹介してくれた時にこの話題に触れたので、折角なので深堀することにしたのだ。


 女神アデュレリアへの祈りを封じた殿下の前で、女神のまつわる御伽噺を読むのは問題ないのだろうか、と少々不安にも思ったのだが、意外にも彼は口を出してくることはなかった。物語ならば許容するのかもしれない。よく分からない人だ。


「では、読みますね。分からないことがあったらいつでも聞いてくださいね」


 こればかりは私の専門分野なので、大抵のことは答えられるだろう。分厚い御伽噺をそっと開きながら、私はゆっくりとお伽噺を読み始めた。


 お話の概要はこうだ。


 遠い昔、王国アデュレリアの前身となるこの土地は、魔の者たちの支配下にあった。人々は魔物に苦しめられ、作物は育たず、まさに暗黒の時代だったという。


 女神アデュレリアは民の苦しみを見て、心を痛めた。そうして、一人の聖女を地上に遣わせたのだ。


 聖女は魔の者たちに穢された土地を次々と浄化していき、人々を魔の者たちの支配から救った。このとき、人々を導く立場にあったロヴィーノという青年が聖女と手を取り合って、遂に魔の者たちをこの土地から追い出すことに成功したのだ。


 それを機に、聖女とロヴィーノは手を取り合って、女神の名を冠した王国アデュレリアを建国した。女神アデュレリアもそれを祝福し、見る見るうちに国は栄えていったのだ。


 女神アデュレリアの祝福を受けた王国は、初代聖女以降も特別な力を持った聖女が生まれるようになった。王家は初代の例に倣って彼女たちを王家に迎えては、その力を民のために使うことを誓った、というのがこのお伽噺の大筋だった。


 ……まあ、その誓いを見事に破った王子様は、今ここにいる訳ですけれど。


 読み聞かせながらさりげなく殿下を睨めば、彼はやっぱり穏やかな眼差しで私たちを見守っていた。動揺の一つも見せない辺り、本当に憎らしい人だ。


「……今、王国がこうして平穏な姿を保っていられるのは、すべて女神アデュレリア様のお陰なのです。ですから、日々感謝と祈りを忘れないようにしなければなりませんね」


 聖女候補であったときにもこうして読み聞かせをしたことがある。馴染みの締め方をすれば、ガーネットたちは三者三様の反応を示していた。


「何となくしか知りませんでしたが、お伽噺の上に成り立つ国だったのですね。殿下はロヴィーノ様の子孫ということですか?」


「そうですね、信じられないでしょうけれど賢帝ロヴィーノの直系子孫なのですよ、あれでもね」


 さりげなく嫌味を交えつつ、ガーネットの問いに答えた。その隣でオパールが首をかしげてこちらを見つめてくる。


「女神様に追い出された魔の者は、今どこにいるんですか?」


「人々の影の中に住まい、弱みに付け込もうと常にこの国の人々を狙っているという話もあります。でも心配ありません。女神アデュレリアを信じる民が傷つけられることなど、決してありませんから」


「じゃあ、あたしたちが火傷を負ったのは、女神様への信仰心が足りなかった、っていうことなのかなあ……」


 それは、あくまでも純粋な疑問として吐き出された言葉だった。オパールはうーん、と顎に手を当てながら昔を思い出しているようだ。


「っ……」


 今までごく自然に説いてきた言葉だが、これがいかに無神経で責任転嫁でしかない言葉だったか、思い知らされた気がした。酷く打ちのめされた気分だ。


「……決して、決してそのようなことはありませんわ。女神様を信じていないからと言って、傷ついていい理由にはなりません、なってはいけませんもの……」


 今まで絶対的な存在であった女神様への想いが、大きく揺らぐのを感じた。こんな風に迷いが生じたのは、あの祝宴会の夜に、女神様の声を聞ける己の力を疑った時以来だ。


 ……過酷な現実では、女神様へ祈りなんて少しも役に立たない場面だって、きっとあるのよね。


 信仰は心の支えになるかもしれないが、誰しもに奇跡が約束されているわけではない。私は問いかければ女神様が応えてくださるけれど、他の人々にとってはそうではないのだ。


 そう思うと、聖女候補として活動してきた自分の振る舞いは、随分と傲慢で、押しつけがましいものだっただろう、と簡単に予想できた。奇跡を約束されている者が、持たざる者に祈りの重要性を解いたところで、人によっては反感を覚えるだけだ。


 ……聖女候補だったときも、私は案外愛されてなどいなかったのかもしれないわね。コーデリア姉様も、私のそういうところが嫌いだったのかも。


 この離宮生活に感謝するところがあるとすれば、今までの自分の姿を顧みる時間ときっかけが山ほどあることだった。もしも今解放されて、再び聖女としての役目を与えられたのなら、以前よりもずっと人々に寄り添えるような聖女になれるだろう。


 もっとも、聖女に復帰するどころか、この離宮から解放されるのも絶望的であるので、その想像はまさにするだけ無駄というべきなのだけれども。


「ありがとうございました、お嬢様。ずっと気になっていたので、何だかすっきりした気分です」


 クリスは物語の余韻を味わうように満足げに溜息をついて、お伽噺の革表紙を撫でた。三人の中で一番読み書きに長けているのは、レシピに目を通すことが多いクリスであるようだが、彼でも本を読むには抵抗がある程度の能力なのだと言う。


「他にも気になる物語がありましたら、いつでも言ってくださいね。読み聞かせでも、分からない単語の解説でも、何でもおっしゃってください」


 昼間のお礼になることがこれくらいしか思い浮かばない。彼らのお陰でこの数日間だけでも実にいろいろなことが出来るようになったのだから、これでもお礼としては足りないくらいだ。


「じゃあ、また明日も読んでください! 今度は、王子様とお姫様が結ばれる、あのお伽噺がいいです」


 最近はやっている子供向けのお話で、お姫様が苦難を乗り越え王子様と結ばれる、という素敵な物語があるのだが、今の私が読むには少々微妙な心境だった。だが、ガーネットの頼みならば仕方ない。心の中で殿下への嫌味を募らせながら、目いっぱい感情的に読んであげよう。


「いいですよ。あれは簡単な言葉で書かれていますから、みんなもすぐに読めるようになると思います」


「楽しみです!」


 オパールも目を輝かせていた。彼らが喜んでくれるのなら、それほど嬉しいことはない。


「……それじゃあ、僕らはこの辺で失礼しますね。もう夜も遅いですから、お嬢様も早く横になってください」


「ええ、ありがとうございます。皆さん、いい夢を」


 クリスがソファーから立ったのを機に、ガーネットもオパールも立ち上がった。眠る前に火傷の痕に軟膏を塗りあいっこするらしく、彼らはいつも少し早めに下がる。ガーネットも含めて彼らは三人兄妹みたいだな、と微笑ましく思ってしまった。


 ……昔は私も、お姉様と仲が良かったものだけれどね。


 お互い、ごく自然に歩み寄ろうとしていた気がする。突然お姉様が出来て驚きはしたけれど、それ以上に嬉しかったのだから。


 それが今こんな事態になってしまっているのだから、人の関係も想いも儚いものだな、と小さな溜息が零れてしまった。お伽噺の革表紙を撫でながら、少しだけ感傷的な気分になってしまう。


「……疲れたのか? 随分長い間彼らに読み聞かせていたから、無理もないか」


 そう言えば殿下もいたのだっけ、と彼に一瞥をくれながら、私はお伽噺を本棚に戻すべく立ち上がった。当然今夜も彼に言葉をかける気はない。


 殿下もそれを承知しているようで、私に続くようにソファーから立ち上がり、本棚に向かって歩き始めた。出来れば追いかけまわさないでほしいのだが、それを口にするのも嫌なので放っておくことにした。


 本棚の前に辿り着けば、一番上の段に不自然な隙間がある。このお伽噺は、恐らくそこからとったものなのだろう。先ほどはクリスに取ってもらったために問題なかったが、背の低い私がちゃんと戻せるだろうか、という不安が過る。


 本棚に手をついて、目一杯背伸びして何とかお伽噺を上段に引っ掛けようとすると、不意に背後から手が伸びてきて、そっとお伽噺を押し込んだ。振り返らなくても分かる。殿下が手伝ってくれたのだろう。


「彼らに優しくしてくれてありがとう。俺の大切な友だちなんだ」


 思ったよりも近い距離で囁かれる殿下の声に、不覚にも心臓が飛び跳ねた。逃げ出そうにも、殿下の腕に囲われるような構図のために、彼に触れずに抜け出せる気がしない。


 別に殿下の友人だから彼らと親しくしているわけではないのだと、一言文句を言って差し上げようかと思ったが、どんどん早まる脈がその言葉すらも溶かしていく。


 触れていなくとも、彼の熱を感じる。どこか安心するような香りに包まれて、ますますどうしていいか分からなくなってしまった。


「今度、もっといろいろな種類の本を持ってこよう。博識な君が知らない物語なんてないのかもしれないが、退屈しのぎにはなるだろう?」


 あまりに至近距離で話し続けられ、彼の影の中に囚われるような構図が落ち着かない。意を決して私はくるりと向き直り、軽く彼の胸を押すようにして距離を取った。


 私から反応があったことに驚いたような、どこか喜んでいたような殿下だったが、すぐに顔を背けた私を見てなのか、謝罪の言葉を口にし始めた。


「ああ……悪い、少し距離が近すぎたな。君は人に触れられ慣れていないのに……悪いことをした」


 こんな些細なことはすぐに謝るくせに、どうして私を離宮に閉じ込めていることについては少しも悪びれる様子を見せないのだろう。そういうところが本当に腹立たしい。


 何より私が今一番苛立っているのは、彼と距離が近かっただけでこんなにも早鐘を打っている自分の心臓に対してだった。


 本当に憎らしい。今すぐ止まってしまえばいいのに。


「……顔が赤い。大丈夫か? もしかして、熱でも……」


 心の底から私を案ずるような心地の良いその声も、嫌いだ。


 恐る恐ると言った様子で私の額に伸ばされようとする彼の手をぴしゃりと叩き落して、たまらず私は逃げるようにして寝室に駆け込んだ。


 後ろ手に寝室の扉の鍵を閉め、ネグリジェに着替えることも無いままにベッドに飛び込む。月影に照らされた薄暗いベッドの上で、頬に帯びた熱を今すぐに消し去りたくて、クッションに八つ当たりするようにもがいた。


「っ……不躾にあんなに近づいて! 私を気遣うような素振りを見せて! あんなので私が絆されるとでも思ってるの?」


 右手を握りしめてひたすらにクッションを殴った。鈍い音が響き渡る。治り切っていない右肩が痛むのも、何もかも気に食わなかった。


「どこまでも浅はかな人! 顔も見たくないわ!! 本当に嫌い! 大嫌いだわ!!」


 涙目になりながらクッションを殴り続けていると、薄い生地が破れてしまったのか、ぶわりと白い羽根が溢れ出した。


 物に当たってしまった虚しさと、ぐちゃぐちゃになった心を抱えきれず、いつしか頬には涙が伝っていた。泣いているせいか、頬の熱は冷めるどころか火傷するように熱くなっていく。


 本当に煩わしい人だ。目の前にいなくても、こんなに私の心を搔き乱すなんて。


「……何様のつもりよ」


 もう一度だけ敗れたクッションを殴れば、再び真っ白な羽が溢れ出す。ぼろぼろと涙を流しながら、私は羽根の舞うベッドの上に蹲った。


「……大嫌いよ、あんな王子様」


 羽が背に舞い落ちる感覚を覚えながら、私は一人泣き続けた。月影にすらこの戸惑いを見られるのが悔しくて、余計に涙が溢れてくる。


 嫌いだ、殿下も、姉様も、何もかも全部。


 元聖女候補らしからぬ恨み言を募らせながら、ぎゅっとシーツを握りしめれば、間もなくして抗いがたい眠気に襲われる。


 そのまま私は泣き疲れるようにして、夢の中へと誘われたのだった。

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