幕間2 ある「恋人」たちの密談

 薄暗い夜の談話室。揺らめく燭台の光の傍で、当代の聖女コーデリアは波打つストロベリーブロンドの髪を揺らして、手にしていた羊皮紙の束を投げ捨てた。


「……ちゃんと読んだのか?」


 豊かな胸を揺らすようにして伸びをする彼女を前に、思わず苦言を呈してしまう。何のためにこんな時間に呼び出したと思っているのだろう。


「まあ、大体予想していたことばかりね。お母様ならやりかねないと思ったわ」


 コーデリアがテーブルの上に投げ捨てた羊皮紙の束は、祝宴会の夜、ルーナを襲った刺客たちについて調査した結果が記されているものだ。明確な証拠を掴むことはできなかったが、捕らえた男たちを拷問にかけたところ、一人だけナタリア・ロードナイトの名前を出したらしい。


「お母様はルーナのことを毛嫌いしていたもの。ああ、本当に可哀想なルーナ」


 コーデリアは含みのある笑みを浮かべたかと思うと、ちらりとこちらに一瞥をくれた。琥珀色の瞳には揺らめく蝋燭の炎が移り込んでいて、悪戯っぽく輝いて見える。


「お前がよく言うよ、あれだけルーナのことを追い詰めたくせに」


 思わずこちらも反撃すれば、コーデリアはくすくすと華やかな笑い声を上げた。社交界の男たちは、彼女のこういう笑みに心を奪われているのだろうな、と納得できる程度には美しかった。


「あらあら、あなたには言われたくないわ。……悪い王子様。私欲のために、本物の聖女を引きずり下ろしてしまうなんて」


 コーデリアは俺のいる執務机に軽く腰掛けたかと思うと、長い人差し指を俺の頬に這わせて滑らせた。


 聖女とはいえ王族に気安く触れるその度胸は気に入っている。傍から見れば、さぞかし色気のある仕草なのだろう。


「どうとでも言え。何もかも今更過ぎる話だ」


 そう、何もかも今更なのだ。ルーナは聖女の座から引きずり降ろされ、表向きには亡くなったことになっている。


 既に戦いの火蓋は切られた。もう後戻りはできない。


「うふふ、わたくしったら、傾国の美女ね。悪い王子様を誑かす悪女の気分よ」


 執務机に寄りかかりながら優雅に足を組むコーデリアは、ルーナと同じ聖女の装束を纏っているはずなのにどうにも妖艶だった。異母姉妹でここまで雰囲気が違うものか、と考えて、遠い記憶の中にいるルーナの実の母君の姿を思い起こした。


 ルーナの実の母君、ステラ様と会ったのは一度きりだ。俺も物心がつくか否かという時期だったから、彼女に纏わる記憶は酷く朧気だが、ルーナと同じ銀の髪と、雪色の瞳が美しかったことだけはよく覚えている。聖女でも何でもないはずなのに、どうにも神聖な雰囲気のある人だった。


 今のロードナイト公爵夫人であるナタリア夫人とは随分雰囲気が違う。ナタリア夫人も人の目を引く華やかな美貌の持ち主だが、ステラ様のような清廉さはなかった。コーデリアよりも鮮やかなストロベリーブロンドの髪に、輝く琥珀色の瞳は、清廉さよりも鮮烈さを思わせる美しさだ。


 ステラ様は、当時公爵の愛人に過ぎなかったナタリア夫人に、ルーナよりの年上の子どもがいると知った衝撃をきっかけに床に伏し、そのまま帰らぬ人となってしまった。もともと子供が産めるかと心配されたほどか弱い人だったようだから、心因的な負担は大きかったのかもしれない。


 俺がステラ様とお会いしたのは、彼女が既に床に伏しているときだった。ルーナがどうやら当代の聖女候補であるらしいと発覚し、将来のルーナの伴侶となる身として、俺はステラ様に挨拶に行ったのだ。


 ――殿下、ルーナのことをよろしくお願いいたしますね。悪戯好きで、見かけのわりに激しいものを抱えている手のかかる子ですけれど、一度好きになったものはずうっと好きな一途な子ですのよ。きっと、殿下のことも好きになりますわ。


 ルーナとよく似た鈴の音のような可憐な声で、ステラ様は言った。


 正直、聖女候補として生きていたルーナは、ステラ様の言うような激しい感情を持ち合わせている子には見えなかったが、ルーナを離宮に閉じ込めて初めて、ステラ様の言葉の意味が分かった気がする。


 清廉で、女神と見紛う神聖さを纏うルーナが、雪色の瞳に怒りの感情を燃やしていた姿は、やけに鮮烈に目に焼き付いていた。堂々と肌着のまま俺の前に姿を現し、自決命令を出せ、と言い切った彼女は、痛々しくて美しかった。

 

 なんて、口にしようものなら今のルーナにはゴミでも見るような目で睨まれてしまうのかもしれない。このところ一言も言葉を交わしてくれない辺りも、彼女の怒りの深さを伺わせた。


 無理もない反応だ。彼女を聖女の座から引きずり下ろし、彼女の異母姉と婚約を結んだ俺に、訳も分からぬ離宮に閉じ込められ、彼女の拠り所である祈りすらも封じられているのだから。


 これで愛想よくにこにこと微笑まれたら、いよいよ心配になる。何より、ルーナにあのように怒るだけの熱と感情が眠っていたことが嬉しかった。


「傾国の美女、か」


 多分、それはどちらかと言えばルーナの方が相応しいだろう。彼女は今頃離宮で安らかな寝息を立てている頃だろうか。


「お前はまさに聖女に相応しいと思うぞ。欲を言えば、もう少し貞淑な振舞をしてほしいところだが」


 執務机に寄りかかる彼女の顔を覗き込むように身を乗り出せば、コーデリアはにいっと妖艶な笑みを見せた。


「あらあら王子様、聖女の色気に当てられてしまったの?」


「当てられてはいないが不思議には思っている。同じ衣装でどうしてこうもルーナとの違いが出るのか、と。やはり母親の違いなんだろうか」


「あるいは偉大なる女神様を愛しているか否か、の違いじゃないかしら? うふふ、女神様はどんなお気持ちかしらね? 大切な愛し子を悪い王子様と悪女に奪われてしまって」


 腸が煮えくり返っているといいわねえ、と笑いながら、コーデリアは聖女の装束の中に忍ばせた小さな貝殻のペンダントを大切そうに握りしめていた。思えば彼女はいつだってそれを身に着けている気がする。公爵令嬢である彼女が着けるには、あまりにも粗末な品だ。


「……その貝殻に何か思い入れでもあるのか?」


 女神の話題が出れば、コーデリアは決まってその貝殻に触れていた。何か女神との因縁のある品なのだろうか。


「まあ、ね。私が女神のことを大嫌いになったきっかけの品よ」


 いつでも華やかな笑みを見せるコーデリアの横顔が、この時ばかりは翳って見えた。華やかな彼女にこれだけの表情をさせる何かがあるのだろう、その貝殻には。


「ふふふ、婚約者の過去が気になるの? 王子様」


「いや、やめておこう。お前にそれだけの表情をさせる重い話なんて、今は御免だ」


「あらあら、お優しい王子様ね。深い愛を感じて涙が出そうだわ」


 言葉とは裏腹に笑うように告げたコーデリアは、もう一度だけ切なげに貝殻を眺めたかと思うと、ペンダントを服の下にしまった。


「さて、そろそろお開きにしましょうか。明日もあなたとの結婚式に向けての準備に追われるんだもの」


「……任せきりにしてしまって悪いな」


「ふふ、別にいいのよ。あの子と違って私は女神に進んで祈るわけでもないし、案外暇なの。それに、結婚式の準備はすべての乙女の心を躍らせるものよ」


「すべての乙女の、か……」


 コーデリアは執務机から一度離れたかと思うと、今度は俺に向き直るようにして、ずい、と身を乗り出して机の上で肘をついた。


「可哀想なルーナ。あなたとの結婚式を楽しみにしていたでしょうにねえ」


「……どうだろうな」


 彼女は楽しみにしてくれていたのだろうか。幼い頃は良く笑い合った記憶があるが、ここ数年、ベール越しに見る微笑みは誰にでも向けるような慈愛に満ちたもので、俺に対する特別な熱など微塵も感じなかった。


 大した関心もない俺に、離宮に囲われている現状は、ルーナにとってはさぞかし不気味で仕方がないのだろう。どうにも憐れだが、この結末を辿ることにしたのは自分なのだと言い聞かせ、薄い笑みを浮かべた。


「まあ、わたくしがあの子の代わりに目一杯華やかな花嫁になって差し上げるわ。ふふ、歴史に残る悪い王子様と悪女の結婚式よ。楽しみだわ。……ああ、式場で祭壇に唾を吐いてやろうかしら!」


「それは見ものだな」


 聖女とされるコーデリアが祭壇に唾を吐く場面を想像して、ふっと笑えて来てしまった。女神を敬うこの国では、どれだけの騒動になるだろう。


「あなたも大概、女神様のこと嫌いよねえ」


 コーデリアは再び伸びをして机の前に立つと、純白の聖女の装束を摘まんで、大袈裟なほどに恭しく礼をした。


「それでは御機嫌よう、エリアル王太子殿下。女神アデュレリアの祝福がありますように」

 

 演技とはいえ、ちゃんとすればそれなりに聖女らしく見えるのがコーデリアの見事なところだ。思えばルーナを聖女の座から引きずり下ろす決定打となったあの演説もなかなかだった。


「ああ、当代の聖女に、偉大なる女神アデュレリアの祝福を」


 お互いに皮肉たっぷりに言いあえば、どちらからともなくすくすと笑い合い、今度こそ別れる。


 コーデリアが去り、静寂が訪れた執務室の中、この目論見はどこまでうまくいくだろうか、とぼんやりと考えた。


 だが、どれだけ思いを巡らせても不安が募るばかりで、俺はコーデリアに倣って軽く伸びをしてみた。少し気分が切り替わる気がする。


 ひとまず俺がすべきことは、明日、ルーナが食べるレモンケーキを手配することだ。


 クリスにルーナの好みは既に伝えてあるが、一朝一夕で作れるようにはならないだろう。しばらくは俺が用意する必要がありそうだ。


 ……それにしても、ケーキを食べているルーナの表情、可愛かったな。


 まるで幼い頃のルーナが戻って来たかのような錯覚に陥るほど、とても無邪気な表情だった。甘いものに慣れていないのか、ケーキを食べる度に新鮮な反応を示すのが狂おしいほどに愛らしかったのだ。


 多分、俺と会話している上では、未来永劫あんな表情で笑ってくれることはないのだろうが、それでもこうして見守れるだけ幸せだ。


 もっとも、これが彼女を監禁している人間の思考なのかと思うと、我ながらあまりの気色悪さに寒気がする。ルーナはさぞかし怯えているだろう。


 怯えでも怒りでも何でもいい。彼女の見せる些細な変化すべてが可愛くて仕方がなかった。


 俺のことなど、どう思ってくれても構わないのだ。あの小さな箱庭で、明日も彼女が息をしていてくれるのなら、もう、それでよかった。

 

「……ルーナ」


 椅子の背もたれに寄りかかりながら、軽く目を瞑ってルーナの姿を思い描く。


 どう思ってくれても構わないと言う割に、こうして瞼の裏に描く彼女の姿は、俺に満面の笑みで笑いかけてくれる妄想の中の彼女なのだから、我ながら救いようがない。


「……そんな日は、もう二度とこないのにな」


 少しだけ惜しむような気持ちを噛みしめながら、俺は一人自嘲気味な笑みを浮かべた。


 せめて夢の中では、彼女が自由に外の世界を駆けまわれていますように、と祈りながら、使用人を呼び寄せる呼び鈴を鳴らす。


 とにもかくにも、彼女が好んで食べたレモンケーキの手配を頼まなければ。夜も更けていたが、ルーナのことを思えば、眠気よりも満ち足りた想いのほうがずっと強かった。

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