第二章①

 あれは高校生くらいのときだった。

 篤はいつも帰宅の際、ただいま、と声掛けをしなかった。

 扉を閉める音と階段を上がっていく音に、母は気づいたのか家の奥のキッチンから顔を覗かせ、

「あら、帰ってたの?」

 それを無視して自室に入り、部屋着に着替え、テレビゲームに執心した。

 ごはんできたよ、との母の呼び声に、ゲームを中断し、リビングへと向かう。

 母の作ったカレーとサラダ。早々と食べ終わると、また自室に籠りテレビゲームをする。

 九時くらいには父が帰宅し、夕飯のカレーを頬張る。篤は居間でドラマと背後のリビングで父がビールを飲む姿を交互に見ていた。

 学校へ行くと、友達がふざけて、

「篤ファッキン安藤!」

 と朝の挨拶代わりに言ってくる。

「ピシッ」と口で効果音を出しつつ、その友の額にチョップを食らわした。

 朝のホームルームが終わり、担任が篤の席に近づく。

「まだ提出してないぞ、安藤。進路希望の紙……」

「はい……」と顔をしかめて、無記入のプリントを取り出す。

「何も書いてないじゃないか。提出期限今日だから、ひとまず進学ってことにしておこう。それでいいか?」

「はい」と言われるがまま走り書きで、進学と記入した。

 昼休みも、母のこさえた弁当を頬張りつつ友達と屋上で暢気に会話した。

「安ちゃんてさ」

 友達の声がけに、うん? とウインナーを噛みながら返す。

「将来何になりたい?」

「大人みたいなこと聞くな……」

「そうか?」

「なりたいもんなんか何もないよ」

「俺もそう。とりま進学って書いといた」

「なりたいものか……。自分が何が好きかもよくわからないんだよな」

「ゲーム好きじゃん?」

「プログラマーか。でも俺、特にそういったもんに関しても興味ないんだよな……」

「遊ぶ側に徹するってことか」

「その方が楽だろ? それよりもどっか遠くへ行きてえ」

「遠くって?」

「北海道とか夏に行って涼むとか……」

「涼むかあ。でも金かかるよな」

「バイトもめんどくせえよなあ」

「結局家に籠ってゲームか?」

「それも何かな……。ヒキニートの仲間入りになっちまいそうで怖いな」

「ほんとに何もないよな。安ちゃんて」

「あるにはあるよ。帰れる家と、飯をくれる親。ラノベみたいにはいかないけど妹いるし。ゲームもあるし……。何不自由なく、現在幸せまっしぐらなんだよな……」

 遠くへ行きたいと思ったのも、そんな当たり前の環境から一度解放されてみたいと思ったからだった。

 すでに手に入れている。

 残念ながら恋路には夢中になれてはいないが、ゲームの中の美少女に恋ができれば、ある程度の欲求は満たせた。

 わざわざ大人になって、一人立ちして、仕事につき、ある程度の稼ぎを得て、好きなことをする、好きなものを買う。高校生の時分ですでにそれらが手中にあり、将来に何かを見出ださなくても、人生が出来上がっているように感じるのだった。

 ある日のことだ。

 夜中にゲームをやり過ぎて、目覚めの悪い朝。篤にとっては当然のごとくやかましい母の強制的な起床が始まった。

 布団をひっぺがえし、起きろおっ! と怒鳴りつける母。

 何とか起き上がって、リビングのテーブルにつき、食パンを頬張ろうとしたとき、部屋の角にあった四十インチの横長テレビに釘付けになった。

「五才と三才の姉妹が、餓死した状態で発見されました」

 テレビゲームに熱中しすぎて、あまりニュースも見ることはなかった篤は、このとき食パンを咀嚼するのが止まった。

「母親である、泉加奈子容疑者が育児放棄したために、食事も満足に与えてもらえず、部屋にあった段ボールや、紙くずを食べていたとのことです」

 なんで……、と眠気は覚めたものの、呆然とニュースを眺める他なかった。

 ――何でこんなことあり得るんだよ……。姉妹って、まだ小学校にも行ってないんだろ……。食事が段ボールって何だよ。親、母親だけなのかよ。父親だっているもんだろ……。何してたんだよ……。

「ひどい親だねえ。子供がかわいそうに……」

 母親のいつものテレビに対するツッコミも、普段よりも声が抑え気味だった。いつもなら、この女優整形した? だとか、女芸人に向かってブスなどと罵ったりしているものだが。

 なぜだろう……。篤は一瞬考えた。

 親が不在という点で、ニュースでは一度荷物などを子供のいる自宅へ置いて、男の元へ行っていたとのことだが、そのとき、娘たちはどういう状況だったのか。恐らくおむつを換えていない、となると異臭だってするはずだ。自分の幼少期のことは記憶にないが、だとしてこのテレビの中で亡くなった子供たちは、どういう心情でどういう居心地だったのか……。当然ながら、未処理のままなら異臭が立ち込み、虫も出てくる。自分が仮に子供で、腰の回りに不快感を得ながら、泣き叫ぶことしかできず、部屋も真っ暗で、親の姿もなかったとなると、どういう思いでいたか……。段ボールを食べざるを得ないというくらいに空腹に喘ぎ、それを食べてはいけないという親の注意もなかった。だとしたらそれは、悲しいことだ。そして苦しく、どうしようもない……。もし自分だったら、と胸が締め付けられる思いだった。

 自分がここにいられることは、もしかしたら当たり前のことではないのかもしれない。

 当たり前のようにある、食事、テレビゲーム、友人、家族、家――。

 そして何より、自分がここまで成長できたのも、親の苦労があってこそだろう。

 篤にはそれが常にあるものとして、普段から何も感じなかった。

 ――当たり前なんかじゃないんだ。こうしてここにいることが……。それに気づかなきゃいけないのかもしれない。もっと言えば感謝だ。食事と寝床、ゲーム、学校、みんな当たり前だって思ってはいけなかったんだ。感謝の反対語があるとするならそれは――。

 ……あたりまえ……。

「お兄ちゃん。はい、ティッシュ」

 妹の早苗が、篤の前にティッシュを置いた。斜向かいの父が早苗に問いかけた。

「ティッシュ?」

「だって、お兄ちゃん泣いてるんだもん」

 学校に行き、篤は職員室へ向かった。能動的に職員室へ向かうことなど今までなかった。

 担任に挨拶をし、篤は一言こう述べた。

「将来、子供を助けられる仕事に就きたいです」

 担任からいくつか教えてもらったものの中に、社会福祉司という職種があった。

 あんなことが起きてはならない。

 自分のできる限りの助けができれば……。

 あの事件のような子供たちを一人でも多く救えれば……。

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