第四章⑤
「何事も起きてなきゃいいんだが……」
道路から海岸へと降りる階段で、ホーは座りながらそう呟いた。
「あら、あんたはあんたで暴れたいんでしょ?」
コロネがホーの横で昔馴染みの間柄か、そんな言葉を発した。
まあな、とホーは頷いて見せる。
「何せ死んでもらっちゃ困る。特に篤にはな……」
「あの人に気があるの?」
「そういう訳じゃねえ。ただ一度問いただしたいことがあってよ」
何かしらねえ……、コロネは言いながらラッカの方へ視線を投げる。
階段の最上段で饅頭を頬張るラッカを見たのはコロネだけではなく、ホーも同じだった。
「食い過ぎだぞ、ラッカ!」
ホーの指摘にラッカはこう呟いた。
「クセになる味んぬ……」
「ただでさえ害獣と位置付けられている獄骸。それが死んでいるとはいえ、一住民の嗜好の一つになってる……。それがどういうことか、ここに来て間もない安藤さんでもわかるはず」
ジョウジの家の下層に位置する暗く湿った部屋で、篤とリツは背中合わせで縛り上げられていた。
仮面の下に獄骸の頭があり、しかもそれが壁に埋め込まれていたとなると、ジョウジの悪趣味が暴かれたことになり、力もあったジョウジは二人を早々と縄で巻いたのだった。
「恐怖の対象である獄骸が、平穏無事に暮らす一般市民の害になるから……? 現し世でもかつて一般人が猛獣を飼っていて、それが逃げ出したことがあったんだ。民家の密集する地域で、幸い被害者は出なかったんだけど、以来、飼育する動物が制限される法律ができたんだ……。それと同じようなものだろ?」
「間違ってはいないね。あの飾られていた獄骸だって本当に死んでいるかどうかわからないし、害獣を駆除するのが当たり前のものをああやって嗜好品に変えてるだなんて、単純に言えば法に違反してるってこと。人としての倫理観が問われるのは、この場合当然でもあるし……」
「では私は、法廷に立つことになるのかな?」
部屋の上の方から声が聞こえた。天井は高く、吹き抜けになっており、その四方には下を見下ろせる手摺があった。そこからジョウジが篤たちのいる下へ顔を覗き込ませていたのだ。
「当たり前!」
リツの明確な発言に動じる様子もなく、ジョウジは続けた。
「安藤さんにも言ったことがあるが、私の息子もタバコとコーヒーが好きだったんだ……。タバコとコーヒーという品は、幅広い層に親しまれている。私の息子も果たしてそうだったか……。安藤さんが海辺の近くで饅頭を食べているのを見て、私は現し世のことを思い出した。一人息子の親である私は先に死んだ。待っていれば息子も来るだろうと、この家を買った。しかし先日、聖人様から転生のお達しがあって、そろそろ現し世に戻らなければならなくなった。そんなとき、役所に息子を私と会わせるよう願い出ていたために、ようやく息子が天獄に来たと聞き役所に赴いたんだが、息子はすでに役所を出ていた。探していると、息子が天獄で罪を犯し、獄骸化していることがわかったんだ……。転生の延長は、誰でも申請できる。私は申請してから息子を探し回った。すでに獄骸化している息子がどのような姿になっているか……、想像もつかず、やがて疲労に苛まれた私だったが、探した先でよく目にしていた獄骸たちがどれも息子に思えてしまってね。あれもこれも全て息子なんじゃないか……。私は次第に獄骸という生物の造形に魅力を感じ始め、カラス纏いを雇って、この家に飾ることにした。リツさんが言っていたように、罪に問われることだったから、ああやって仮面で隠していたんだがね……。残念だったよ。君たちのほんの気まぐれで、仮面の下を覗かれてしまったんだからね」
黙って聞いていた篤だったが、ふと部屋の暗闇から息遣いが聞こえてきた。
それがだんだんと篤たちの近くに寄ってくると、獄骸であることがわかった。
リツ……、と小声でリツにも知らせると、彼女も息を飲んだようだった。
「獄骸に気づいたか。そう、それは最近、ここら一帯の住民に目撃され恐れられていた獄骸だ」
頭上から聞こえてくるジョウジの話を聞き流し、篤は自分たちの状況に意識を向けた。
「飾るのも飽きた。今度は育ててみようと思ってね。安藤さんに声をかけたのも、この獄骸の餌になってもらおうと思ったからだ」
リツは縛られていた腕を動かして、浴衣の袖に忍ばせていたホーから預かった笛を取り出そうと、体をよじらせる。
手元に笛が落ちてきた。そこまではよかったが、それをどうやって口に持っていくか考えていると、篤が小声で、
「リツ、この獄骸、胸に傷痕がある。ツヨシさんである可能性が高い」
そう述べる最中、篤は獄骸が自分を無視してリツの方に寄っていくのを横目で見届け、
「リツ……。そっちに行ったよ」
「わかってる……」
手元から落ちた笛を見ながら、リツは獄骸と真正面から相対する。
獄骸がそのまま口を開けて、リツの肩に噛みつこうとした。
――リツがやられる……。くそっ、何もできないのか、僕は……!
思っていると、リツの肩に口を近づけさせていた獄骸は、リツから離れ篤の方へ向かって歩いてきた。
――な、なんで……?
呆気にとられる篤。
「安藤さん、悪いけど笛を吹くには一度体勢を直さなきゃならないみたい! せーので立ち上がるよ!」
突然言われ、すぐさませーの、と声を発するリツ。篤もすぐそれに合わせ二人して立ち上がった。
「いい? 右回りに方向転換!」
くるっと一回転すると、リツの前に獄骸がいるという状態になった。
――なぜだか知らないけど、リツが獄骸の餌にはならない何か理由があるのか?
「一歩、後ろへずれるよ!」
篤はそれに従い二人して小さく飛び跳ねる。その際、リツは獄骸に蹴りを食らわした。背後へ大きくのけぞる獄骸。
「今度は横に倒れて!」
二人して膝をつき倒れ込む。
床は埃にまみれ、どこかカビ臭くもあった。
リツは側頭部をそのような汚れた床につけた状態になったが、ちょうどよく、鼻の先に笛があった。
「安藤さん、もうちょっとだから……」
リツの動きに合わせる形になる。リツが少し倒れた状態から上へと体を動かしたい素振りを見せるので、篤もその方向へ体を傾けた。
「滑稽だな。その獄骸が咀嚼する音が聞こえたら君たちの最期の合図ということにしよう。それまで私はお茶でもすすることにするよ」
ジョウジが手摺から離れたようだ。
もう少しで笛に唇が触れる。そう思っていると、獄骸が再び篤の方へと動き始めた。
獄骸が口を大きく開け、篤の肩に食らいつこうとした。目を瞑る篤。痛いのに違いないが、その痛さとは果たしてどれくらいのものか……。
獄骸の上下の歯が篤の肩を挟もうとした矢先、
リツが笛を吹いた。
その合図に勢いを感じた篤は、恐怖をこらえ、肩に顔を近づけさせていた獄骸の脇腹を蹴飛ばした。
ガラス窓をけたたましく突き破る、黒い影。小さな窓ガラスをはめる周囲の壁もろとも突き破ってきた。
篤とリツの前にその影が着地した。
「駆けつけてやったぜ! ってかなりピンチだったんだな……。呼ぶの遅すぎじゃねえか?」
「ホー!」と叫ぶリツと篤。
「早く縄を解いて!」急かすリツに、ホーは腰にあったナイフで縄を切り取った。
自由を得た篤は、コロネに呼びかける。
「愛してる!」
篤のかけ声と共に、赤いカラス纏いに変化すると、獄骸が飛びかかってきた。
すかさず腰からくちばし銃を取り出し、獄骸の胸元に一発お見舞いした。
「なんで殺すんだ!」
頭上で、あわてふためくジョウジの声。ホーがジョウジめがけて跳躍すると、ジョウジはアッパーパンチを食らい、後ろへ仰け反る。着地したホーは、ジョウジを床へ倒し手首に縄を締め付けた。
「大人しくしやがれ!」
ホーがジョウジを締め上げている最中、篤は釈然としないものを感じた。
ジョウジが無抵抗すぎるのだ。
ジョウジの手首と足首を縄でくくったホーは、自分の背後からカラス纏いと似たような気配を感じ、その方へ視線を投げた。
くちばし銃を構えた、白色のカラス纏いが、吹き抜けを挟んだ向こう側の手すりにいたのだ。
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