幕間1 共犯者たちの会合

 聖女選定の儀から間もなく一週間が経とうかという頃、王城のある一室では、ロードナイト公爵夫人ナタリア様と聖女コーデリア様、エリアル王太子殿下、そして神官長を務める私の四人が顔を合わせていた。


 話す内容は主に、刺客に襲われて亡くなったルーナ様の処遇についてだ。


「……どうやら、神殿で祈っている最中に襲撃を受けたようだ。遺体はとても見せられるようなものではなかった」


 殿下は、羊皮紙の束をテーブルの上にばさりと投げつけた。表紙から察するに、ルーナ様の死因や遺体の状況などが記されているらしい。


 気にならないと言えば嘘になるが、あの美しい聖女の末路が記されているのかと思うと、恐ろしくてとても手を伸ばせなかった。もしも悪戯に苦痛を長引かせるような仕打ちや、尊厳を踏みにじられるような扱いを受けていたら、と思うと、吐き気すら込み上げる。

 

「まあ、まあ、それは……きっと偉大なる女神アデュレリアの怒りを買ってしまったからなのでしょうね。美しく、女神に愛された姉を持ってしまったばかりに、嫉妬に駆られ、過ちを犯した彼女に同情しない部分がないと言えば嘘になりますけれど……」


 ナタリア様は、レースのハンカチを目元に添え、言葉通りの憐れみを表情に浮かべていた。聖女コーデリア様よりも濃い色のストロベリーブロンドの髪はきっちりと結い上げられ、深い赤のドレスを纏っている彼女は、流石はコーデリア様の実母と言った輝くような美貌の持ち主だ。


 だが、仮にも義理の娘であるルーナ様の遺体の処遇について話し合うと分かっているのに、赤いドレスを纏ってきた彼女には、どうにも不快感が込み上げる。私だって彼女を責められるような立場にないことは良く良く理解しているが、それでも表情が歪むのを止められなかった。


「……遺体はどうする」


 殿下は、あくまでも事務的に問いかけた。コーデリア様だけが母を気遣うようにナタリア様の背中を摩っている。


「どうか、グレイグの森に埋めてくださいまし。女神アデュレリアを始め、神殿と王家、そして愛らしいコーデリアに仇なしたあの娘には、似合いの土地です」


 グレイグの森とは、神殿や王家に対する重大な罪を犯した罪人が葬られている土地だ。ほとんどが処刑された者たちばかりで、大罪人の眠るその場所を、王国の人々は忌み嫌っていた。


「……いいだろう。彼女の遺体はこちらで処理しておく」


 殿下は淡々と了承した。仮にもつい一週間ほど前まで婚約者同然だった令嬢について話しているとは思えない冷淡な素振りに、思わず一人身を震わせてしまう。


「お母様……どうか泣かないでくださいませ。コーデリアがおりますわ」


 純白の聖女の装束を身に纏ったコーデリア様は、ルーナ様のような神聖さこそないが、誰の目に見ても美しく、母親を気遣うその姿には慈愛が満ち溢れていた。


 民の目を欺くには彼女でも充分だろうが、長年ルーナ様の姿を見守ってきた立場としては、やはり複雑な想いがあることは確かだった。


「コーデリア……ああ、あなたは何て優しい子なのかしら。女神様が愛するのも当然よ」


 ナタリア様は愛おしくてたまらないとでも言うように、コーデリア様を抱きしめた。温かな親子同士の触れ合いを、今ばかりはどうしても好意的に見守ることはできない。さりげなく二人から視線をそらしては、気づかれぬように小さな溜息をついた。


 王城とはいえ、ここはルーナ様を聖女の座から引きずり下ろした主犯格だけが集う部屋だ。ここではコーデリア様を聖女として扱わずとも、誰も疑問を抱かないはずなのだが、ナタリア様の態度は一貫している。


 それもそのはずだ。この四人の中でナタリア様だけは、本当にコーデリア様が聖女だと信じているのだから。一連の騒動自体、ナタリア様の思い込みを利用して起こったものだった。


 ルーナ様が聖女候補として扱われるようになってからしばらくは、ナタリア様もルーナ様を本物の聖女だと正しく認識していたはずなのだが、いつからか「ルーナはコーデリアの聖女の力を盗んでいる」という妄想に囚われるようになり、今までも定期的に神殿に対して訴えていた。もちろん、ルーナ様には悟られない形で。


 神殿も王家も、ルーナ様の力は目の当たりにしている。王国を蝕む災厄を言い当てた彼女は、既にそれだけでも聖女と崇められておかしくない存在だった。


 だからこそ、今までナタリア様のことなど相手にしてこなかったのだが、聖女選定の儀を前にして、コーデリア様と殿下が動き出したことで事態は一変した。


 相変わらず感情の読めない眼差しで羊皮紙の束を見つめるエリアルを見つめれば、一連の騒動が起こるきっかけとなった運命の日のことが鮮やかに蘇ってきた。




 遡ること今から2週間ほど前。


「当代は、コーデリアを聖女として迎えることにした。そのように計らってくれ」


 神殿中が聖女選定の儀に追われる中、突然殿下は私に命令した。


 いくら次代の国王の命令であっても、神の声と共にあるルーナ様を聖女の座から引きずり下ろすことなんて、もってのほかだ。聖女の次に女神に近い場所にいる王国アデュレリアの神官長としては、即座に拒否するべき申し出だった。

 

 だが、続く殿下の言葉に、私はこの申し出を受け入れざるを得なくなった。


「すぐに取り掛かってくれるな? 俺だって、偉大なる神官長様の罪なんて暴きたくないんだ」


 罪、その言葉に動揺を隠せなかった。思い当たる節が山とあったからだ。


 とはいえ、これだけならばただ鎌をかけられているだけかもしれない。あくまでも神官長らしい穏やかな笑みを意識して、殿下を見つめ返す。


「……罪、ですか。一体何のことやら——」


「――神殿の予算の着服、麻薬売買の仲介、人身売買の指示……どれもこれも明るみになれば、お前の遺体はグレイグの森に埋められる定めだろうな」


 殿下は意味ありげな笑みを見せながら、懐から取り出した数枚の羊皮紙をひらひらと揺らす。悪事の全てとは言わないが、この身を破滅させるには充分な証拠が揃っているようだった。


「ああ、お前の妻と娘は、西方の避暑地で静養しているんだったか? 最近は治安が悪いとのことだったから、俺の直属の部下が護衛に当たっているはずだが……」


 ぱっと、美しい妻と娘の笑顔が脳裏に浮かぶ。つい昨日も、避暑地で元気に過ごしているという手紙が届いたばかりなのだ。


 これには思わず身を震わせる。恐る恐る殿下を見上げれば、彼は恐ろしいほどの整った微笑みを浮かべて、流れるように美しい文字で綴られた一枚の手紙を見せつけた。それは紛れもなく、愛しい妻の筆跡だった。


「国からの手厚い配慮に、わざわざ感謝の手紙まで送ってくれた。綺麗な字を書く奥方だな?」


 暗に、妻と娘の命は殿下に握られているのだと悟るには充分に含みのある言葉だった。自分だけが破滅するならばまだしも、愛する妻と娘に何かあっては敵わない。


 数々の悪事に手を染め、不法に入手した大金と長年の静養のお陰で、娘はようやく病が生命に支障のない範囲まで治まったところなのだ。


 少しずつ外で過ごせる時間が増えてきたと、次に会ったときには家族三人でピクニックにでも出かけたい、と強請る娘の手紙は、一字一句違えずに記憶に刻み込んでいる。目に入れても痛くないほどに私は娘を愛していた。


 あの子の未来を奪わせるわけにはいかない。そのために、今までだって散々人の命と未来を踏みにじってきたのだ。


 覚悟が決まるのは一瞬だった。妻と娘の身を引き合いに出された時点で、答えは既に決まっていたと言ってもいい。


 私は女神よりも、真の聖女様よりも、愛する妻と娘の命を優先する、と。


「……承知いたしました。全ては、王太子殿下の仰せのままに」


 殿下がルーナ様を聖女の座から引きずり下ろしてまでコーデリア様を正妃に迎えたい理由も分からないままだったが、私はただ跪いて彼に忠誠を誓った。




 こうして私は、女神アデュレリアに背き、ルーナ様を聖女の座から引きずり下ろすことに決めたのだ。王家と神殿、そして王国でも影響力の大きいロードナイト公爵家が一丸となった目論見は、怖いほどに上手くいってしまった。


 このところ床に伏せっている国王陛下が、この一連の騒動の真相をどこまで知っているのかは分からない。聖女選定の儀にも体に鞭打って出席していたようだから、恐らくは真相を知ったところで王太子殿下を諫めるだけの力も、もう残されていないのだろう。


 次代の国王は恐ろしい人だ。殿下の深緑の瞳を盗み見ては、再び身を震わせた。

 

「……話は以上だ、失礼する」


 殿下は退屈そうに息をつくと、ソファーから立ち上がり、さっさと扉の方へ歩き出してしまった。慌ててナタリア様とコーデリア様が礼をするが、私は思わず殿下の背中を追ってしまった。


「王太子殿下」


 人気のない廊下で、殿下を呼び止める。午後の柔らかな日差しが差し込む、開放感のある廊下だが、殿下を前にすると身の毛のよだつような寒気ばかり覚えてしまう。


 殿下は、返事の代わりに深緑の眼差しをこちらに向けた。まるで無機物を見るような何の感動もない瞳に、ただただ怯えばかりが募っていく。


「っ……偽りの聖女は——ルーナ様は、本当にお亡くなりに……?」


 娘の治療費のために散々悪事に手を染めてきた悪人である自覚はあるが、ルーナ様のことは心から好ましく思っていた。愛する娘と同じ年頃ということもあり、いつでも真摯に女神に祈りを捧げる美しい聖女を、まるで父親のような心地で見守っていたこともある。


 愛する妻と娘を引き合いに出されれば何も言えなくなってしまうが、それでもルーナ様を気にかけていたことは確かなのだ。


 そのルーナ様が、この策略によって命を落としただなんて信じたくない。もしも彼女が路頭に迷うようなことがあれば、こっそりと保護して、妻や娘の話し相手として匿うつもりでいたのに。


 先ほどのあの羊皮紙の束は、偽りの公文書なのだと言ってほしい。


 だが、殿下はどこか面白がるように、微かな笑みを見せる。全てを見通すような彼の眼差しを前に、生きた心地がしなかった。


「ああ、殺したよ。俺が、この手で」


 物騒なことを言っているのに、恍惚さえ思わせる殿下の笑みは、あまりにも不吉で、美しかった。


「そう、ですか、殿下が……」


 刺客に襲わせたという話すらも嘘だったのか。自ら手にかけるほど、殿下はルーナ様のことを恨んでおられたのだろうか。


「ああ、だから聖女の力が他国に渡るようなことはない。安心しろ」


 違う。そんなことを心配していたわけじゃない。こんなことになるくらいならば、女神とこの国を売ってでも、他国で生き延びていてほしかったのに。


 ……昔は神殿の庭で二人で笑い合う、可愛らしいお二人だったはずだ。一体何があったというのだ。


 蘇るのは、陽だまりの下で笑い合う幼い殿下と短いベールを纏ったルーナ様の姿。お互いに自分に課せられた使命に燃え、互いに助け合おうと約束していたお二人の姿はとても微笑ましく、また、将来が楽しみに思えたものだ。


 ……このお二人が国王と王妃となって導く国ならば、この王国は一層民の笑顔が溢れる国になるはずだと思ったのだがな。


 いつから二人の間に歪みが生じていたのだろう。最後まで気づかなかった自分の不甲斐なさを呪いながら、ただ俯くことしか出来なかった。


「エリアル殿下!」


 ふと背後から可憐な声が響いたかと思うと、純白の衣装を纏った当代の聖女が駆け寄ってきた。彼女は殿下の腕に絡みつくように体を寄せると、大きな琥珀色の瞳を瞬かせて、甘えるように殿下を見上げる。


「もう、ひどいですわ! お話の後は、わたくしとお庭を散歩してくださる約束でしたのに。今日こそ、殿下がお育てになっている小鳥の様子をお聞かせくださいな!」


 ついこの間婚約式を終えたとはいえ、不躾なほどに密着するコーデリア様に対して、殿下は振り払う素振りも見せない。それどころか、小さく頬を緩めて彼女の登場を歓迎しているような様子だ。


「ああ、そうだったな。庭へ行こうか。早く二人きりで話がしたい」


 コーデリア様の耳元で甘く囁くような殿下の声は、ルーナ様を殺したと言い切った時とはまるで別人のように思えた。


 つい先ほどまで二人は、ルーナ様の遺体の処遇について話し合っていたはずだ。誰より清廉で、敬虔な信者だったルーナ様の遺体を、女神に仇なした大罪人ばかりが眠る土地に葬ると言う非道な決定をしたばかりなのに、二人の間に漂う甘い雰囲気はそれを微塵も感じさせない。


「っ……」


 吐き気がした。自分だって悪人で、妻と娘の命のために罪なき人を見殺しにした大罪人だということは分かっているが、後悔一つ見せない王太子と偽りの聖女の姿に、なぜだか悔しくて涙が出そうだった。


 あの二人が、この国で最も清らかとされる恋人同士なのか。


 聖女は、王家に嫁いでも子供を産まないのが通例だ。御子を産む役目は、名家から嫁いできた側妃が担う。聖女と国王は、強い心の繋がりで結ばれた特別な関係だからこそ、この世で最も尊く清らかな恋人同士だと謳われるのだ。


 だが、この二人を見ている限りでは、コーデリア様を聖女として迎える必要があったのか、という疑問が湧いてきて仕方がない。普通の恋人同士のように仲睦まじく過ごしたいのならば、聖女ではなく、側妃として王家に嫁ぐべきだったのではないだろうか。


 もちろん、名誉や権力といった面では、あくまでも正妃である聖女の方が側妃よりもずっと上だ。歴史に名を遺すのだって、殆どが聖女ばかりだろう。


 その名誉を求めるばかりに、彼らは、あの美しく儚い聖女を堕とすことに決めたのだろうか。


 ……だとしたら、近いうちにこの国に女神の裁きが下ってもおかしくないな。


「では御機嫌よう、神官長。次の儀式でまた会いましょうね」


 ベールをつけることも無く、鮮やかなストロベリーブロンドの髪を揺らして、コーデリア様は殿下と共に私の前から去っていった。仲睦まじく腕を組む二人の後姿に、目頭が熱くなるような後悔に溺れる。


 分かっている、自分に、彼らを責める権利などないことくらい。私だって紛れもなく、彼らの共犯者なのだから。


「……私たちは、大変な間違いを犯してしまったのですね、ルーナ様」


 青く澄み渡った空を見上げて、震える声で一人懺悔した。許しを請うことすら憚られるほどの罪悪感に胸を締め付けられながら、私もまた、陽だまりに背を向けて歩き出す。


 ……願わくば、あの美しく清廉な聖女が、女神の御許で幸福に暮らしていますように。


 そんなささやかな祈りだけが、今の私に許されたルーナ様への贖罪だった。

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