第二章②

 うっすらと目の前が光った。

 ぼんやりと視界が暗く、はっきりとした覚醒ではなかった。寝返りをうちしばらく目を閉じながら、どこからともなく甘い香りがしてきたのを感じた。側臥しながら目を開けると、艶かしい乳白色の脚が正座され、その奥の下着が丸見えになっていた。

「あ、起きた!」

 次いで、目の前を覆ったのは、白色の肌に、前髪の切り揃えられた黒髪の女性の姿だった。見るに髪は背中まで達しているようで、夜空に星々が転がったようにキラキラさせる大きな瞳は、涙でいっそう煌いていた。

「ばあば、起きたよー!」

 その女性が声を張り上げる。

 上半身を起き上がらせると、ここは座敷ということがわかった。

 畳張りの床に、篤の寝る布団が敷かれ、その傍らにこの黒髪の女性がいたのだ。

「ここは……?」

 自分の家でもなければ勤め先の休憩所でもない。辺りを見回す篤に好奇の目をくれるのは、黒髪の女性だけだった。

 黒髪の女性の後ろは、襖になっており、そのさらに向こうは廊下のようだった。板張りの床らしき上を誰かが歩く音が聞こえてくると、スッと襖が開いた。

「おお、よかったよかった……」

 背丈の小さな老婆だった。白髪と灰色の髪が混ざり、額の中央で分けられている。ほうれい線と、目尻に目立つしわがあったが、それが今のこの老婆の愛着のわく顔の装飾のように見える。

 畳の上を歩いて、黒髪の女性の横に座った。実際、親しみやすさのある笑みで、刻まれた無数のしわによって顔がしぼんだように見えた。

「おお、何とか無事だったか!」

 そしてもう一人、男性のような野太い声色で襖から顔を覗かせたのは、黒い帽子を被った大柄の人物だった。帽子のつばは、肩幅くらいに広く、クラウンの部分には鳥の頭があった。鳥の頭はカラスのように見えた。帽子から伸びた羽毛のような装飾は、頭から肩にかけ背中の方へと垂れ下がっており、帽子の下の顔は暗くて見えないが、両目とおぼしき物が怪しげに光っている。

 襖に帽子がつっかえながら、老婆の横にその大柄な黒ずくめの男は座った。

 篤はその黒ずくめの男に見覚えがあった。

 そう、この男が発砲したと思われる弾が、自分の胸に当たったのだ……。

 瞬時に、篤の頭の中は混乱と動揺がごちゃ混ぜになって、息が詰まった。

 また何かさせられるのか……? 例えば先刻のように銃で撃たれたりするのだろうか……。

 しかし、老婆たち三人は、正座したまま深々と頭を下げた。

 土下座した三人の声が揃う。

「本当に申し訳ありませんでした……」

「えっと……」篤は返答に困惑した。

「突然謝られても何て返したらいいか……ひとまずここはどこなんです?」

「現し世とあの世の間にある『狭間』という世界さ」老婆が口を開いた。

「私の名はクミ。こっちの若いのがリツ、こっちのでかいのがホーだ」

「僕は安藤篤と言います。よ、よろしくお願いします」

「おう!」ホーが気前良さそうに言った。リツは微笑んでいる。

「それで、その……。ここは僕の住んでる世界とは異なる世界なんです、よね……?」

 恐る恐る尋ねてみる。

「実は……」とクミは言いにくそうに、

「あんたはこのホーってやつに誤って殺されてしまったんだよ」

「こ、殺された……」篤は唖然とした。

「そこはほんとすまねえなと思ってる」

 ホーが大きな帽子を被ったまま頭を下げる。

「この狭間という世界と、あの世……私たちは『あの世』を『天獄』と呼んでるんだが……」

「天獄?」クミの言い方に少し違和感がありそう篤は返した。

「ああ、天国と地獄がほぼ一緒になっているからね……。まあその話はあとだ。この狭間と天獄の世界には警察とか、治安を守る組織がない代わりに、私たち駆除人が治安を守ってる。あんたが見た、黒い骸骨の化け物は、『獄骸』と呼ばれていて、その害獣から一般人を守るために、駆除するのが私たちの仕事。この家の地下にも牢屋があってね。天獄などで悪さをした罪人を一度こちらで預かることになっているんだ。特例もあって、ここで預からなかったり、天獄を管理する、中央局ってところがあるんだが、その中にも拘置所があって、そこで一時勾留されることもある……」

「お前を殺しちまったことの責任を役所から問われ、ここで一旦預かることになったんだ。現し世とは違って、俺たち『カラス纏い』が、獄骸の退治や犯罪者を捕まえたり、被害者の保養を行ったりする。そういうのは全部役所からの請け負いなんだ」

「カラス纏い……」ホーという大男の言葉に篤は思わず呟いた。この特殊な出で立ちの人物は他にもいるのだろう。どうやらそういった呼び名があるようだ。

「おかしな話だろ? こんなぼろ切れを纏ったような奴らが、治安を守ってるだなんて……。もちろん色んなカラス纏いがいて、中には罪を犯す奴もいる。こいつみたいにね」クミは話しながら、肘でホーをつついた。

「僕は帰れるんですよね?」

「もちろんだとも」クミが頷く。

「あんたみたいな事例が起こると、責任はそれを起こした側――私たちに課せられる。なに、しばらくすれば、このホーと私も罰せられる。あんたを無事帰すことができれば刑は軽くなるみたいだがね」

「それなら安心です……。僕には待ってる人がいるんで、なるべく早く帰りたいのですが……」

「少し時間をくれ」クミが言うとリツが篤の服の袖を摘まんだ。

「よかったら、この狭間って言う世界、見てみません?」


 この家の造りはいわゆる和式と呼ばれるもので、寝かせられていた部屋から出、廊下を歩くと再び畳み貼りの部屋に出た。

 クミが土間へ行き、沸かしていたヤカンを手に取って湯飲みに注いでいた。

 ホーは部屋の隅で胡座をかき、それを横目にリツに連れられるがまま、靴を履き外へ出た。

 リツの容姿に、篤は少し驚いた。

 黒い振り袖姿だが、裾は短く、白い脚線美が篤を微妙に困惑させる。

 目のやり場に困る。というか、妻子のいる自分には、どうにも戸惑いを感じさせるのだった。

 外の景色は家の造りとは異なり、異国の趣を窺わせた。

 青い空間だった。

 海と空に挟まれたような景観には、遠くに所々、楕円形の岩が浮かんでいる。巨大な卵と言っても差し支えない物体だった。遠距離で詳細は不明だが、篤の立つこの場所も、同じ楕円の岩のように思えた。そのもっとも上側にクミやリツたちの住む家があり、そこだけ丸い地表が切り崩され、平たくなっている。

「すごいところだね……」

 思わず感心した篤にリツは明るい声色で、

「でしょ? ワタシたちはここで暮らしてるんだ。あの向こうに見える似たような楕円形の岩は、この世界にいくつも存在していて、ここみたいに人が住んでいる場所もあれば劇場や、バー、銀行なんかもあるんだ」

「銀行……」

 呟きつつ、足元を見やった。

 地には草が生えていた。芝生のように小さく生えた雑草は、定期的に整えられているようだ。

 篤の視線は家に移った。渋墨塗りの家は、屋根瓦も黒く古めかしい。一階建てで、その裏側には岩壁がそびえている。上方に微かに見えるのは、木立の群れらしきものの一部。さらにその上に目をやると、8を横にしたインフィニティーマークのような二つの球体が見えた。

 黒い家の軒下でリツと話す。目の前には篤が寝ていた布団が干されており、篤とリツの後ろの部屋が先刻、篤が寝ていた部屋になるのだろう。

「ここでは天国と地獄は、あんな感じで存在してるんだ」

 リツが頭上を指差し、篤は再び宙を仰ぎ見た。

 インフィニティーマークのような星と星の連結が、篤に疑問を抱かせる。

「天獄って言っていたけど、まさか、あの星が?」

「そう天獄。分かりやすく言うと、右の黄色く光っているのが天側。隣の赤と黒が混ざったような星が獄側。ワタシたちは、あそこへ自由に出入りができる……」

「この娘は元々天側に住んでいたのさ」

 クミが三つの湯飲みをお盆に乗せて運んできた。

「お姉ちゃんを探してるんだ」

 リツが一瞬曇ったような顔をした。

「天獄で死人を案内する係だった。いつしか姉が行方知れずとなり、探すと言ってこっちに来ちまった。天獄の方が収入面ではいいはずなんだが……」

 クミが首を傾いだ。

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