第一章②

 帰宅する頃にはすでに八時を回ろうとしていた。

 スマホには妻、彩からの通知があった。

〈仕事終わりに病院来れる?〉

 メッセージアプリに送られてきていた。発信された時刻は六時。まさかと少し不安になり、自転車で十五分くらいの場所にある病院へ向かった。

 病院に到着。受け付けに顔を出し、息子、拓海のいる病室へと向かう。

 透明なプラスチックの箱の中にベッドがあり、そこで拓海が眠っていた。小さな体にいくつもの管をつけ、外の医療機器へと繋がっている。静かな病室に機械音だけが響いていた。

 そんな息子の様子をガラス張りの仕切りの前から彩が座って眺めており、篤が来ると立ち上がった。

「拓海の様子は?」

「何とか大丈夫みたい」と首を縦に一度振る彩。

 同い年の彩とは、大学で知り合い、結婚までこぎつけた。ボブカットの髪は黒く、どちらかと言えば体格は細身だった。夫である篤には、仕事上がりとあってか、慈しむかのような優しい視線を向けている。

「あなた、最近仕事頑張ってるから、拓海の顔も見られなかったでしょ?」

 しまった、と思わず閉口する篤。

「ごめん。ずっと一人にさせちゃって……」

「あたしだけじゃないわ。拓海だってずっとあなたを待っていたと思う」

 確かにしばらく仕事に熱を入れすぎていたな、と反省した。

 産まれて数カ月が経つ息子の拓海は、呼吸器に異常があり、手術を終えたばかりだった。

 生まれついての病に、いつだったか医師も深刻な面持ちだった。

「児童養護施設などに入れても、他の子と同じようにできない可能性もあります……。そうなると、それなりに息子さんが嫌な思いもされるかと……。心してください……」

 そういった経緯もあり、仕事に追われても極力間隔を開けず、拓海の顔を見に来て家族三人でいられる時間を多くしようと彩とは約束していた。

「ごめんな。彩、拓海……」

 寂しかったのか、彩はそう謝罪する篤をそっと抱擁した。篤も彩の背中に手を回すと、彩の頭を撫でた。

 小さな顔に不釣り合いな呼吸器。ガラスの仕切りの向こうで我が子が透明な箱の中で横になっている。まだ赤ん坊の息子に篤は目を凝らした。

「ちゃんと歩けるようになったら、拓海に色んなものを見せてやりたい」

「色んなもの?」彩が顔を向けた。

「動物園にも行きたいし、水族館にも連れて行ってやりたい。そんな当たり前のことを普通にできる日が来るといいなと思ってる……」

「そう、そうよね……。でもあなたなら、拓海と一緒にはしゃいでそうよ?」

 篤は声を小さくして笑った。

 彩に一度聞いておこうと思ったことがあり、篤は息を整えると、

「こんなこと聞くのも、おかしな話かもしれないけど……」

 うん、とボブカットの妻が、顔を覗き込ませる。

「もし、僕か君のどちらかの命と引き換えに、拓海が完治するとしたらどうする?」

 唐突な質問であることは篤にも自覚があった。

「何その話……。ポテチャンマンよりも幻想的すぎて不謹慎」

 彩の鋭い視線が突き刺さるのも当然か。だが、篤の心意としては、純粋で切なる願いのようなものがあった。

「ごめん。……でも代わってやりたくてさ。大事な息子が苦しんでいて、ただこうして見守るだけってのも僕には苦しくて……」

「あたしだって苦しいし辛いわ。でもできることと言ったら、こうして側にいてあげられるくらいだもの」

「もどかしいよな……」

「だからと言って今みたいな質問は今後しないでほしい」

「悪かった……」

「でもあえて答えるとするなら……」

 彩はじっと拓海を見つめた。しばらく顔を向けたままだったが、やがて篤に視線を移すと、

「全部」と呟き、

「あなたもあたしも誰も犠牲にせず、拓海が治る。それしか選択肢はないわ。あなただってわかるでしょ?」

「誰も犠牲にならず、か。そりゃそうだよな」

「わかってて聞いてると思ったから、不謹慎って言いたいの」

 小さくタックルしてきた彩の肩を強く抱き寄せた。

「いつもありがとな……」

「あたしの方こそ……」

 彩の温もりが、篤の心臓にまで伝わってくるかのようだった。


 翌日の昼に、刑事が来訪した。

 アポイントはとっていなかったが、ちょっとお伺いしたいことが、とたまたま玄関で鉢合わせした篤は、刑事と個室で話すことにした。

「ちょっと玄関口では話しにくいことでしてね……」

 黒いソファに座る刑事はそう述べると、篤の中でも最近のある事件が脳裏を過り、一度そういう話を聞く機会を持ちたいと心の片隅で思ってもいた。

 所長を介して話すのもありだが、タイミングが悪く所長は不在だった。

 茶を出すと刑事は、おかまいなく……と呟き、

「私、捜査課の小竹という者でして……」

 小竹という刑事の顔を一瞥した。

 自分よりも老けて見えるが、三十代前半と言ったところか。ホームベースのような顔に、スポーツ刈りの頭と、微かに笑んだ顔が人懐っこさを感じさせ、厳つい顔の作りとは異なる一面を見せたように思えた。

「井桁さんご一家の話は聞いているかと思います……」

 やはりその話か、と篤は思い、

「三週間くらい前でしたっけ……。ご一家が惨殺されたとか……」

「ええ。さすがはよくご存じで」

「テレビで報道されましたし、保護したこともあったんです。息子さんを……」

「こちらで預かった経緯は?」

「体のあちこちに怪我ができてる、DVではないか、と近隣の方から連絡がありまして。職権保護に踏み切りましたが、息子さんは翌日に親御さんに会いたいと喚き、親御さんは親御さんで、反省の色もあったようなので、息子さんを帰らせました。しかし……」

 井桁一家が何者かによって惨殺されたとメディアで報じられ、児相の近所の出来事からか、この施設にも事件に関する連絡が相次いだ。

「もしかして息子さんも……?」

「いえ……。その分だとこちらの施設でも息子さんの行方は掴めていないようですね」

 小竹のその一言に篤は瞠目した。

「それって行方知れずってことですよね……」

「実はそうなんです」小竹は静かに言った。

「両親と共に亡くなったのではないんですか?」

「どうやらそのようなんです。断言できないのが申し訳ないんですけどね。見つかった遺体の一つは焼死体のように黒く焦げていまして、三人のうち二人の頭には弾痕があり、一人の頭は半分ほど損傷していました」

 篤はそれを聞き顔をしかめた。小竹は続ける。

「三才くらいの子供がいたとのことですが、両親二人の遺体は確認できても残りの一人、つまり子供の遺体に関しては、つじつまがあわない」

「つじつまがあわないというと……」

 小竹の話し方は、遠回しで抽象的なイメージを抱かせた。それだけデリケートな問題でもあるからだろうが、小竹の最後に述べた台詞は、意図的に曖昧にしてしかるべきことだった。

「三才児にしては体が大きいんです。そして親のものとおぼしき体の一部が、年齢に釣り合わないその遺体の中から発見された……」

「それって……」

 唖然とする篤に小竹は、

「どうやら損傷した頭部を食った、という見方しかできないんです」

 そんなことがあるだろうか。篤は寒気を感じたが、なぜこの刑事がここを訪れたかが、何となく見えてきた。

「非現実的な話でしかありませんが、ここ一ヶ月でに似たようなケースが三件……。どれも三才から五才くらいのお子さんがいて、事件後、子供は消息不明……。近場の林や河川敷などを捜索しましたが未だ遺体も発見できず……そこで、こちらのスタッフであるあなたに、捜査協力を申し出たいのです」

「協力、ですか……」

「ええ、と言いますのも、被害に遭われた家族のお名前が……」

 小竹から三つの家の姓を告げられると、篤は衝撃を受けた。

「それ、どれも一時保護した経験のあるお子さんの家庭ですね……」

「睨んだ通りだ……」と小竹は溜め息混じりに言うと、

「今後被害が拡大しないように、次手を打ちたいのです」

「一時保護を受けたことがある、または親から何らかの被害を受け、これから一時保護をする可能性のあるお宅を調べるってことですね?」

「理解が早くて助かります」言って、小竹は茶を一口すすった。

 一時保護の経験と、今DVを受けているという連絡を受けている子供……。リストとして保管しているため、まずはそれを調べることになるだろう。

「ざっと思い返してみても数十件はありますね……。今ファイルを持ってきます」

 そうして別室から持ってきた書面を、小竹を招いた部屋で広げ、互いにページを捲っていく。

「一度に多くを調べることは不可能です。まずは一軒一軒しらみ潰しにして行くしかないでしょう」

 小竹はそう言うと、次回、該当する宅に様子を見に行くと言って帰っていった。


 帰ってきた所長と話すと、所長もテレビの報道などで事件のことは知っていたようだ。刑事が訪れるのも、時間の問題だろうと思っていたらしく、所長には想定内のことだった。

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