第三章①

 大学生になった篤は、昼休みの校内を歩いていた。行動を共にするのは長身の東と、腹回りの大きい溝下。二人とは進学してから友人関係になった間柄だ。

 都内の大学だった。社会福祉司の資格や知識を得るために、心理学、教育学、社会学を専攻した。篤の実家も同じ都内にあり、通学に不便はなかった。年季の入ったコンクリート造りの校舎は古めかしく、時代を感じさせる。

 ここ数日、黒猫が校内をうろついているという噂を耳にしており、東と溝下もその猫の話題で会話が弾んでいた。

「黒猫もふりてえ……」東が後頭部に両手を持ってきて言った。

「黒猫がもし美少女で、俺と同棲することになったら……」アニメ好きの溝下は肥えた頬に、怪しげな笑みを刻んだ。東は横目で溝下の出っ張った腹を見やり、

「まずその腹を何とかしろ」

「エロ本じゃデブでももてるからいいんですう。っていうかこのお腹は猫ちゃんのベッドなんですう」

「引っ掻かれて萎んだら、イケメンになったりしてな」

「それはそれで」と真顔の溝下の腹部に、東が軽く拳をめり込ませた。途端、東はたたらを踏んだ。

「おっと、あぶねえ!」

 東が突然飛び退いた。篤はそれに気づかず、友人の避けたあるものを踏んづけてしまった。

 思わず硬直する篤。

「これ、猫の糞てやつじゃね?」訝しげな東に、溝下はガッツポーズを作り、

「噂は本当なんだ。チャンス! 美少女チャンス!」

 と二人の友人は冗談めかすが、踏んでしまった篤は、美少女や猫どころではなかった。

「大丈夫か、篤!」

「このあと東棟の教室だぞう」

 心配する友人たちに笑顔を見せつつ、

「ああ、適当に洗っておく……先行ってていいよ」

「そっか、わりいな……」

 と合掌する東に溝下は、

「美少女がしたってこと?」

「お前そんな趣味あったっけ?」

「ないないない」

 そんなやり取りをしながら、友人たちは校舎へと入っていった。

 校庭の隅にある蛇口で軽く靴を洗った。

 潔癖というほどではないが、このまま校舎の中に入るのもどうかと思っていた。

 ――だって汚ねえもんなあ……。

 靴の片方で、先っちょが汚れただけだ。そんなに気にすることでもないかと思っていると、篤のいる場所から少し離れた場所にある一階の渡り廊下の手すりに、何かが置かれているのが目についた。

 ハンカチだった。黒と紫の混ざった色合いのハンカチは、四角く折り畳まれ手すりの上に放置されていた。

 誰のものかはわからない。靴を拭くのに利用しようか、などと少々非常識な考えが頭に浮かんだが、誰のものともわからない物を容易く手に取るのも、面倒事に巻き込まれそうで篤の心中では、無視しようか、遺失物として届けるか、だとしてまず自分がどう動くか、様々な気持ちが生じては消えていった。

 深めのため息をつき、手に取るだけ取ってみようと、ハンカチを指で挟んだ。

 そこへ眼鏡をかけた女性が、ノートを胸に抱えながら篤の目の前にやって来た。

 黒髪のセミロングに、私服は地味と言えば地味な装いで、夏前の季節柄、水色のシャツと黒いズボンという出で立ちだった。

 何かを探すように地面をくまなく見入りながら、水呑場をうろうろしている。

 まさか、と思った篤は、ハンカチを一瞥し眼鏡の女性に声をかけた。

「もしかして、これお探しですか?」

 篤の声がけに、眼鏡の女性は目を丸くしつつ、

「あ、それ……私のなんです……」

 なぜかその女性は涙目になっていた。顔がほのかに赤く染まる様を見た篤は、彼女の純粋な部分を垣間見た気がして、むしろこちらが驚かされた。

 ――ハンカチを見つけたくらいで、泣くこともないだろうに……。

 持ち主へお返ししようとするのは当然としても、篤はこの時、この女性のハンカチにまつわる秘密を知りたい欲に駆られた。

 目の前のこの女性が純粋なら、この瞬間に立ち会った篤も純粋と言えたかもしれない。

「すみません……。実はさっき猫の糞を踏んづけてしまって、靴を洗ったあと、このハンカチで拭いてしまったんです……」

「えー……」

 みるみる彼女の顔が青ざめていく。涙で潤んだ瞳も、決壊しそうなダムのように頬を伝う寸前に見えた。

「すみません。なので、洗って返させてもらえませんか? それか……」

 篤はごくりと唾を飲み込み、

「弁償します。一緒に買いに行くとかってのは……」

 これではあからさまにナンパをしているようだ。当然、眼鏡の女性は小さくかぶりを振りながら鼻をすすった。

「そのハンカチじゃないとダメなんです……」

 眼鏡を外し、涙を拭く女性。

「僕も他人のものを勝手に使った責任があります。どうか償わせてもらえませんか?」

 篤の真面目な押しに、眼鏡の女性はようやく首を縦に振った。

 いつお返しするかなどと話し、待ち合わせ場所は中庭のベンチに決まり、名前も交換した。

 長内彩――。

 それが眼鏡の女性の名前だった。


 そうしてハンカチを返却する日がやってきた。

 あまりおしゃれに気を使うほどでもない篤だったが、その日だけは妙に自分の身なりが気になった。

 ハンカチをいつも登校時に持っていくショルダーバッグの中に入れ、待ち合わせ場所の中庭にまでやって来た。

 そこにはすでに彩の姿があった。

「すみません、遅れてしまって……」

 言いながらバッグからハンカチを取り出す。

 そのハンカチのある状態に気づいた彩の眼鏡の奥の瞳が、一瞬曇ったように見えた。

「色落ちしてる……」

 ぼそっと呟いた彩に、篤はぎくりとした。

「すみません……。まず、自宅で手洗いしたんですよ。普通の洗剤使って。それだけじゃ殺菌したか不安だったので、もちろん洗った家の洗面所も掃除しましたし、強力そうなコインランドリーの洗濯機で洗い直して、家のベランダに干したんです……」

「そうですか……。でも、私にも原因はあるんです。元々大切なものなら使わなきゃいいだけなんで……」

「いえいえ。そんな……。悪いのは僕の洗い方だったので……」

 明らかに篤のやり方に問題があるのに、この女性は自分に不備があると言った。謙虚な人なのだろう。とはいえ篤は彩の自虐的な一面に甘んじようとはしなかった。

 ベンチの端に腰かけ、篤は小さく咳払いをし、

「すみません、そんなに大事なものだったんですか?」

 どさくさに紛れて、彩の身の上話を伺おうとした。

 彩は嫌な顔などせず、ハンカチとの思い出話を語ってくれた。

「妹からのプレゼントだったんです。私が中学のときに預かった四つ違いの妹で、親は違います。親から虐待されて、警察に連れていかれたあと、私の実家でしばらく預かることになったんです。その子の親とは父が兄弟だったので……。無口で、感情の起伏も少ない子でした。私も最初はどう接すればいいかわからずにいました。ある時、晩御飯がカレーライスのときがありまして、その子が小さじくらいの量をテーブルの上にこぼしてしまったんです。そしたら急に泣き出して……体も震えていました。なぜそんな状態になってしまったのかはともかく、両親は気にしないでね、と笑顔でこぼしたカレーを拭くと、小学生だった小さなその子を抱き締めました。あとで母から聞いた話では、前の家で同じ量をこぼしたとき、両親が手を上げるほどに激しく怒ったそうで……。だから、あの子は震えて泣いていたんだなと思いました。私はある夜、あの子に言いました。一緒に寝ようって……。そしたら快く返事してくれて、クラスの嫌いな子の話とか、面白い漫画の話とかをして徐々に仲良くなりました。もう家族の一員でした。私の本当の妹のようで、これから仲良くやっていけそうな気もしていました。しばらくして、親が拘置所から出てきたんです。虐待をした証拠もなく、さほど刑には処されないと裁判所からも言われ、あの子はまた親元へ行くことになりました。そこで私はあの子と仲良くなった証にハンカチを交換したんです……。色々な意味や感情がこもったハンカチでした……。でも……」

 最後の否定形に篤の心臓はギクリとした。無論、黙って聞いていた篤は、彩の話に共感する部分も多々あった。その妹はその後どうなったのかまでは、今は聞くのは止めることにした。今もその子は無事に暮らしているのだろうかと気がかりではあった。加え、そんな大事なものを台無しにしてしまった自分を責めたくなった。眼鏡を外した彩の横で、篤は自分の膝の上に置いた手が汗ばむのを感じていた。

 直後に聞こえてきた、何かを弾く音。見ると彩が自分の頬を両手でひっぱたいていた。

「もう、過去とは見切りをつけなくちゃ!」

 大きめの声でそう言うと再びひっぱたく。

「ハンカチとあの子の気持ちは別として考えなきゃ!」

 もう一度叩こうとしたので、篤はその手を掴んだ。

「や、やめましょうよ。そんな自虐的なことしたって何にもなりませんし……」

「ハンカチとあの子の優しさを切り離して考えなきゃ、色落ちしたことがずっと心に残ってしまいそうで……。でもだからといって手の込んだことをして、隅々まで綺麗にしてくれようとした安藤さんの気持ちだって大切にしたい。だから私はもっと強くならなきゃいけないんだと思って、気合いを入れようと……」

「だからって、いい顔が赤く腫れちゃいますって……」

「いえ、いい顔だなんてそんなこと……。本当に色々とごめんなさい……」

「僕の方こそ……」

 しばらくの沈黙の後、篤は自分の将来のことを語った。

 テレビでも報じられた、児童虐待の凄惨な事件をきっかけに、篤は子供を助けられる仕事に就こうと思ったことを。

 それは一時期、預かっていた親戚の子を思う彩とも目的が一致していた。

「安藤さんもそうだったんですね……」

「長内さんも、同じ道を目指していたなんて……。こういうの運命的な出会いって言うんですかね……」

 くすっとその言葉を聞いて彩は微笑んだ。

「運命だなんて……。もう、何言ってるんですか……」

 顔が赤くなった彩を見て、頬を平手打ちしたからか、今の篤の台詞に気恥ずかしさを感じたからか、このときの篤にはわからなかった。

「同じ目標を持つ人と出会えてよかったなって思いました。お互い頑張りましょう、長内さん!」

 はい、と彩の笑顔は溢れるように満面だった。

 そんな彩の笑顔が暗く淀んだ闇の向こうへと離れていく。

 篤は手を伸ばし追いかけようとするが、一向に追い付けない。

 ――彩! 待ってくれ、彩!

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