第7話 銀の聖女の反抗

 殿下に得体の知れぬ離宮らしき場所に閉じ込められてから、二日が経とうかという夜。


 私は窓辺に跪くようにして、指を組み、女神アデュレリアに祈りを捧げていた。


 女神様のお声をお聞きするには、どうやら礼拝堂の中であることが必須条件らしく、こうして祈っていても女神様のお声は聞こえないのだが、祈らずにはいられなかった。


 今までであれば、王国の安寧とアデュレリア王家の繁栄を願っていたところだが、前者はともかくとして、後者に関しては、生憎今はそんな気持ちは湧き起こらない。


 だから、今私が心に想っているのは、王国の安寧と、自分自身のための祈りだった。


 王国アデュレリアの民が、いつまでも平穏に暮らせますように。


 そして、一刻も早く、私を女神様の御許に連れて行ってください、と。この二つの祈りをただひたすらに繰り返している。

 

 右肩を負傷しているせいで、右手は上手く力が入らないのだが、その分左手は爪の痕が残るほどに強く指を組んだ。


 塀に囲まれた小さな離宮の中からでも、星空と月を眺めることはできる。私は祈りの合間にそっと瞼を開きながら、ぼんやりとここでの生活を思った。


 この部屋の中で私に求められることは、何も無い。ただ、殿下に飼い殺されるだけの日々だった。


 初めてここで殿下にお会いした翌朝には、クローゼットの中には灰色や薄緑、水色などと言った、淡い色調のドレスが増えていた。これも聖女の掟に照らし合わせれば褒められた色合いではないのだが、漆黒や鮮やかな赤、目の覚めるような青色に比べればいくらか抵抗感がない。


 恐らく、黒いドレスだけを用意していると私がいつまでも肌着のままで過ごすとお思いになったのだろう。これは恐らく殿下なりの譲歩なのだ。


 自分を捕らえた相手に気を遣われると言うのも何だか腹立たしい話であるが、私とて好きで肌着姿で過ごしたいわけではない。


 仕方なく、それ以来灰色のドレス姿で過ごすことにした。水色でも良かったが、今の私の気分にはとてもじゃないがそぐわない色であったし、殿下の瞳を思わせる薄緑はもっと嫌だった。


 この国では、恋人の瞳の色のドレスを好んで着る風習がある。コーデリア姉様という恋人がいる以上、殿下もそれを意識して緑を選んできたわけではないと思うのだが、私の心境としてはとても身に着けられなかった。何なら今となっては、黒や赤と同じくらい緑も嫌いだ。


 殿下が何を思って私をここに閉じ込めているのかは知らないが、絶対に彼の所有物になどなるものか。聖女候補でも公爵令嬢でもないこの空間では、私は一人の16歳の少女でしかないのだ。こちらにも人間としての尊厳がある。


 その意思を示すべく、私は初めてこの離宮で殿下に会った時以来、彼と言葉を交わしていなかった。初めこそ王族である彼の言葉を無視することに多少の戸惑いを覚えたが、日に日に募る怒りがその躊躇すらも掻き消してくれた。


 そしてもう一つ、この二日ほど私が頑なに拒んでいるものがある。


 傍に寄って来たメイドの気配を感じて顔を上げれば、彼女は談話室のテーブルの上に置かれた軽食らしきものを私に勧める素振りを見せた。ティーセットとスープ、焼き立てのパンが用意されているようだ。


 僅かに漂ってきた良い香りに食欲をくすぐられるも、半ば意地になって耐えた。メイドから顔を背け、私は今一度祈るように指を組む。


「……せっかく用意してくださったところ申し訳ありませんが、結構です。あなたやあなたのお仕事仲間の皆さんで召し上がってください」


 想像以上に枯れたような自分の声に驚いた。それもそのはずだ。少なくともこの二日ほど、私は食事も水も口にしていなかった。


 食事はともかくとして、水に関してはそろそろ生命を維持する限界が見えてくるころだ。右肩を負傷していることもあり、余計にこのところは体に力が入らなかった。朝、窓辺に祈るように跪いたら、メイドの手を借りて夜ベッドに移動するまでほとんどの時間を、こうして祈りながら過ごしているのだ。


 空腹も渇きも、正直悲鳴を上げたくなるほどつらい。だが、このまま続ければいつかは私は女神の御許に召されることが出来る。このままこの離宮で訳もなく生かされる辛さに比べれば、この苦しみにも耐えられる気がしていた。


 ある意味これも自死を試みていると言えるのかもしれないが、王国の長い歴史の中では、戦に巻き込まれる民を想い、食事もとらずに礼拝堂に籠って祈りを捧げ続けた聖女が、衰弱して女神のもとに召された記録がある。褒められた行いではないが、血を見るような自死を試みるよりはずっと、聖女として望ましい死に方であるはずだった。


 ……いつまでも国の皆が平穏に、平和に、笑顔と共に暮らせますように。


 閉じ込められてまで民の平穏を祈っているだなんて、偽善者と呼ばれても仕方がないような気はしていたが、殿下やコーデリア姉様に笑われようがどうでもよかった。


 聖女選定のあの日、理由はどうあれ王家と神殿は女神様を欺いた。


 ……それが女神様の怒りに触れるきっかけとなって、民が不利益を被るようなことにならなければいいのだけれど。


 私がこの世界に残す懸念があるとすれば、ただその一つのみだった。こうして私が祈ることで、民が苦しむ可能性を少しでも減らせるのならば、命が尽きるまで祈り続けよう。


 ……かつては殿下だって、何よりも民を大切に想うお方だったはずなのに。


 民が笑って暮らせるような王になるのだと、朗らかに笑っていた殿下の顔がもうよく思い出せない。本当に民のことを思うのならば、いくらコーデリア姉様を正妃に欲したからと言って、こんな身勝手な真似は出来ないはずなのに。

 

 何が彼をここまで変えてしまったのだろう、と祈りの合間に再び夜空を見上げた。夜空の青みがかった黒は、殿下の髪色を思い起こさせるから、星空までも嫌いになってしまいそうだ。


「ルーナ……またそんなところに座り込んでいたのか」


 背後から響き渡った聞きなれた青年の声に、びくりと肩を震わせる。いつの間にいらしていたのだろう。


「怪我もまだ治っていないだろう。おとなしくベッドで横になっていろ」


 私を気遣うような声を、背中で受け流す。その心配は、どういう気持ちで私に向けているものなのだろう。私を聖女の座から引きずり下ろしておきながら、憐れむことのできるその神経がどうにも腹立たしくてならなかった。


 この二日ほどそうしているように、私は彼の言葉に沈黙を決め込んだ。それどころか振り返りすらもしないのだから、王族に対する礼儀としては最低と言ってもいい。


 不敬だと言って首を跳ねてくれるものなら、むしろ満面の笑みでお礼を言って差し上げるところなのだが、生憎彼は私を殺そうとはしないのだ。その事実にまた苛立ちを覚えながら、ぼんやりと外の世界を眺めた。


「……ルーナ、もしかして、また食事を摂っていないのか?」


 茫然とした殿下の声に、また咎められるのかと思うとうんざりしてしまった。私がこのところ食事を摂っていないことは、当然ながらメイドから報告が行っているらしく、毎回毎回叱るようなお言葉が投げかけられるのだ。


 その心配が腹立たしいのだと、なぜわからないのだろう。私をここまで追い詰めておきながら、どうして怪我を治せと、食事を摂るようにと小言を言ってくるのだろう。


 初恋の相手とはいえ、ますます嫌いになってしまいそうだ。こんな場所にわざわざ足を運ばずに、コーデリア姉様と楽しく仲良く過ごしていればいいのに。


 早く出て行ってくれないかしら、と心の中で悪態をついていると、不意に殿下の手が私の左肩に伸び、彼と向き合うように腕を引かれた。


 滅多に感情を表さないはずの彼は、深緑の瞳に確かな怒りを湛えていた。


 ……冗談もほどほどにしてほしいわ。あなたに私を心配する権利などないのよ。


 私の左肩を掴む彼の手が不快で振りほどこうとするも、私の力では到底敵わなかった。代わりに睨むように彼を見上げるも、彼も彼で引く様子がない。


「……俺に対する反抗のつもりか? 聖女様は思ったより稚拙なことをなさるんだな?」


 どうとでも言えばいい。ここから逃げられるのならば、何だってするつもりだ。彼への怒りの前では、挑発するような言葉も、射竦めるような眼差しも、不思議と気にならなかった。


「……今すぐ食事を摂れ。これは命令だ」


 その言葉には、彼にしては珍しいほどの横柄さを含まれていた。相当私に苛立っているらしい。


 だが、ここで頷くわけにはいかない。みすみす死なせてくれるかは分からないが、彼に屈するつもりはなかった。


 言葉の代わりに、睨み上げるように彼を見返せば、深い緑の瞳が揺れる。やがて彼は口元にどこか自嘲気味な笑みを浮かべたかと思うと、深い黒の上着から、護身用らしき飾り鞘に収まったナイフを取り出した。


 これには多少ながら怯んでしまったが、痛みに耐えれば女神の御許に召されることが出来るかもしれない。一思いに、私のことなど殺してくれた方がずっといい。


 その切っ先が私に向けられることをむしろ歓迎するように殿下を見つめていたのだが、彼は何を思ったのか、私たちの傍に控えていた仮面のメイドの前に歩み寄ると、乱暴な仕草で彼女を押し倒し、その白い首筋にナイフを当てた。


「っ……何を!」


 これには思わず枯れた声で叫んでしまう。ふらつく体で彼らの元へ駆け寄ろうとするも、殿下が彼女の首元に一層ナイフを突きつけるのを見て思い留まった。


「……もう一度言う。今すぐ食事を摂れ。従わないのならばこのメイドを今ここで殺す」


「っ……なんてことを……」


 かつて優しい少年だったはずの殿下の行動とは思えぬ所業に、息を呑んだ。


 倒れた拍子に仮面が外れてしまったのか、私は初めてメイドの素顔を目にしていた。右半分が火傷の跡のような傷で爛れているが、予想通り私と同じか、あるいは少し年下にも見えるあどけない少女が、赤色の瞳を目一杯見開いて怯えている様に言葉もない。


「聞こえなかったか? 早くしろ」


 殿下が一層メイドの首元にナイフをあてがったせいで薄く皮膚が切れたのか、赤い血がぽたぽたと零れ出していた。声も上げず痛みに耐えるようにぎゅと目を瞑った少女を前に、私は咄嗟に叫んでいた。


「っ……食べます! 食事を摂りますからどうか、そのメイドをお放しください!!」


 殿下はそれでも尚ナイフを放す素振りを見せない。私はふらつくような足取りのまま、テーブルに駆け寄り、食事のたびに欠かさなかった女神様への祈りも省略して、パンをスープに浸して口に運んだ。


 久しぶりの食事だ。美味しくないわけがなかったが、たった今目の前で同年代の少女を殺されそうになった恐怖と、結局殿下の命令に逆らえなかった情けなさから、ぽろぽろと涙が零れてきた。


 泣いているせいか、食事の味はすぐに分からなくなってしまった。視界もぐちゃぐちゃになって、美しく切られた野菜の形すら見えなくなる。


 結局食事を詰め込み終えるまで、殿下がメイドを放すことはなかった。監視されているような空気感の中で摂る食事が美味しいわけがない。


 最後の一口まで綺麗に平らげて、ぐずぐずと泣きじゃくる私の前に、殿下はゆっくりと歩み寄ってきた。彼の顔を見上げる気すら起きない。


「次、同じことをしたら問答無用であのメイドを殺す。それから、女神に祈るのもやめるんだ。祈っている姿を見る度に、あのメイドの指を一本ずつ落とすぞ」


 脅迫以外の何物でもない言葉に、余計に涙が溢れてきた。


 この人は、私をどうしたいのだろう。怖くて恐くて仕方がない。今のところ私に暴力をふるうような素振りがないことに安心していたが、メイドの命を何とも思っていないような彼の振舞を見た今、それも時間の問題のような気がしていた。


「なぜ自分がこんな目に遭うのか……とでも考えているのか?」


 殿下が私の顔を合わせるように屈みこむのが分かった。頬に触れた彼の指が、涙を奪っていく。


「……すべては、女神アデュレリアのせいだ。恨むなら、女神を恨むんだな、ルーナ」


 ……この仕打ちが女神様のせいですって?


 思えばコーデリア姉様も似たようなことを言っていた。彼らがこぞって口にするからには何か理由があるのかもしれないが、今はそれよりも目の前の彼への怒りと憎しみでどうにかなりそうだった。


「……あなたなんて嫌いよ。大嫌い」


 彼を睨み上げながら震える声で告げれば、歪んだ視界の中、ほんの一瞬だけ彼の瞳が揺らいだ気がした。やがて、口元に自嘲気味な薄い笑みを浮かべる。


「……元より君に嫌われる覚悟の上で起こした行動だ。俺のことはどう思ってくれても構わない」


 言葉のわりに、その声はどうにも切なげだった。


 これには私も多少ながらたじろいでしまう。私を前にして一体何を思えばそんな切ない声が出るのだ。彼の心の内が全く見えない。


 頬に触れた彼の手を叩き落すように振り払い、顔を背ける。これ以上彼と言葉を交わしていたくなかった。


「……なるべく栄養のある食事を出させるようにする。ちゃんと食べて、早く怪我を治せ」


 その憐れみすら腹立たしいのだと、言葉にして言って差し上げればよかっただろうか。


 間もなくして殿下が部屋を後にした気配に、私は机に突っ伏して悔しさとやるせなさから再び涙を流した。こんな風に中途半端に憐れまれるくらいならば、いっそ傷つけられた方がマシかもしれない。


 そうすれば私は、彼への恨みだけを糧に息をすることが出来るのだから。


 女神様へ祈ることすら禁じられ、縋るものすらなくなってしまった。その喪失感に、私はまるで子供のように声が枯れるまで泣き続けたのだった。 

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