第5話 氷長石の箱庭
「ん……」
程よい温もりと花のような香りの中、軽く身じろぎをする。
女神様の御許に召されたのかと思ったが、馴染みのある甘さを感じてその考えもすぐに取り払った。
ああ、私はどうやら死ねなかったらしい。
「っ……」
軽く体を動かした拍子に、右肩に鈍い痛みが走る。
そういえば、黒い外套を纏った男に剣で切り付けられたのだっけ。ぼんやりと逃走劇を思い出しながら、そっと瞼を開き、辺りを見渡した。
どうやら私は、広いベッドの上に横たえられているようだった。豪奢な天蓋からは、上品な深い青のカーテンが降ろされている。右肩には包帯が巻き付けられているようで、動かせば痛むが、じっとしている分には多少の違和感があるだけだ。
そのまま辺りに視線を向ければ、不意に、ベッドサイドに深い青のメイド服と白い仮面を着けた女性がいることに気が付いた。
立ち姿からして、年のころは私とそう変わりはないように見えるが、声もなく立ち尽くすメイドに驚きを隠せない。
「っ……ここは」
メイドは私の問いかけに答えることも無く、手に持っている布で私の腕を拭き始めた。どうやら、眠る私の体を清めている途中だったようだ。
布は温かい湯に浸してあったようで、とても心地が良い。彼女が私に危害を加える素振りがないことにも安心した。
だが、状況が掴めないことに変わりはない。意を決して私は仮面のメイドに問いかけてみた。
「あの……ここは、一体どこなのでしょうか……?」
この距離だ。当然声は届いていると思うのだが、メイドは一切の反応を示さない。彼女の沈黙に、どうにも落ち着かない気分になった。
私は真っ白な肌着姿のまま、ひとまず黙って体を清められることにした。あの逃亡劇の中で薄く汗ばんでいたせいもあって、さっぱりしたい気持ちはあったのだ。
銀の髪からは既に嗅ぎ慣れぬ花の香りが漂っており、私が眠っている間に器用に洗い終えられているようだった。
「……どうもありがとうございます。さっぱりしました」
メイドが一通り作業を終えたらしいことを確認して微笑みかけるも、仮面をつけているせいで表情一つわからない。淡々と職務をこなす彼女の姿は、どこか不気味でもあった。
「それで……あの、ここはどこだか教えていただけないでしょうか……?」
ベッドの周りを観察するに、まるで高位貴族の屋敷のような豪奢な部屋だったが、少なくともロードナイト公爵邸ではない。意識を失う直前まで、殿下と共にいたことは分かっているが、どうも王城の中というわけではない気がしていた。
メイドはやっぱり私の言葉に反応は見せず、無言で背を向けると、細やかな飾りが施されたクローゼットに向かってしまった。
私は白の肌着姿のまま、僅かに体を起こしてぼんやりと室内を見渡す。
調度品の所々に氷長石があしらわれているのか、爽やかで透明感のある雰囲気だった。カーテンやクッションなどには深い青があしらわれていて、部屋の空気によく調和している。
何より、氷や雪を思わせる色合いで統一されているにもかかわらず、どこか温もりを感じさせるのが不思議でならなかった。解放感のある大きな窓があるせいだろうか。
おとなしくベッドで体を起こしたままメイドの帰りを待っていると、間もなくして彼女は両手いっぱいにドレスを抱えて戻って来た。
だが、その色を見て、思わずびくりと肩を震わせてしまう。
「っ……それは……」
メイドが持ってきたのは、漆黒のドレスだった。細やかなレースが至る所にあしらわれていて、腰のあたりで結ぶ大ぶりのリボンからしても、喪服と言うにはどうにも華やかで美しいデザインであったが、私が気にしているのはそこではない。
肝心なのは、その色だった。聖女候補であったときの純白の衣装とは正反対の漆黒は、物心がついてから一度も身に纏ったことの無い色だ。
色自体がどうこうというよりも、「聖女は深い色の服を纏ってはいけない」という掟に縛られて生きてきた私にとって、そのドレスを身に纏うのはあまりにも大きな抵抗感があった。
メイドは、包帯が巻かれた私の右肩を気遣うような素振りを見せつつも、漆黒のドレスを纏うように促してきた。折角世話をしようとしてくれているのに申し訳ないとは思いつつも、これにはベッドの上で小さく首を横に振る。
「……っ無理です、着られません……。他の色はないのですか? せめて、白に近い淡い色は……」
メイドは何も言わなかった。ただ、手に持っている真っ黒なドレスを纏うよう機械的に促すだけだ。
彼女を半ば振り切るようにしてベッドから足を下ろすと、裸足のままクローゼットへ歩み寄った。初夏とはいえ、薄い肌着で歩き回るのは心許なかったが、背に腹は代えられない。
動かせる左手で、両開きのクローゼットの扉を片方ずつ開ける。繊細な花模様が描かれ、螺鈿が埋め込まれたクローゼットは美しかったが、それに見惚れている余裕はなかった。
「っ……」
クローゼットの中には2着ほどのドレスがあるだけだったが、そのどちらも夜の闇を切り取ったかのような黒だ。絹の光沢からして一級品であることは間違いないが、これを身に纏うことはどうしたって躊躇われる。
メイドは、私の傍に歩み寄ると、再び黒のドレスを着るように促してきた。彼女だって、仕事で私の世話をしているのだろうから、わがままを言って困らせてしまうのは憐れだと言うことは分かっている。だが、それでもこればかりは譲れなかった。
「分かりました……困らせてしまってごめんなさい」
私の言葉を受け、早速ドレスを着付けようとするメイドの手を、動く左手で包み込んでそっと下ろした。
「このままで、結構です。どうもありがとう」
これにはメイドも驚きを隠せなかったようで、戸惑うように肩が揺れる。メイドの反応は当然だった。
これでも私は公爵令嬢であり、年頃の少女でもあるのだ。そんな相手に、ドレスは要らない、肌着のままで結構だと言われれば、一般的な常識の中で生きている人ならば誰だってたじろぐだろう。まして、令嬢の世話に慣れていそうなメイドならば尚更だ。
困惑したような素振りを見せるメイドの手を取って、なるべく穏やかに笑いかけてみる。
「あなたの主に何かを言われても、私がわがままを言ったとお伝えください。この国では、私は偽りの聖女なのでしょうが……どうしても、掟は破りたくないのです」
呆れられてもおかしくない主張だということは私にも分かっていた。
だが、どれだけ常識外れだと罵られようが、譲れないものはある。私にとって、闇に魅入られると言う深い色の衣装を纏うことは、私を愛してくださった女神様への裏切りのように思えてならないのだ。
私は白い肌着のまま、再びベッドに戻った。肌着と言ったって、今、私が身に着けているのは、滑らかな絹で出来たネグリジェに近いもので、見ようによっては白いワンピースともとれる服だ。確かに裾は膝のあたりまでしかなく、腕や首周りの露出もあったが、そこまで際どい格好をしているというわけではない。
多少体は冷えるかもしれないが、それくらい耐えられる。私はベッドの上に腰を下ろすと、未だ困ったようにこちらを見つめるメイドに笑いかけた。
メイドはしばらく迷っていたようだったが、私の意思が揺らがないことを悟ると、黒のドレスをクローゼットに仕舞いこみ、リボンの飾りがついた黒の靴だけをベッド近くの床に揃えて置いた。私が裸足で歩いていることを気遣ってくれたのだろう。
「……ありがとうございます」
靴であっても掟に逆らう色を身に纏うつもりはなかったが、彼女の親切はこのところ疲弊していた心に温かく染み渡った。
やがてメイドはどことなく私を案じるような素振りを見せつつも、一礼をして部屋を出ていった。
完全に一人ぼっちになった部屋の中で、改めてベッドの周りを見渡してみる。
……本当に、ここは一体どこなのかしら。どれも見事な品ばかりだわ。
裸足のまま青の絨毯に降り立って、そっと調度品を確認してみる。どこかの家の家紋が刻まれていたりしないかと調べたが、そのようなものは見当たらない。
ならば、女神の印はどこにあるだろうか、と私は素足のまま歩きだした。王国アデュレリアの屋敷には、主たる部屋の中に簡易的に祈りを捧げるための女神の印や像があることが殆どだ。
これだけ立派な建物ならば、どこかにあるはずだ、と寝室を抜けて、続き部屋を巡った。
ちなみに、印を探す途中で、恐らくメイドが出ていったであろう扉を見つけたが、鍵がかかっているのか固く閉ざされており、彼女の後を追って様子を探ることは叶わなかった。
寝室と、それに続くリビングのような広い部屋、氷で出来たように涼やかな小さな広間。広間からは螺旋階段が続いており、二階に当たる部分には小さな書斎やアトリエらしき部屋があった。屋敷というよりは、小さな城と言った方が相応しい雰囲気だ。
だが、これだけ広いにもかかわらず、やはりどこにも紋はない。妙な作りだ。
寝室に続く部屋が主な生活空間の様だったので、もう一度紋章がないか確認するべく、部屋に戻って来た。
部屋の窓はまるで壁と言っても差し支えないほどの大きさで、私はその前に立って、一人小さく溜息をつく。ガラス張りの壁の向こうには、どうやらちょっとした庭が広がっているようだが、その庭を囲うように大きな塀が張り巡らされていた。
空はすっかり夜の闇に染まっているので、詳しい状況を知ることはできなかったが、ここはまるで大きな箱庭のようだ。小さな世界で何もかもが完結している印象を受ける。
何より、その箱庭の中に囚われているかのような息苦しさを覚えてならなかった。
……なんて、あながち間違いでもないかもしれないわね。
ここがどこであるか正確に把握することはできなかったが、部屋の中の調度品の質といい、仮面を着けたメイドを雇っていることといい、私をここに連れてきた人物が相当な権力者であることは確かだった。
回りくどい予想をしたが、端的に言ってしまえばこの箱庭の主は殿下なのだろう。どこか苦々しい思いを覚えながらも、私はガラスの壁に映る自らの姿を見つめた。
長い間眠っていたのか、聖女選定の日からうっすらと目元に出来ていた隈は随分薄れていたが、それでも惨めな姿であることに変わりはない。よく見れば、腰まで伸びた銀髪の一部が不自然に切れている。
……そう言えば、殿下に剣を突きつけられたのだっけ。
恐らく、その際に切れてしまったのだろう。首元には薄い切り傷が何か所かあったが、右肩の傷に比べればどうということも無かった。
痛みに敏感だったはずなのに、たった数日でここまで適応してしまうなんて。
自らの変化と適応力に、思わず皮肉気な笑みを浮かべた。聖女として何からも守られて呑気に笑っていた数日前が、まるで嘘のようだ。
初夏とはいえ、夜の闇に冷えたガラスにそっと指先を添えていると、ふと、リビングにある鍵のかかった扉がノックされる音が響いた。軽く佇まいを正し、一度だけ深呼吸をしてから入室を許可する。
「……どうぞ、お入りください」
やがてゆっくりと扉が開かれたかと思うと、その先から姿を現したのはやはり、想像通りの人物だった。
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