第三章⑤

 そうして訪れた旅館「よみのみより」

 外観は現し世にもよくありそうな、風情ある造りだった。

 和風のような建築様式は、瓦屋根と木造の一階建てで、広い玄関には水槽があり小さな魚が泳いでいた。

 天獄にも繁忙期というものがあるのかは知らないが、天獄が時間的な概念を必要としないのであれば、単に運良く客足の少ない旅館だったのか、玄関から見る館内は閑散としていた。

 どうやって探るか、と来館する前に話しを進めていたホーと篤だったが、ホーの意見でこう結論付けられた。

「女将に話を聞くか……。なに、この格好を見て、訝しむ女中もいるだろうぜ」

「役所の請負人としての立場で、女将と話すってことだね……」

「ちょっと中見てきていい?」

 間の抜けたリツの一声に、篤とホーは力が抜けたように肩を落とした。


「いるとしたら、トクコさんかな……」

 受付の裏にある事務室。その横の部屋の応接室で、篤とホーは女将から話を聞いた。

 黒髪を後ろで結い、口許にはほくろがあり、前髪を中央で開けた額はどこか愛嬌がある。

 灰色のソファに座る篤は、女将のその名前に目を見張った。

「トクコさんとおっしゃるんですね?」

「あなた方、トクコにどんなご用で?」

 女将の質問には、ホーが答えた。

「トクコさんが首からぶら下げている笛によって、町外れのごみ溜めに大獄骸が出現するという話を聞きましてね」

「あのちっちゃい笛で大獄骸を?」

 女将の目が大きく見開かれた。

「操っている、という疑惑もありまして……」

 篤の言葉に女将は、眉間に指を当てかぶりを振った。

「まさか……。あの働き者がねえ……」

 ショックを受けている様子だった。今の台詞からしても、大獄骸を操るような人間には思えないからだろう。

「トクコをどうする気ですか?」

 女将の目が鋭くなった。カラス纏いの姿であるホーを見て、ある種の覚悟を決めようとしているらしかった。篤は穏やかな口調で、

「いえ、トクコさんに直接何かがあるわけではありません。こちらとしても力ずくで何かをする気は全くないのですが、放っておけないのは大獄骸とそれに関してのトクコさんとの関連性です。我々は駆除人としての責務から、大獄骸を退治する役割があります」

 そこで、扉の外から何かが割れる音がした。

 すぐに感づいたらしいホーが、素早く扉を開けると、来客用のお茶を運んでくる途中だったのか、床には割れた湯飲みが落ちており、それを運んできた中居が、走り去る姿を目撃した。

「篤! トクコだ、追いかけるぞ!」


 受け付けから離れた場所にまでくると、中庭を囲む廊下へと出たリツは、肩にラッカを乗せつつ中庭に池があるのを発見した。

 庭師によって整えられた植木。その中央に池があり、リツは自然とあの占い師の言葉を思い出すのだった。

 森の中の泉、二匹の稚魚――。

「まあ、そんな簡単に見つかりっこないか……」

 池には魚一匹も泳いでおらず、リツはそう小さく呟くのだった。

 ――いつだったか、お姉ちゃんと温泉に行ったっけ……。

 はしゃぐ妹に、姉は親のように注意した。

 ……静かにして! 他のお客さんの迷惑になるよ!……

 親もいない自分たちが、天側で死者を案内する係を始めた経緯も、ほとんど知らない。この世界にいるということは、死というものを経験したからで、死んだあとの短い期間をどう過ごしていたのかも記憶にない。

 ――どうせ、生き返ったらここのことも忘れるから、役所勤めの前の記憶なんてどうでもいいっちゃどうでもいいんだけどね。

 とはいえ、姉との思い出は今も胸奥にしまわれている。姉の言葉をしっかと胸に抱くように、リツは膨らみのある胸元に両手を重ねた。

 篤たちの元へ戻ろうと、通路を振り返ったとき、一人の中居が走ってきた。

 そのあとに続く、ホーと篤。

 ホーがリツに声をかける。

「リツ! その女捕まえろ!」

 言われるがまま、リツは中居の腕を掴み抱き止めた。

 息を切らした中居を抱き締めながら、ホーが近づいてきた。

「捕まえてくれて助かったぜ」


 篤たちのために用意された部屋に、中居のトクコを連れて来ると、扉側にホーを立たせ、反対側の窓と部屋の境に篤を座らせると、リツがトクコに種々質問をした。

「その笛をしまわず、他人に見えるようにしていたのが仇となったようですね」

 リツのこの言葉遣いは、篤には新鮮に聞こえた。

 トクコはなにも語らず、黙ったままちゃぶ台の上に視線を落としていた。

「あなたが、あの大獄骸を操っていた人物で間違いないですね?」

「言い逃れはできませんよ。トクコさん……」

 篤がそう割り込むと、少し強めの語調で、

「僕はしっかり見てます。あなたが笛を吹き、そのあとに大獄骸が出てきたり、去っていくのを……」

「あんた……」とトクコが口を開く。

「赤いカラスのカラス纏いだったね。私もさっきあんたに一発食らわしたから覚えてる……」

「え! 安藤さん怪我してるの?」

 リツが驚いた様子だったが、

「いや、カラス纏いの状態だったから、深手は免れたよ」

 なんだ……と息を小さく吐くリツ。

 篤は撃たれた腿の辺りを手で触れつつ、

「あなたは一体何が目的で、大獄骸を操っているんです?」

 トクコはしばし押し黙っていた。目を少し泳がせながら、篤の方に顔を向けた。

「仕事を半休取ったりして、たまにあの子たちの様子を見に行ったりするんだ。人を襲っていないか確認するためにね」

 トクコの言葉に、篤は疑問を呈した。

「あの子たち……? 人を襲わないかどうかって……」

 気になる言葉が二つ出てきた。篤はその言葉を繰り返しながら、トクコの次の言葉を待った。

「あの子たちってのは、二体の大獄骸のことさ」

 次のトクコの言に、一同は息を飲まざるを得なくなった。

「あの大獄骸は、元は私の息子たちだったんだ……」


 順を追って説明していくトクコ。それは彼女の生前のことにまで及んだ。

「夫が借金をして、しまいには自殺を図って死んでしまった。毎日来る取り立てと、私も女手一つで子供たちの面倒を見ながら、仕事で疲労困憊だった。ある時、いっそ楽になろうと思って、子供たちを薬で寝かせて、車ごと海に突っ込もうとした。でも、最後に見ておこうと眺めた子供たちの寝顔に、弱気だった私は徐々に元気が出ていった。体や心が疲弊しても、子供たちはいつも美味しそうにご飯を食べる。元気に笑ってくれる。諦めちゃだめだと思って、引き返したんだけど、その途中で大型トラックと衝突。私も息子たちもこの世界にきてしまったってことだ」

 篤はその話を耳にしながら、現実の不条理さを改めて思い知った。

 断崖絶壁の上で、我が子に広大な海を見せていた彩の思いとはどんなものか……。

 夫である自分の存在も、彩の中では曖昧になっているように受け取れた。

 ――彩……。苦しい思いさせてごめん……。

 ぎゅっと目を閉じ、ふうと短く息を吐くと、今直面している問題に向き直った。

 家族の元へ帰るには、まず大獄骸を三体倒さなければならない。

 トクコは話を続けた。

「死んでこの世界に来たあと、聖人様に言われた。転生よりも先に心を休めなさいと……。それで温泉街にまで来て息子たちとごみ山に行って、その近くの旅館に寝泊まりした。宿泊代は役所がなんとかしてくれた。しばらく休んでいると、息子たちの様子が変わっていった。それである日、獄骸化したんだ。あとで原因を調べたら、獄骸に変えてしまう煤花という花があると聞いてね。子供たちがよく遊びに行っていたごみ溜めの近くに、煤花があって役所に処分してもらったんだが……。子供たちは人間に戻らない。人を襲う様子を見て、なんとか抑える手はないかと、生前好きだったサッカーの笛の音を真似したら、伝わったみたいで、それを合図に人を襲わなくなったり、私が顔を見たいときには出てきてくれるようになった……」

 鼻をすするトクコ。話を聞いていた一同は言葉を失っていた。

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