第二章③
篤は少し気になっていたことを口にした。
「唐突な質問かもしれませんが……。獄骸って、現し世にも出ることがあるんですか? 獄骸のせいで自分が殺されたとなると、その被害が自分の家族や関係者にまで及ぶ可能性も出てくるわけじゃないですか……。だから少し気になりまして」
「獄骸が現し世に出ることは滅多にない。少なくとも現し世で言うところの、二百年くらいはなかったと聞く。現し世で悪いことをして、さらにここで悪事を起こしたりするとああなる。それと
「そのホーって人の姿が見えないようですが……」
「ああ、リツが勝手にあんたを外へ連れ出したからね。普段は家の中でじっとしてる奴なんだよ……」
「理由はそれだけじゃないよ」
リツが割り込む。
「安藤さんを誤って撃ってしまったから、反省してるんだと思う。話しにくいってのもあるのかも……」
茶をすすりながら、軒下の床に正座するクミと、足を放り出して座るリツとで話す。
「あんた、確かめずともあいつを恨んでるだろうね……」クミが顔を覗かせる。
「恨み……」篤は一瞬、思考に及ぶ。
誤殺ということは、過失致死という言い方でもいいだろう。記憶違いでなければ確かにあの時自分は撃たれ、この狭間という世界へやってきた。
「自分の意思に逆らってこの世界に来させられたってことだ。死後の世界にね。恨みくらい持ってるんだろう?」
「いえ……」
「何も感情がわかないって言うのかい?」
「確かに誤って殺されたんだと思いますが……。痛みを感じたわけでもなく、こうして自分の肉体が目に見える形で存在しているわけです。そこに不自由さもなければ、特別恨みや憎しみなどと言った感情もほぼ沸いてきません……。ですが、そのホーさんて人の犯したことは見逃すことはできません。人によっては恨まれてしまうのは間違いないと思います。それが道理というものですから。……と、僕にはそう思えるんですが……」
「恨み辛みが浮かんでこないってのかい?」
「そうなんです。不思議と……。帰れるって決まってるから、そんなことが言えるのかもしれません。ホーさんは何か罪に問われたりするんですか?」
「無論、問われるだろうね……。それはあいつと組んでる私も同じさ。その償いからあんたを現し世に戻すっていう任務が役所から与えられてもいる状況なんだ。元々死後の世界であるここは、沢山の死者がやって来る。それを管理する役所も大忙しでね。罪に問われるとしても時間がかかる。もしかしたらそれは、あんたが元の世界に戻ったあとになるかもしれないんだ」
そう話すクミを横目に、先刻から気になっているところへ、視線を瞬きくらいの速さで移した。
リツの放り出された脚――。
相変わらずその美脚に意識が傾きそうになるが、妻子がいるのだと強固な意思で煩悩から脱した。
クミが茶を一口すすると、
「それにしたってあんた、何であんな場所にいたんだい?」
クミからそう問いかけられ、篤は嘘偽りなく答えた。
ケースワーカーという仕事があり、まだ幼い子供が親などに暴力を振るわれ、死んでしまうという出来事を未然に防いだり、当事者たちの心のケアのために面倒を見たりするという仕事で、自分の住む世界ではよくあり、その場に子供を助けにいくところだった、と。
「そうかい。そりゃ不運だったとしか言いようがないね」
「実際僕は死んだことになるんですか?」
「いや……」とクミはかぶりを振り、
「現し世の人々やこの世界の住人には、頭の中に『気魂』というものがあってね。その数は大体、三つとか多くて五つあるとされる。人それぞれ得意分野があったり、生まれついての才能があったりするように、気魂の数も人それぞれ異なる。あんたの場合、それが四つあった。現し世のあんたの体に戻るには、気魂が最低でも二ついる。現在、あんたはほぼ仮死状態にあるが、私の手にかかれば、あんたなんかすぐに現し世に戻れる。それが誤殺してしまった罪滅ぼしというと、少々物足りないかね……。勝手に殺しておいて、その対応として、現し世に戻すのは道理って話だ……というわけで……」
クミは湯飲みを床に置いてあったお盆の上に置くと、
「罪滅ぼしのために一つ肌を脱がせてくれないかい?」
「い、いいんですか?」
若干、この老婆の迫り方に気後れしそうになった。恩の押し売りというわけではなさそうだが、住む次元の異なる者同士、そこまで親切にされると、むしろ疑念を抱いてしまいそうになる。しかし篤は手段を選んでいる場合ではなかった。
「息子が肺を患っているんです」
「ほう……」クミが頼りがいのありそうに、片頬に笑みを刻んだ。
「厚かましいことだとは思うのですが……、助けてやってもらえませんか?」
「この世界にいるときは……」とクミは問いかけたこととは別の返答をしてきた。
「現し世との時間の経ち方が違う。そもそも時間という概念は、自然的な目で見れば存在しない。人間が暮らしやすいよう自分たちで作ったものだ。だから、こことは経過が違う。どれ、少々今どういう状況か見てもらおう」
クミが手前に手をかざすと、映像が現れた。
「私はこんな風に現し世の状況を、覗き見することができるのさ。この世界では術者と言って、空間をねじ曲げてこうやって現し世を覗いたり、気魂を操作してあんたみたいな人間を元の世界に帰らせることもできるのさ」
映像を観ていると、篤が撃たれる直前、入った家の玄関前で自分が横たわっている様子が映し出された。
「あの時からやや一寸、時が経ったようだが、あんたの人生に支障が出るほどではないようだ」
「そ、それなら……」
ああ、と篤の言葉にクミは頷き、
「あんたとあんたの息子、どっちとも救えるね」
やった、と両手を挙げて喜びそうになったが、突然横にいたリツが、篤を抱擁してきた。
「やったー! よかったー!」
女性に抱きつかれ、内心動じるのはこの場合当然だったのかもしれないが、篤は彩と拓海の顔を思い浮かべながら、この黒髪の女性の感触をとくと味わっていた。
――彩、どうか許しておくれ……。
空中に浮遊する楕円形の岩の内側は、いくつかの小部屋と長い階段があり、篤は最下層にまで案内された。
「ここが儀式を行う場所だ」
暗闇に灯をともした。この場所の壁には燭台があり、全てを灯すと、部屋の内観があらわになった。
寝台がすぐ目の前にあった。寝台の周りには特に何もなく、寝台の真上を見ると鏡のような楕円状の物体があった。
「天獄の役所仕事の一つに、死人が生まれ変われるよう促す施設もある。あんたの現し世は娑婆世界とも言われていてね。常に耐え忍ぶ世界で、修行をするために再度、人間に生まれ変わると言われている」
「修行?」
「ああ。天獄も修行の場でもあるんだが、現し世に比べ、修行の成果が出にくくてね。生ぬるい環境だからか、多くの人は転生を望む。人生っていう荒行に自ら進んで、ね。死んでもなお人は己を鍛えようとする。最上位の慈悲深き聖人になるためにだ。それは現し世が天獄での百年の修行にも達しないと言われるほど、過酷な環境だからさ」
「僕も生まれ変わる前はそこに?」
「そういうことさ。あんたがあんたになる前、あんたは別のあんただった。そして一度生まれ変われば、天獄にいたときの記憶はさっぱりなくなる。覚えていたらどうなると思う?」
篤は黙したままクミを見つめた。
「天獄へ戻ろうと、自ら命を絶とうとするのさ。過酷な現し世よりも楽だからね」
「そんな聖人というものになって、何が嬉しいんですかね?」
「それが人の性というものさ。常に上を目指す……。目標はあった方がいい。生きる意味を見出だせるからね。もっぱら、現し世での修行がメインになる。人それぞれ目標は違えど、考えてもみな。人が全員聖人になれば、争うこともなくなる。この世界の環境や成り立ちは、仏、菩薩、あるいは神の手によってそういう方向へと動かされようとしている。もちろんそれに異を唱える者もいて、そういう輩は、ずっと天獄や狭間にいてのんびり暮らすか、私のように小銭を稼いだり人と関わりを持とうとする」
「そうしたお話は貴重ですが、現し世に戻ればここにいたことも……?」
「忘れるのさ。それが常だよ」
「おい、ババア!」
入り口からはみ出すくらいの巨漢、ホーがクミをそう呼んだ。クミは早歩きでホーに近づくと、まず腹部を殴った。そして今度は、足を強かに踏んづけた。
「口の聞き方を忘れたかい?」
クミが罵るように言う。ホーは腹部を抑えつつ慌てて謝罪の意を表した。
「す、すまねえ。クミ様。大覚クミ様……」
「わかりゃあいいんだ。んで、何しに来た木偶の坊!」
「一応天獄に行って、現し世に戻るための儀式を行うって許可もらった方がよくないっすか?」
クミは口元に手をやり、
「ううむ、それもそうか。確か無許可でことに至れば、仕事や報酬が減るんだったね……。信頼を失いたくはない……だとするとやはり……」
「本来であれば……」リツが割り込む。
「誤殺したホーや、半死状態の安藤さんも天獄の役所へ呼ばれてもいいはずなんだけど、ばあばが術者の免許を持ってるから、そこら辺は自己負担、自己責任で勝手にやってくれってことなんだろうね……。今の話は現し世に戻すための儀式について、ひとまず許可がいるってことなんだ」
リツが語る間、クミはぶつぶつと呟いたのち、
「許可をもらおう。リツ、ホーのお目付け役で行ってきな」
「はい、ばあば」微笑むリツ。
クミは次いで篤に目を向け、
「ついでだ。あんたも観光目的でついていきな」
そのときのクミも笑んでいた。
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