第9話 檸檬色のお茶会
その翌日。
普段は夕食を終える時間帯にしか顔を出さない殿下が、珍しく昼下がりに離宮を訪れた。
国王陛下の体調が優れない今、殿下が処理しなければならない仕事は山ほどあるだろうに、こんなところへ足を運ぶ余裕があるのかと嫌味を言って差し上げようかと思ったが、言葉を交わすのも嫌だった。
殿下は食堂でお待ちです、というガーネットの言葉に促されるようにして、私は灰色のドレス姿で渋々食堂へ向かった。
昼食はちゃんと食べたというのに、また何か小言を言われるのだろうか。考えるだけでうんざりしてしまう。
とはいえ、ここで逆らってまたガーネットを人質に取られるのは嫌なので、大人しく従っておいた方が得策だろう。食堂の扉の前で一度だけ呼吸を整えてから、ガーネットの案内のままに食堂の中へ足を踏み込む。
「……ルーナ」
一体何の用だろうか、と思ったが、食堂のテーブルの上にずらりと並べられた数々のケーキを見て思わず目を瞬かせてしまった。
「ルーナ……怪我の具合はどうだ?」
殿下は私の姿を認めるなり、椅子から立ち上がってエスコートする素振りを見せた。以前ならばときめいたところであるが、今は彼のこの紳士的な振舞も心の奥底に隠された思惑が見えないだけに不気味で仕方ない。
令嬢としてはあるまじきことであるが、殿下が私に手を差し出す前にさっさと歩いて、用意されていた椅子に着席した。ガーネットが困ったように笑った表情が横目に見えて、それには少しだけ心が痛む。
殿下は小さく息をついて、そのまま席に戻ろうとした。だが、その途中でガーネットが仮面をつけていないことに気づいたらしく、深緑の瞳を僅かに見開いて彼女に問いかける。
「……ガーネット、仮面はもういいのか」
「はい。お嬢様は私のこの火傷の痕を受け入れてくださいましたから。オパールのことも、クリスのこともです」
「そうか……」
殿下は短く答えた後、僅かに嬉しそうに口元を緩ませる。そんな表情をさせるために、ガーネットと仲良くなったわけではないのに。
彼らと打ち解けたことに後悔はないが、殿下の顔を見ていると、どうにも苛立って仕方がなかった。
「……昨日はすまなかったな」
殿下はガーネットの首元を見て、小さく謝罪する。公で見るときよりもいくらか柔らかい雰囲気に、殿下とガーネットたちの絆は本物なのだと思い知らされた。
「平気です。お嬢様がこんなに丁寧に手当てをしてくださったのですもの」
「ルーナが……?」
顔を上げずとも、殿下の視線がこちらに向けられるのが分かった。彼がテーブルを挟んで向かい側の席に座る気配を感じて、思わず身を固くする。
「……ガーネットたちに良くしてくれてありがとう、ルーナ」
まさか面と向かってお礼を言われるとは思わなかった。穏やかな声音で紡がれる言葉に、苛立ちと落ち着かなさだけが募っていく。当然返事を返すつもりはない。
「今日は、君に何か甘いものを、と思って来たんだが……君の好きなものが分からなかった。コーデリアに聞いても知らないと言うばかりでな……」
よくもまあ、私の前でコーデリア姉様の名前を出せたものだ。これには苛立ちのあまり睨むように彼を見つめてしまった。
だが、そんな状態で目が合ったというのに、殿下は視線が絡んだことにほっとするような、どこか嬉しそうな微笑みを零して、こちらを見つめていた。
これには思わず視線を逸らす。そもそもコーデリア姉様の名前を出されて睨みつけるなんて、嫉妬を露わにしているようで悔しさが湧き起こる。
殿下なんて大嫌いだ。私を閉じ込めて、乱暴にして、女神様への祈りまでも奪って。何一つ許せる要素がない。
それでも尚、私の心の奥底には殿下への想いがこびり付くように残っていることも確かで、それが余計に私自身を苛立たせる源になっていた。
「……君は聖女候補だった時代、相当質素な食事を摂っていたと聞いた。甘いものの一つも、口にしなかったと」
それはそうだ。聖女の食事は決まりきった最低限のもので、余計な嗜好品は俗世に染まる原因になりかねないと制限されて育ってきたのだから。
正直これだけ沢山のケーキを目にしたのも初めてだった。長いテーブルの端から端まで並べられているのではないだろうか。
とはいえ、これを殿下が用意したのかと思うと、意地でも食べたくないような気がしてきてしまう。どういう心理でこのケーキを用意したのかにもよるが、もしも昨夜のお詫びのつもりならば、初めから私を脅迫などしなければいいのに。
「この中に、何か君の気に入るものがあればいいんだが……」
しおらしくされても腹立たしいものは腹立たしい。ケーキはいいから私をここから出してほしい、と訴えようかと思ったが、声に出すのも億劫だった。
じっとこちらを見つめてくる殿下の視線がなんだか気まずくて、小さく息をついたのちに、仕方なくケーキを口にすることにした。更に食べるように促されたら余計に食べる気を失くしてしまいそうだから、先手を打つに限る。
磨き上げられた銀のフォークを手にして、目の前の小皿に乗った苺のタルトらしきものを一口分削ってみる。
……ケーキってどんな味なのかしら。
物心がつく前は食べたこともあるのだろうが、聖女候補になってからというもの、一度も口にしたことが無かったので、正直、興味がないと言えば嘘になる。これが殿下に用意されたものでなく、例えばクリスたちが作ってくれたものだったら、満面の笑みでかぶりついていただろう。
ものすごく甘いと聞いたことがあるが、どれだけの甘さなのだろうか。これは苺が乗っているから、まだ馴染みのある甘さだろうけれど、舌が痺れたりはしないだろうか。
フォークの上にちょこんと乗ったタルトとしばらく睨み合いっこをしたのちに、意を決して口に運んでみる。
瞬間、苺の香りと僅かな酸味、そしてクリームの痺れるような甘さが口いっぱいに広がった。思わず頬に手を当ててしまう。
さくさくとした触感と苺のみずみずしさが何とも不思議な心地だった。しばらく口の中で楽しんで飲み込めば、何とも言い難い幸福感に包まれる。
「……ふっ」
ふと、向かい側で殿下が笑い声を上げたかと思うと、彼は珍しく含みのない笑みを見せていた。
それは、彼がまだ優しかった時代に見せていた無邪気な笑みに通じるものがあって、不覚にも目を奪われてしまう。
彼はまだ、こんな笑い方が出来たのか。王の使命感に駆られたあの優しい少年は、過去のものに成り下がってしまったと思っていたのに。
「美味しかったのか? 他のも食べてみるといい。一つずつ食べていたら、小柄な君はすぐに満腹になってしまうだろうからな」
遠い昔、神殿の庭に迷い来んだ子猫に餌をやっていた幼い彼もこんな表情をしていた気がする。私は猫と同じなのか、と心の中で悪態をつきつつ、嬉しそうな殿下の笑みを前に、嫌味を言う気を失くしてしまう自分の甘さが憎らしかった。
いつになく屈託のない笑みを見せる殿下といい、口いっぱいに広がる慣れない甘さといい、何だか今日は調子が狂う。
複雑な心境を誤魔化すように、タルトの隣にあったアップルパイにもフォークを伸ばしてみた。中に入っている林檎のコンポートが柔らかくて甘くて、これまた幸せな気持ちだ。自然と頬が緩んでしまう。
またその隣にあった黄色みがかったケーキは、レモンを使ったケーキのようだった。ケーキの上に乗っていたレモンに酸っぱさに、思わずきゅっと口元をすぼめるも、レモンについていた爽やかなクリームと甘いスポンジ生地が、すぐにそれを緩和してくれた。
これは美味しいだけでなく、なかなか面白い味だ。思わずもう一口すくい上げてしまう。
「レモンケーキが好きか?」
いつになく上機嫌な殿下に問いかけられ、思わず視線を泳がせてしまう。私はそんなにわかりやすかっただろうか。
「そうか……じゃあ、次からはレモンケーキを沢山持ってこよう。クリスにも伝えておく」
それだけ告げて、殿下は席から立ち上がった。昼間であるだけあって、そう長居は出来ないらしい。
「残りはガーネットたちと食べるといい」
どことなく上機嫌のまま、殿下は食堂から去っていった。ガーネットだけが慎ましく礼をして彼を見送る。
殿下がいなくなった食堂は、途端に静まり返っているように感じて何だか居心地が悪かった。そこまで考えて、思わずフォークを唇に当てたまま、睨むようにケーキを見つめる。
……これだけのことをされて、ケーキくらいで絆されたりしないもの。殿下は何を考えていらっしゃるのかしら。
また一つ、殿下の心が見えなくなった気がするが、滅多に感情を露わにしない彼が見せた嬉しそうな笑顔が、どうしても瞼に焼き付いて離れてくれない。それは、今も私の心の中に残る初恋の熱がそうさせているのだろう。
「……お嬢様、ご気分はいかがですか?」
ガーネットが困ったような笑みで私の表情を窺ってくる。ケーキを睨んでいたせいで、余計な気を遣わせてしまった。
「……平気です。それより、折角ですからみんなでケーキを食べましょう? ……殿下の用意したものですけれど、ケーキ自体に罪はありませんから」
なんて、付け足した言葉が自分への言い訳にしか聞こえなくて、ますます複雑な気分になってしまった。ガーネットはそれを知ってか知らずか、華やいだ声を上げる。
「よろしいのですか? では、お茶をご用意いたしますね。オパールもクリスも、甘いものには目がないのです。特にクリスには、お嬢様がお気に召したこのレモンケーキの味を覚えてもらわなくては」
恐らく私を元気づけようとしてくれているのだろう。ガーネットは殊更に明るい声を出して、早速お茶の準備に向かった。
その後、三人と私で開いたささやかな御茶会は、久しぶりに心から楽しめるひと時となった。どうやら私は彼らととても気が合うようだ。
「一度にこれだけの種類のケーキを集めるなんて、殿下も頑張りましたね」
クリスが感心したように言うものだから、余計に戸惑ってしまう。甘いものに詳しくない私でも、これだけ集めるのは苦労しただろうな、と思うくらいなのだから、相当無理をしたのかもしれない。
「それだけお嬢様の好みを知りたかったということでしょうかね」
クリスはどことなく意味ありげに微笑んで、レモンケーキを口にした。
冗談じゃない。やっぱり殿下の前でケーキなど食べるんじゃなかった。
そう苦々しい想いを抱きつつも、口の中には生まれて初めて食べたレモンケーキの爽やかな甘さが、いつまでも残って離れてくれなかったのだった。
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