第三章②

 自然と瞼が開けられた。

 既視感を覚える室内。

 目覚める場所の予定としては、自分の家か、もしくは児童相談所の役目として赴いた、他人の家の玄関で目覚めるはずだった。

 そこは間違いなくクミの家の一室だった。

 布団から抜け出そうとすると、横にクミがいることに今さら気づいた。

「どこか痛いところはないかい?」

 心配そうに眉を潜めるクミ。傍らにはリツやホーもいない。

「戻る予定だったはずですよね、現し世に……」

「その予定だったんだが……」

 篤はただ、クミの方を見つめ、

「復活の儀は失敗してしまったんだ……。お陰で、あの下の部屋と、装置も壊れてしまい、あんたの気魂も全部消えてしまった……」

 そんな……、篤は瞠目し、やにわに激高した。

「どういうことですか!」

「申し訳ない……」

「僕が帰れないって、じゃあ息子や、妻はどうなるんですか!」

 怒り心頭だった。ただその感情しか出てこなかった。誤って殺され、こんな変な場所へとやってこさせ、元の世界へと戻れるとの約束は果たされず、再び死んだのか生きているのかわからない状況に身をさらしている。

「あんたが怒ることは無理もない。これは明らかにこちらの過失だよ……」

「警察とかいないんですか? あなたを訴えることだってできるんですよ!」

「ここは死後の世界だ。秩序は保たれてはいるが、あんたの存在自体がもう死んでいる状態になっている。術に使用する気魂もないとなると、あんたはリツやホーたちと同じ状態……。ほぼ狭間に住むものと同じ存在ってことになる」

「だから、あなたは訴えられないと?」

「自首するつもりだ……だが、その前にやるべきことがある……。まず、この映像を見てくれないかい」

 クミが手をかざすといつぞやのときと同じように、現し世の映像が出現した。

 そこには、彩の姿とベビーカーに乗せられた拓海の姿があった。

「彩! 拓海! 拓海は……、治ったのか⁉」

「ああ。完全な失敗ではなく、あんたの気魂の一つは無事に息子を完治させるにいたった……だが……」

 映像の中の彩は、断崖絶壁の上につけられた手すりの前のベンチに腰かけていた。

 そこにふくよかな体つきをした婦人が、気さくに彩に声をかけた。

「旅行ですか? かわいい赤ちゃんですね……」

「はい」といつもは元気な彩が、どこか影を帯びていた。

「旦那さんは……?」

「旦那……」と彩は遠くを見つめた。水平線を隔てた空と海は、灰色だった。

「ごめんなさい、少々失礼な質問だったかしら……」苦笑する婦人に、彩にしては小さな声で、

「旦那がいた記憶が薄れていってるんです……いたかどうかさえわからなくなってきて、不安になったので、退院した息子と各地を巡って旦那を探しているんです……」

「まあ……。あなた自身も何かご病気に?」

 婦人は一瞬目を丸くしたが、彩にそう問いかけた。彩は首を小さく横に振り、

「大丈夫だと思っています。病気なんかじゃなく、確かに私には夫がいた……。でも……」

 彩はそう言ってうつ向いてしまった。

「よかったら私が相談に乗ります。そういう役目を担っているんです。ここには色んな事情でやってくる人が多くて、中には身を投げてしまう方もいるので……そういう方の話を伺うために私はここにいるんです」

「ありがとうございます……」

 と彩の一言のあと、二人は立ち上がって、崖から去った。近くに懇談できる場でもあるのだろう。

 ベビーカーを押す彩の肩は小さく震えているようだった。

「忘却の黒き戦士……。あんたは今そんな状態さ。息子は救われたみたいだが、あんたの存在が喪失したことで現し世に少なからず異変が起きたようだね。主にあんたの身の回りに起きたようだけど……」

 やるせない気分に、篤は自分の顔を手で覆った。

 ――涙も出てきやしない……。くそ。半分死んで、人間味が薄れてしまったっていうのかよ……。

「あんたの面倒は私が見る。でも、落ち着いてくれ。生き返る可能性としてはまだゼロって訳じゃないんだ」

「ゼロじゃない?」篤は顔を覆っていた手を外した。

「この間、私に持ってきてくれた心石があっただろ? あれを数十個くらい集めれば、また儀式の機会を得られる」

 篤の顔がみるみる変化していった。

 可能性はゼロではない……。それは、今の篤にとって藁をも掴む言葉だった。

「獄骸を倒せばいいんでしたよね?」

 篤の顔は自分では気づかなかったが、この時修羅のような顔つきだった。人間的と言えばそうかもしれないが、いつもの穏やかな感じとは違い、厳めしい顔色でクミに迫った。

「そうだ。やってみるかい? これは現し世に戻れる絶好の機会なんだよ。だからこうして伝えたってわけさ」

 篤は以前、彩の言っていた言葉を思い出した。

 もし、自分か彩に拓海を完治させる力があるとしたら、どちらを犠牲にするか……。

「全部……」と彩は答え、「誰も犠牲にせず、拓海を治す……」

 憤慨に身を任せている場合ではない。カラス纏いの戦士として、彩の夫として、拓海の父として、可能性のある方に全てを賭ける……!

「やらせてもらいます。全ては自分のために……!」

 クミは、静かに首肯していた。


「聞いてくれー! 諸君!」

 クミの家の上にある小さな森の入り口で、ホーはそう叫んだ。

 なんだ、ホーか……。人間に従う裏切り者……。めんどくせえが話は聞いてやろうか……。などとカラスたちは鳴きわめいている。

「ここに来たばかりの人間、篤ってやつが生き返ることができなくなっちまった!」

 何だって⁉ またホーがやらかしたのか? 不運だな、その人間も……、等々の声が四方八方から聞こえてくる。

「このままじゃ、俺の今の二つ名が余計に際だっちまう!」

 誤殺のホー……! ぎゃはははは! 二つ名がそれかよ!

 それらカラスたちの鳴き声のあと、

「そこでだ、俺もあの人間に手を貸すことにした。ババアからの指示だ。あの篤ってやつ、心石集めを始めるらしい」

 マジか? 新入りにできるのか? 逆に食われなきゃいいがな……。などとカラスたちは騒ぎ立てる。その中の一羽が、ホーに向かって言った。

「お前はどうなんだホー! 元々誤殺のお咎めもまだなんだろ! 誤殺っていやあ間違いなく数年は獄側行きだ。そこで過酷な労働を強いられることになってるはずだぞ!」

「そこら辺は大丈夫だ。この任務が終わったらちゃんと罰を受ける」

「まだ、あいつを怪しんでるのか?」

 ホーは肩を竦め、

「まだまだ、証拠が足りんがな。その話とこれとは別だ。とにかく、あいつを殺してしまった罪がある。あいつを無事、現し世に戻すために俺も粉骨砕身の覚悟だ……」

 ギャアアアア、などと下品な笑い声を森の中にこだまさせるカラスたち。

「だから、頼む!」

 突然のホーの懇願に、静まり返るカラスたち。

 ホーがお願いだってよ……。あの独りよがりのホーが……。明日は夜になっちまうんじゃないかい……。

 カラスたちの声を無視して、ホーは声を張り上げる。

「ピンチに陥ったときは力になってほしい……。俺じゃなく、篤のな……」

 カア、カアと囁きあうカラスたち。

 暗がりに姿を現したのは、一羽のカラスの状態になったホーだった。


「あー、いい湯だった!」

 天獄に存在するとある温泉宿。

 リツは体と頭にタオルを巻いて、瓶に入った白い飲み物を一気飲みした。

「ただ、温泉に入りにきただけんぬ」

 小さく跳ねて、近くの椅子に立つラッカの台詞に、リツは笑みを浮かべ、

「そんなことないよー。お姉ちゃんを探すためにここに来たんだよ?」

「森の中の泉と、二匹の稚魚んぬ……」

 ラッカは周囲を見回すと、

「ここは単なる温泉ぬ」

「でも、森の中にあって、温泉も泉みたいじゃん?」

「稚魚がおらんぬ……」

「まあ、そうだけど……。あ、そうそう。安藤さんが現し世に戻れなくなってね、それで、ばあばの手伝いをするんだって、ホーと」

「ふうん……」ラッカはリツをまじまじと見上げた。

「だから時間があれば篤さんにもお姉ちゃん探し手伝ってもらおうと思って……」

 言ってラッカの横に腰かけるリツ。

「奥さんと息子さんと離ればなれになって、嫌だろうな、安藤さん……」

「独り身の男に手を出すっていうんぬ?」

「支えになれば、ワタシだって奥さんの代わりになれることはいくらでも……」

 ツンとラッカはリツの手の甲をくちばしでつついた。

「何言ってんぬ……。それこそ、あの人間がここにとどまることになるんぬ。そうすれば、あの人間が一番苦しむ。あんたが変に優しくすれば、奥さんとの間で苦悩するんぬ。奥さんや子供がかわいそうんぬ……」

「わかってる……」

 手に持った瓶を置いて、つつかれた手の甲をさするリツだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る