第五章③

 下ではホーが呼び掛けているが、篤は聞く耳を持たず、そのまま夜の町の空を滑空した。

「どうしたの?」

 コロネが篤の突拍子もない行動が気になったようだ。

「記憶違いじゃなければ、ここは狭間に行く前に僕が住んでいた町だ……。あそこのコンビニを曲がると……」

 静まり返った闇の中に佇む家々。その一つに目星をつけた篤は、急に降下し着地した。

「僕の……安藤家の家だ」

 彩と結婚したと同時に親元を離れ、都内に近いこのアパートに引っ越してきた。2DKの家賃六万円。最寄りの駅までは十五分。

 ――もしかしたら……。

 安藤家の部屋は、一番右端の101号室。

 篤はためらうことなくアパートの裏へ回り、ベランダの内側の窓を見やった。

 そこは寝室として使っていた部屋だ。

 カーテンが少し開き、隙間から明かりが漏れていた。そこから中を覗き見ると、彩の姿があった。

 彩……。

 そっと心で呼び掛けた。

 この世で一番愛した人。ガラス窓一枚だけ隔てた向こうに、彩がいる。

 彩に触れたい。彩を抱きしめたい。彩を愛したい……。

 すぐそこに妻がいるのに、夫である自分は何をやっているのか。

 黒い羽根を纏って、なりきれていないヒーローごっこをしている自分に、大人気なさを感じた。

 ――もっと近くで彩を……。

 篤は突飛な行動に出た。手すりによじ登始めたのだ。

 ベランダの手すりに脇を引っかけながら、彩の存在を染々と感じる。

 拓海の病状もよくなり、篤を亡くしたショックで遠出していたはずだが、今は自宅に戻っているということか。

 ――だとしたら、拓海もこの部屋にいるはずだ……!

 息子の顔をひと目だけでも、と思い立った篤は、ベランダの手すりを登ってもっと詳細に部屋の中を覗き見ようとした。

 ――拓海……、拓海……。元気になったその顔を見せてくれ……。

 自分は拓海の親であり、彩の夫だ。こうして二人を密かに眺めていても、誰にも制止する権利などないはずだ。

 そこで篤は、自身の中に芽吹いたある欲求に身を任せようとした。

 ――このカラス纏いを解けば、すぐにでも二人に……。

 コロネ……と呼び掛けようとした矢先のことだった。

「カラス纏いを解くなよ?」

 後ろから聞こえてきたのはホーの声だった。足を捕まれ、引きずり下ろされた篤は、ホーの顔や腹を殴って抵抗した。

「やめろっ! 彩がいるんだ! 僕の妻だ! 息子だっているんだぞ! 一目会わせてくれたって……」

 地に仰向けになっていた篤の顔を、ホーは強く殴った。

 そして胸ぐらを掴み、篤を空中へ放り投げた。

 そして自宅から数メートル離れたコインパーキングに背中から落ちると、すぐにホーも着地した。

 もう一度篤の胸元を鷲掴みし、

「馬鹿かてめえは! いきなりなんてことしてんだ!」

「彩と拓海の顔を見たくて……」

「馬鹿野郎! せっかく順調にここまできたんだ。今自分の欲に負けて、あの部屋のガラス戸を無理矢理開けて、妻子に会えば、お前が生き返れなくなるんだぞ! そうしたら、二度と家族に会えなくなるんだ!」

 篤はそう説得され、仰向けになりながらぼうっと虚を見つめていた。

「ほら、こんなところに寝そべってるわけにはいかねえ。近くに公園があるか探すぞ……」

「な、何で公園?」

「公園っていうか止まり木でしょ?」

 篤の問いにコロネがそう答えると、次いで篤たちは付近の公園の木の枝に腰かけた。

 漆黒の闇に包まれた、馴染みある町のとある樹木で、茫然自失気味に、屋根の連なる景色を眺めていた。

 いくらか時間が経過したようだった。

 二人の間に生まれた静寂を破ったのは、ホーの一言だった。

「落ち着いたか……?」

「だいぶ……」ぼそりと篤は呟く。

「もう二度とああいうことはするな。いくら身内に会いたいからってな、反則をすると困るのは自分だ。少なからず周りにも迷惑がかかる」

「ごめん、そうだった」

 ナユやクミの商売が覚束なくなる。ただでさえ、自分を誤って殺したホーによってクミの事業が危うくなっているらしい。それに我を貫いて、猛追をするようなことを起こせば、いくらホーやクミに犯した罪があろうと、再び現し世に戻れる機会を作ってくれている彼らに面目がない。

 その一線を越えようとしてしまった自分を恥じた。

「そろそろ本題に移るぞ。もういいよな?」

「大丈夫だ。行こう……」

 ホーがため息をつきながら、ほぼ篤と同時に枝の上で立ち上がった。


「子供が獄骸化するっていう事件がここのところ多い。それくらいはわかってるんだが、まだまだ情報が足りない。カラスを使って見張りをつける」

「カラスって野生の?」

「ああ、やつらの目を利用して、犯人を暴こうってやつだ。鳥は闇の中だと目が効かないらしいが、カラス纏いの力はそいつらと視界を同期できる。カラスにも気魂があって、同じ気魂を持つ俺やコロネたちは、視界を共有できるんだ。見つけたら速やかに獄骸を葬る。と、いきたいところだが、コロネがいるし、とどめはお前たちに任せたぞ」

「わかったわ!」コロネが朗らかに了承した。

 ホーと篤のカラス纏い状態の視界には、現し世のカラスたちの目を通じて、いくつかにわけられた映像が映し出されていた。

 篤は動く人影を見つけた。帽子を被った女性のような人影が、ベランダの窓を少しこじ開けていた。

「ホー、こいつなんか怪しい……」

 ホーの視界に、篤が睨んだ映像を送った。ホーも合点がいったらしく、

「東の方のカラスか。早速行ってみるか!」

 マントのような羽根を二人は大きく翻すと、現場に直行した。

 篤の家と間取りはほとんど同じようだった。幸いカーテンの開けられた部屋のベランダから室内を覗くことができたが、すでに獄骸化が始まっていた。

 部屋の隅で、肩を寄せあい恐怖心からか、小刻みに震える夫婦。夫の方は青と赤の縞模様のティーシャツ、妻の方は黄色いカーディガンを着ていた。

 がちゃりと、鍵を外しておもむろに入室したのはホーだった。

 続けて篤も入り込む。篤の目は獄骸に向けられていた。

 暗い部屋には乳幼児用のベッドがあり、床には玩具が転がっていた。

 それを粗雑に踏みつけた獄骸が、篤に飛びかかってきた。

 赤いくちばし銃で、 獄骸の胸に風穴を開けると、砂のように散っていった。

 後方では夫婦二人の悲鳴と、ホーが放ったとされる銃声。

 篤は咄嗟に夫婦に目をやった。

 頭を撃ち抜かれ、息絶えている父母。篤はホーに掴みかかった。

「なんで殺した、ホー!」

「親のせいで子供が死にかけていた。お前にはわからんだろうが、見てみろ。その床に捨てられたブツを……」

 そこには、異臭を放つオムツがいくつか転がっていた。乳幼児だったのかまでは定かではない。しかしその惨状から、篤にももしかしたら、両親が子供を虐待していたかもしれないと予測できるのだった。

「確かに……虐待をしていた痕跡にも見えるけど……」

「現場の判断てやつでな。子供が獄骸化すりゃ、親だって命を狙われる。噛みつかれれば、どのみち死んじまうからな。俺たち現し世行きのカラス纏いには、その場の判断で現し世の人間を殺すかどうかが任されてる。お前の場合、単なる俺のミスだったんだが、場合によっちゃ、あの場で獄骸にやられてたって可能性もあったんだぞ」

「そうやって、正当化するっていうのかい?」

「正当化? いや、俺はちゃんと裁かれることになってる。それだって俺から申告したんだぞ。なんだ? 俺のやり方に不服なのか?」

「子を殺した親は、裁かれるべき場所で相応の罰を受けることになっている。それを無視して、ホーが自分勝手に親の命を奪っていいのかい?」

「そりゃなんだ? お前の正義か? 英雄ごっこか?」

「人として当然の考えかと……」

「だとしたら、人じゃねえってことか、俺は? はっ、元から人の姿はしてねえ。それに死んだとしても天獄に行く羽目になるのは変わりねえだろ。ただ、早目に天獄行きのチケットをもらったってだけだぜ? それにさっきまで足並み揃えなかった奴がそんなまともなこと言い出しても、説得力に欠けるぞ」

 何の悪びれる様子もなく、ホーはそう言った。篤は先刻の突出してしまった行動を含め、どこか心に引っ掛かるものができた。チームワークを乱したのは事実だが、自分たちは罰する立場ではなく、獄骸を駆除する立場であるというのに。

「まあ、そう暗い顔すんな。これが俺たちの仕事だっていうのを、これを見て痛感してほしい。これ言うとコロネが怒りそうだが、獄骸を人間に戻すなんて能力も、自分勝手な裁量なんじゃねえかと思うぞ……」

 人のいい篤は、ホーに語調を強めて指摘することもできなかった。

「僕には理解できないなあ……」

 そうとだけしか言うことができず、篤はそういう自分にもやるせなさを感じていた。

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