第一章①
「もう少しで着きますよ。安藤さん」
運転するケースワーカーの豊橋が、助手席に座る安藤に言った。安藤篤はある書面に目を通していた。
子供の頬や腕、脚などに、痣ができた画像がコピーされた書類を一通り見つつ、返事をしながらその書類を鞄に入れる。
「保育園側とも連携してるから。親御さんが迎えに来る前に、由美ちゃんを保護する……いいわね?」
「はい!」
と少々力を込めた返事になってしまった。
「そろそろあなたも新人て肩書きを捨てる頃ね。気合いが入ってるのはいいけど、少し肩の力を抜いて。それじゃ半年も持たないわよ」
豊橋から釘を刺された篤は、今度は極力抑え気味のトーンで返事をした。
児童相談所で、児童福祉司として働くようになってから三ヶ月は経っただろうか。
二十四歳という若さから、期待の新人として当初は歓迎されたが、それももう過去のことだ。
これから向かう保育園から、篤の勤める児童相談所に一人の子供を保護する話になっている。親から虐待を受けている疑いのある三才の金山由美を「職権保護」という形で預かることにしたのだ。
子供が危険な目な状態にあると児童相談所で判断され、一時保護するという流れになった場合、親の同意を得ることもあるが、子供の様子を見て強制的に親と引き離す「職権保護」という手段に出ることもある。
安藤が目にしていた書類は、保育園側から送られてきた、由美の負傷した画像をコピーしたものだった。
改めて、由美という園児が不憫に思えた。
「それにしても、何というか……」
「なに?」篤の呟きに、豊橋が一瞬、篤の方へ視線を向けた。
「自分たちで産んだ子を物みたいに扱って、しまいには危害を加える……、何かそういう人間ておかしいなと、軽蔑しそうになります」
「育児放棄や虐待を行う親の心境なんて、理解しがたいことだけど、子育ての大変さは親にしかわからないわ。あなたもこれまで色々と学んできたのなら、子供への虐待が親の子供の頃と関わりがあるというのは知っているはず……」
「虐待する親も子供の頃に虐待を受けているというケースが結構多いという話は聞いたことがあります」
「子育ての大変さは、安藤さんにもわかるでしょ……? でもその大変さって産んでからでしかわからないものよ。私なんて結婚はまだだからそこは何とも言えないのだけど。最初から産まなきゃいいで済むほど、簡単な問題ではないと私は思うの」
そうですね……、と篤は遠くを見つめた。
自分にも子供がいる。そしてその子供は、家にはいない。篤は高校生くらいの時、この職を歩むことを決めたが、当時の自分の考え方と言えば、「最初から産まなければいい」といったものだった。その思考や言動は現在、軽々しく口にしていいことではないというものに変わっていた。
とくに児相の職員であればなおのことだった。
話している内に目的の保育園に到着した。
応接室のような場所で、保育士と話した。由美も篤たちと同じ色と形のソファに座っていた。ツーサイドアップの栗毛に、痛々しい絆創膏を頬に張り、足をぶらぶらさせている。由美は見ず知らずの大人に連れていかれるのが不安になったらしく、
「お母さんに知らない人についていっちゃいけないって言われてる……」
「大丈夫だよ。由美ちゃんのお母さんとは、私が話してあるから」
保育士がそう言っても、由美の顔はあまり感情を表には出さず、ふうん、と述べたきりだった。
大人たちの話しは続いた。
二人の保育士は、三十代位の髪の短い女性と、四十代位の髪を結った女性だった。
「シングルの人だから、けっこう大変みたいで……」髪を結った保育士が心配そうに眉を潜める。
「みたいですね。児相側もそれは心得ています」豊橋もそれは既知だったようだ。
「お母さんも独りで子育てとなると、病んでしまうのも仕方ありませんよね……」篤が同情の意を示す。
「まだお若いですね。安藤さんでしたっけ?」
四十代らしき保育士が、篤に尋ねた。
篤としては、その質問の意図が、若輩者に子育ての苦しさがわかるのかというものを匂わせているのがわかった。
「はい。今年で二十四です……」
後頭部に手をやり、はにかむように笑みを見せると、
「僕にも妻と子供がいまして……」
言いかけると、まあ、そうでしたか、と二人の保育士は合点が行ったようだった。
細やかな食い違いだが、若くて人の良さそうな篤が、若者の結婚願望が希薄になったとされる現代、母親を経験している女性たちの輪に入るのには、少なからず自分のことを伝える必要があった。仕事という建前でもだ。
話を終えると、豊橋が由美の手を握って、園から出、車に乗り込もうとした。
「お母さんの方には私たちでご自宅に伺い、お話しします。行き違いでこちらに来る可能性もありますが、もちろん私たちの施設のことを伝えていただけたら、と」
豊橋がそう伝えると、保育士は頷いていた。
車の後部座席にセットされたチャイルドシートに、由美を乗せ篤はこう言った。
「由美ちゃん、体の調子はどう? 元気一杯?」
「わかんない……」
感情に起伏がないように思えた。助手席側に回って乗り込んでから、ちらりと由美に目をやると、片頬に張りつけた絆創膏が同情を誘う。
「ほら、ポテチャンマン」
児童に人気のジャガイモの顔をしたヒーローの人形だった。
由美は拒もうとせず、それを手に取った。
豊橋が乗り込み、車は発進した。
相談所に着いてから少し経過した。
篤と豊橋は由美の母親に会うため、金山宅へ向かった。篤と豊橋以外に、二人の職員も同伴させた。親が凶器を持ち出して、狂乱するケースもあるため、場合によっては警察も同行することもあるが、由美の母親はさほどそういった部分では気にするほどでもなかったため、この四人で対応することになった。
インターホンを押すと、金山由美の母親、和子が出てきた。黒髪は首の辺りまで伸び、胸の辺りにロゴの入ったネイビーのシャツとジーンズ姿だった
豊橋は名と職業を伝え、恐れるような素振りも見せずこう言った。
「お子さんをこちらで一時保護しました」
はあ!? と動揺と憤怒、両方を表情に出したようた和子は、
「何てことすんの!」
玄関口でそう声を張り上げる和子。
篤は和子の怒りように意を決し、少し体を身構えさせた。
「どういうことなの! さっさと連れ戻してきなさいよ!」
怒鳴り散らす和子。篤は和子の激昂に、びりびりと稲妻が走ったような感覚に陥りながらも、自身も相談所の一員として行動に移さなければと考え、
「落ち着いてください……」
ぼそりとか細い声が出ていった。
「何が落ち着いてくださいよ! ケツの青そうな若造が生意気言ってんじゃないわよ!」
和子には篤の顔が童顔に見えたのか、それが世間知らずというか、人生経験の浅さという誤解を生じさせたようだ。
二十四歳という年齢であれば、相手によってはなめられることも少なからずあるだろう。
過剰に気圧されたように感じ、何も言えなくなった篤に代わって、豊橋が言葉を継ぎ足す。
「お子さんの、安心、安全のためです」
「私が預かった方が安心じゃない!」
「いえ、それが……」
「早く連れ戻してきなさいよ! 親の目を盗んで子供をさらうだなんて、最低!」
「落ち着いてください……」
静かな語調で、豊橋は和子をなだめた。
和子の喚く様子に、冷や汗が出そうになるが、篤は忍耐強く自身の落ち着きを保ってじっと立ち続ける。豊橋は続けた。
「よろしいですか。由美ちゃんの体の至るところに痣ができているんです。それはご存じかと思います……」
柔らかな物腰と穏やかな語調。和子はその雰囲気と質問に、落ち着きを取り戻したようで、黙って聞く耳を持った。
「お母様に黙って、娘さんを保護したことにお怒りなるのも申し訳ないと思うところですが……」
「じゃあ、さらわないでよ」
「いえ」と、豊橋は和子の一言に寸陰狼狽したように見えたが、
「我々も娘さんを保護し、的確な対応をしなければなりません。何より、娘さんの怪我を見て、このまま看過できないと思ったのです。あのままの状態で現状以上のことが起これば、娘さんがもっと大変な状態になってしまいますから……」
和子は深い溜め息をつくと、おもむろに座り込んでしまった。
顔を両手で覆い、鼻をすする音がした。
「私もこれまで色々と頑張ってきたのよ……。前の夫が女癖の悪い人で……。やっとあの人の呪縛から逃れたと思ったら、駄々をこねたり泣き叫ぶ娘に……」
和子が心境を吐露し始めた。豊橋の言い分にもっともな部分を感じたのだろうか。豊橋は近づき、
「大変な毎日でしたね……。ここではなんですから、よかったらお話を伺わせてください」
なだめる豊橋に、和子は幾度か頷きつつ立ち上がると、屋内に招いた。
一時間くらいして、篤と豊橋他二名は車に乗って児童相談所へ向かっていた。
和子には由美を返す時期を、今後お話をしつつ考えていきましょう、と豊橋は知らせたという。
由美という幼児を今後、担当することになる。”奪われた“と強く思い込まれるのは、親に承諾を得ず連れていった状況からいって当然の感情だろう。しかしそれが児童福祉司の仕事の一つだった。今後、由美の家庭復帰の可能性を探っていくために面談や親子面会などを通じ良好な関係を築いていくのが今後の課題だった。
「ちょっと鬱の気があるみたいね……」
運転する豊橋が、前方を見たまま言った。
「娘さんを一人で育ててきて、パートと生活保護でやりくりしていたみたいだけど、夜も満足に眠れず、食欲も失せていたみたい。一度、クリニックに相談してみてくださいって話してみたけど、今度こちらからも紹介してみようかと思うわ」
新人の色が濃い篤は、和子の態度から話し合いの場には加わらなかった。その場に同席したのは、随伴した他二人のうちの片方の職員のみだった。大勢で押し掛ければそれだけ相手の精神状態にも負荷がかかるだろうということで、ベテランの域に達する豊橋ともう一人の職員が話し合いに参じた。
「色々とお役に立てず、すみません……」
篤は豊橋らの対応に心では感嘆しつつ、自分がまだ未熟であることをとことん思い知っていた。
「まあ、あの場合下手に口出ししない方がむしろよかったのかもね……」
豊橋からのフォローに、篤はどんな顔をしたらいいのかわからなかった。
「まあ、まだまだこれからだから……。自分ではまだ至ってないと思うかもしれないけど、焦る必要はないわ……」
先輩の温かな激励に、篤はただ頭を下げる以外になかった。
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