第6話 月と光の攻防戦

「ルーナ、傷の具合は——」


 品の良い青の上着を纏った殿下は、私の姿を見るなり息を呑んだ。


 それもそうだろう。普段はベールで素顔を隠し、過剰なまでに貞淑さを求められていた元聖女候補が、今は肌着同然の薄いワンピース姿で佇んでいるのだから。


 初恋の人を前にこんな格好で姿を現すことになるなんて夢にも思っていなかったが、不思議と心の内を占めるのは彼への静かな怒りと僅かな寂しさだった。


 とはいえ、一般的にはあられもない姿であることは確かだ。殿下は軽く私から視線を逸らすと、戸惑うように告げる。


「っ……支度がまだだったのなら、言ってくれ。いくら何でも、着替えの時間を奪うほどの無体を働くつもりはない」


「支度なら、もう整っております。お話があるのなら、どうぞこのままで」


 淡々とした調子で述べれば、殿下は整った眉を顰める。


「……着替えは用意していたはずだが?」


「聖女が深い色の服を纏うことは禁じられております。いくら殿下が私を偽りの聖女とお思いだったとしても、どうしても譲れないのです。確かに殿下の御前に出るには心許ない姿ですが、どうかお許しください」


 するすると溢れ出す言葉に、自分自身で驚いていた。彼は嘲笑に近い笑みで口元を歪めると、ゆっくりと私との距離を詰める。


「……には危機感というものがないらしい。自分を捕らえた男の前で、よくそんな恰好でうろつけるな」


 私をガラス張りの壁に追いやるようにして立ちはだかる殿下を、ゆっくりと見上げた。こんな間近で目が合うことは生まれて初めてだと言うのに、今はときめきも何も湧き起こらない。


「……私が恐れているのは、女神アデュレリアを裏切るような真似をすることだけです。元より捕らえられたときから、覚悟はできております」


 世間知らずな私でも、今の自分の格好が異性に見せるには相応しくないものだということはよく分かっている。恐らく世間一般には「どんな目に遭ってもおかしくない」と言われるような姿であることも。


 それでも私は、至近距離で殿下を睨み上げるように続けた。


「コーデリア姉様が——あなた方の言う聖女様がどのように仰るのかは存じませんけれど……この身など、お好きになさればよろしいわ。そんなことで、私と女神様を引き離せるとは、到底思えませんけれど」


 ここまで挑発的な言葉を口にするのは初めてのことだった。多少、自棄になっている部分がないとは言い切れない。理不尽な手段で聖女の座を奪われ、こうして訳の分からぬ箱庭に閉じ込める彼の横暴に怒りを覚えてもいたことも相まって、生まれてはじめてに等しい激しい言葉を並び立ててしまった。


 だが、肝心の殿下は戸惑うというよりも、どこか茫然とした様子でこちらを見下ろしていた。これだけ挑発的な言葉を並び立てたのに、何だか拍子抜けする反応だ。

 

「……君は、そんな風に怒ることが出来たんだな」


 安堵すら感じさせるような声で呟いたかと思うと、彼は本当に僅かに頬を緩めた。やがて、自らの上着を脱ぎながら片手間に問いかける。


「青ならいいか?」


「……え?」


「黒じゃなくて、青ならいいかと聞いているんだ」

 

 焦れるように問い直す殿下は、どうやら自らの上着を私の肩にかけようとしているようだった。


 殿下の行動に驚いてしまい、答えに迷っていると、彼は私の言葉を待たずに、先ほどまで自分が羽織っていた青の上着を私の肩にかけた。殿下が羽織っても太腿のあたりまでの長さがある上着だったので、私が肩にかけると膝のあたりまですっぽりと覆われてしまう。


 初恋の相手の温もりを帯びた上着は、どうにも私を複雑な気持ちにさせた。もちろん、呑気にときめくことが出来るような心境ではないのだが、許しがたい相手が見せた突然の思いやりに、どんな表情をしていいのか分からなくなる。


「……靴も黒じゃ嫌なのか?」


 殿下はどこか呆れたように言い放つ。そのような言い方をされると、何だか自分が駄々をこねている子どものように扱われている気がして、ますます複雑な気分になってしまった。


「……基本的に、聖女の装束以外を纏うことには抵抗があります」


 多少意地になってぴしゃりと言い返せば、殿下は僅かに視線を揺らがせた。それに構うことも無く、彼から顔を背ける。


「まだ、自分が聖女だと信じているのか?」


 殿下は顔を背けた私の頬に触れ、嘲笑うように告げた。掠めるようなその感触に寒気を覚え、左手で彼の手を振り払う。普段ならばここまでのことはしなかっただろうが、彼に捕らえられたことで気が立っていた。


「……私はまだ、女神様の声と共にあります」


 僅かな沈黙の後、なるべく毅然とした態度で告げた。ここに来て、再び二人の視線が絡み合う。


「思うに、殿下は私が女神様のお声を聞ける力を持っていることを、未だ信じておられるのではないですか?」


 私の問いかけに、殿下は面白がるように僅かに口元を歪ませた。


「なぜそう思う?」


「……あなたは、コーデリア姉様を正妃にするために、姉様を聖女に祀り上げた。もしもあなたがコーデリア姉様を聖女だと心から信じているのならば、偽りの聖女の私の存在など、気に留める価値もないはずです」


 殿下は黙って私を見下ろしていた。ひとまずは、こちらの主張に耳を傾けることになさったらしい。


「でも、あなたはわざわざ私をこの箱庭の中に捕らえた。それはつまり、私に聖女としての価値があるとお思いだからなのでしょう? 女神様のお声を聞ける私を野放しにしておくわけにはいかない、とのお考えのもとに起こした行動なのではありませんか?」


 殿下は、恐らく私が女神様の声を聞けることを分かっている。分かっていて、今回の騒動を起こしたのだ。

 

 それは、ほとんど確信に近かった。コーデリア姉様との未来に私が邪魔だったから、私に偽りの聖女の烙印を押しただけで、彼は今も私に聖女の力があることを正しく認識しているはずだ。


「王国アデュレリアは大国とはいえ、王国に迫る災厄を予知しうる私の力が、周辺諸国に渡っては都合がお悪いですものね。……女神様の声を聞ける私を幽閉したのは、王太子殿下の御立場としては正しいご判断かと思います」


 女神の忠告によって災厄を言い当てられるこの力は、周辺諸国にとって王国アデュレリアに攻め入る切り札の一つになり得る。


 もちろん、罪人の烙印を押されようとも、どれだけの屈辱を与えられようとも、女神様が愛する王国アデュレリアを売るような真似をするつもりはなかった。


 だが、殿下はきっと、聖女の座を追われた私は何をしでかすか分からないと懸念し、こうして幽閉することに決めたのだろう。


 ……私は、随分信頼されていなかったみたいね。


 これでも、物心がついたことからずっと、将来の殿下の妃として、王国のことは愛してきたつもりだった。自国の民が危険にさらされるくらいならば、自害をしてでも聖女の力が他国に渡らないように努めただだろう。


 その覚悟が、王国と殿下への愛が、彼に少しも伝わっていなかったことが悲しかった。彼の「二度と女神の目に触れないように堕とす」という発言からしても、どうにかして聖女の力を封じておかなければ安心できないほどに、彼は私のことが信じられないのだ。


 思わずぎゅっと、手触りの良い肌着の裾を握りしめた。


 殿下が用意した服が、聖女の掟に真っ向から逆らう黒いドレスだったことも、私から聖女の力を奪うための策略の一つなのかもしれない。その程度で女神様が私を見限るとは思えなかったが、抜け目のない殿下のことだ。思いつく手は全て尽くしておくつもりなのだろう。 


 そっと、殿下の深緑の瞳を見上げてみる。相変わらず感情を思わせない端整な顔立ちをしばらく眺めていると、思わず自嘲気味な笑みが零れてきた。


 この沈黙が、答えなのだろう。たった今、私が口にした考えが間違っていないという、遠回しの肯定なのだ。


 ……そこまでして、殿下はコーデリア姉様が欲しかったのね。


 波打つストロベリーブロンドを揺らして笑う、コーデリア姉様の愛らしい姿を思い返す。確かに姉様は、類まれなる美貌に恵まれていると言えるだろう。あの妖艶な笑みを見て、ときめかない人間がいるとは思えない。


 それに、コーデリア姉様の演説力は大したものだ。彼女の言葉は、人々の心を揺さぶることに長けている。使い方を間違えれば危険なものに違いないが、逆を言えばそれくらい価値のあるものだということだ。恐らくは、女神の声を聞ける私の力よりもずっと。

 

 今までの自分の人生は何だったのだろう、という空しさから、ますます自嘲気味な笑みを浮かべてしまった。


 だが、これですっきりした部分があるのも事実だ。殿下の考えが分かった今、ようやく心の中である決意が固まる。


 改めて殿下の瞳をまっすぐに見つめ、なるべく穏やかに微笑むように告げた。


「……ですが、殿下、私の力が邪魔ならば、私を幽閉するなどという、まどろっこしいことをせずともよろしいのです。どうぞ、神聖なるアデュレリア王家の名で、公爵令嬢ルーナ・ロードナイトに自決命令をお出しください」


 ドレスの代わりに真っ白な肌着を摘まんで、淑女の礼をした。


 自ら命を絶つという行為は、元聖女候補としてはもちろん、一般的なこの国の倫理から見ても褒められた行いではない。


 だが、このままじわじわと元聖女候補としての尊厳を踏みにじられるくらいならば、ここで一思いに終わらせてしまった方がずっとマシだ。殿下の懸念が聖女の力を野放しにすることであるのならば、これですべて問題は解決するはずだった。


 黙り込む殿下を前に、彼の表情を窺うように僅かに顔を上げれば、言いようのない懐かしさが込み上げてきた。


 親密とは言えなかったけれど、細く美しい糸で繋がれたような、優しい二人の関係が私は大好きだった。一方的な思いだったとしても、この十数年の繋がりは、私の宝物だった。


 幼馴染で、初恋の相手で、今はどうしようもなく憎らしくて仕方がない、大切な人。それが、私にとっての殿下だ。


「本当ならば、私を捕まえたあの時に、殺してしまうのが最善策だったと思われますが……。分かっております、殿下はお優しい方です。殿下がいくら私を疎んでいらっしゃっても、長年の付き合いで生まれた情が私を殺すことを躊躇わせたのでしょう?」


 私から自決の話を持ち出されると思っていなかったのか、殿下は戸惑いを見せていた。深緑の瞳が揺れるさまをしばらく眺めた後、そっと銀色の睫毛を伏せる。


「殿下の親切に、感謝いたします。最後に女神様に祈りを捧げながら自決する道を残してくださって……本当に、ありがとうございます。エリアル殿下」


 目一杯の晴れやかな笑顔で、私は殿下に告げた。これは、私なりの彼への別れの言葉のつもりだった。


 殿下からしてみれば、私を捕らえたあの瞬間に私を殺すことなんて容易かったはずなのに、こうして命だけは長らえさせてくれたのだ。彼が冷酷なだけの人間だったとしたら、こんな状況にはなっていない。


 今でこそ冷たいお顔ばかりなさる殿下だが、昔はそれはもう心の優しい少年だった。その名残が今も、彼の中に確かに生きていることを思えば、不思議と彼のことを憎み切れないような気持ちになった。


 だからせめて、彼の手を私の血で汚さない道を選ぼう。この結末に思うところがないと言えば嘘になるけれど、王家と神殿、公爵家が相手では、いくら女神様の声と共にある私でも相手が悪すぎる。怒りに震える自分の醜さも、もう見ていられなかった。


 もう、いい。こんな世界からは開放されたい。女神様の御許で、愛する王国アデュレリアの繁栄を願うだけの清らかな存在になりたい。


 長い沈黙が二人を支配する。部屋の隅に置かれた置時計の針の音が、やけに物寂しく響いていた。


「自決命令、か……」


 殿下はどこか嘲笑の混じった声で呟く。なぜそんな笑い方をなさるのか、と彼の表情を覗き見れば、彼の端整な顔立ちに浮かぶ感情は予想外のものだった。


 殿下は、怒りとも憎悪ともとれる激しい感情の宿った瞳で、私を見下ろしていたのだ。


 そうかと思えば、乱暴にも思える仕草で私をガラスの壁に押し付け、がしゃん、と乾いた音が響かせる。ガラスから伝わる夜の冷たい闇が、肌着から露わになった首筋に纏わりついた。


「っ……冗談じゃない。次、似たようなことを言ってみろ、鎖に繋いででも絶対に阻止してやる」


 殺意さえ窺わせる冷え切った声は、彼の言葉の意味からしてみれば矛盾しているようにも思えたが、私を動揺させるには充分だった。


 ……殿下は一体、何をそんなに怒っているの?


 殿下がここまで感情を露わにすることは、長年の付き合いの中でも初めてのことだった。幼い頃は常に朗らかに笑っていたものだし、10歳を過ぎたあたりからは感情自体を伺わせなくなった彼なのだ。こんなにも怒っているところを見るのは初めてだ。


 私が命を絶つことで、殿下の懸念はきれいさっぱり解消されるはずなのに。


 ……それとも、私を幽閉し、生かしておくことで、いざという時のために聖女の力を残しておきたいのかしら?


 だが、そうなると私を「女神の目に触れないように堕とす」という殿下の発言に矛盾が生じてくる。


 ここに来て、初めて殿下が何を考えているのか分からなくなってしまった。言い返す言葉もなく、ただ困ったように瞳を揺らすことしか出来ない。


 殿下はどこか苛立ったように私をしばらく見下ろしたのち、ガラスの壁から離れて私を解放した。


 見えなくなる。殿下の心が、考えが、まるで靄がかかったかのように不透明で、私をどうにも落ち着かない気分にさせた。


「……医者の話ではしばらく安静にしていろとのことだ。もう、ベッドへ行って休め」


 殿下はこちらに背を向けたまま、熱を感じさせない声でどこか疲れたように言い放つと、私の肩から上着を回収することも無く、部屋から出て行ってしまった。


 ……私は、一体これからどうしたらいいの?


 女神に祈るための祈る場所すらない豪奢な部屋の中は、どうにも息がつまる。でも、ここから出ていく手段も当てもない。何を生み出すことも、誰かのためになることも無い。


 そんな虚しさばかりが募るこの箱庭の中で、これから死ぬまでずっと、何日も何年も、無為に無駄に無価値に生きていけと言うのだろうか。


「……っ」


 苛立ちにも似た焦燥感を覚え、肩にかけられた殿下の上着を乱雑に剥ぎ取ると、床に捨てようとして——手を止めた。


 この上着は、殿下の優しさの証だ。私を豪奢な箱庭の中に幽閉しておきながら、私の尊厳を尊重した、矛盾に満ちた彼の温もりそのものだった。


 それをあっさりと放り投げるには、私にもまた、彼に対する情がありすぎた。つい数日前まで未来の伴侶となるはずだった初恋の人に、ただ憎しみだけを向けるには、二人の間には優しい思い出が多すぎる。


 じわり、と両目に涙が滲んだ。


 悔しいような、やるせないような、表現しがたい苦しさが心を締め付けるのを感じながら、私は上着をソファーの背もたれにそっとかけて、薄寒い肌着姿のまま、一人ベッドへと向かったのだった。

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