28.まだ負けてない
遠くで佇むそれに、京介は何もできなかった。
じっとこちらを見つめている異形。ヴェールを纏った人の影。かつては蒼だったはずなのに、何も言ってくれない。
杭を拾い上げ、手に取る。手には取った。でも、そこまでだ。刃を向けることができなかった。
あれはもう蒼ではない。この星の生き物ではない。どこか遠くから来た何か。わかっている。わかってはいる。死なせてやった方がまだマシなんだ。でも、できるかよ。友達だったんだぞ。蒼ちゃんは。ここまで来れたのは彼を守りたかったからだ。
俺が蒼ちゃんを失いたくなかったからここまでやった。なのに今さら。こんなのひどいじゃないか。
「何が神様だよ」
深海のような暗黒のヴェールを被ったそれに、京介は怒りを露わにした。
よくも蒼ちゃんを…!
「お前が神様だというのなら、人を守ってみせろよ。笑顔にさせてみろよ。人にとって都合のいい存在であれよ!」
これはただの憎しみだ。恐怖すら濁らせる燃えるような怒り。恐怖で気がふれるのではなく、怒りで頭がおかしくなってしまった。
「こんな、こんなの…」
怒りというものは、悔しいという気持ちに基づいた感情だ。
理不尽な目に遭わされたとき、思い通りにならないとき、大体の人間はまず、後悔する。
どうして理不尽に抵抗できなかった。どうして思い通りに事を進められなかった。あの時ああしていれば。自分にもっと力があったら。
何もできなかった自分の無力を悔い、そもそもそんな目に遭わなければ自分はこんなに悔しい思いをせずに済んだのに、と、運命を呪う。
怒りと、後悔というものは、基本の部分で密接につながり合っている。
だから、悔しくなってしまった。
怒りに心が喰い荒らされてしまった瞬間、ふと、負けてしまった自分自身がどうしようもなく弱かったことに気が付いて、悔しくなった。
ガラスの床に手を付いた。頭がどんどん重くなる。京介は、ついにその場にうずくまってしまった。
「ダメだよ…。耐えられないよ」
喉の底から嗚咽が漏れる。喉が詰まって息ができない。海水をたくさん飲み込んでしまって、肺がおかしくなってしまった。
多分、一生治らない。
『…』
誰かが声をかけた。でもダメだ。とてもじゃないけど聞く気になれないし、返事をする気にもなれない。
何? 話しかけるなよ。
『……』
ぼそぼそとした小さな声だ。風が吹いたらかき消されてしまいそうな、弱弱しい声。
うるさいな。もうどこかへいってくれ。
『…』
ノイズがかかったような不明瞭な音だ。星が瞬くときのような微かな声が、すぐそばから降りかかる。
それがどうしようもなく琴線に触れた。
イライラするんだ。こっちはそれどころじゃないのに。
「なんだよ! もう蒼ちゃんじゃないくせに、話しかけるなよ」
京介は顔を上げた。
『……』
すぐそばで、それがこちらを見ていた。
細い血管が複雑に絡み合ってできただけの小さな人影が、そこにいた。
目、耳、皮膚、鼻、口といった世界を味わうための器官をもたず、血を通わせるためだけの管のみで生きている。
これにとっては、それだけで十分なのだろう。世界を知らずとも構わないのだ。だって、全てが自分のためにあるのだから
それはヴェール越しに、こっちをじっと見降ろして、それで
『…せん』
『ぱい…?』
「え?」
今、なんて
ヴェールが揺らぐ。
ヴェールの中の人影は、微動だにせず京介を見下ろしている。
「あ、あおい…」
杭を持っていない方の手で、恐る恐るヴェールに手を伸ばす。深海に差す一筋の光を掴もうと、しっかりと手を伸ばす。
『…!』
京介の指が触れるよりも前に、人影が動揺するように身を強ばらせ、2、3歩後ろへと後ずさる。何かに耐えるように。それは片膝をついて俯いた。
助けを求めるように、人影の表面に走る血管が拍動する。強く光ったかと思えば、次の瞬間には消えている。それの繰り返しだ。
何かが起こっている、あいつにとって悪いことが、起きている。
でもそうじゃないんだ。もっと大事なことに気がついた
「まだそこにいるんだな」
京介は立ち上がった。
俺を先輩と呼ぶのは、1人しかいない。
だったら…、まだ負けてない。蒼ちゃんはまだここにいる!
そこにいるんだ。
もしかすると、元に戻せるのかもしれない
考えろ。どうすればいい。蒼はうみなりへと変貌した。なら、その逆も可能だろう。
まだチャンスはある。蒼はまだそこにいる。
うみなりの中で、蒼はまだ生きている。
うみなりの内側だ。そこに入り込むことができれば、蒼を助けてやれるのかもしれない。でもどうやって?
首筋に汗が伝う。冷たい場所にいるのに、頭の中が沸騰して死んでしまいそうだ。
京介には1つ、思い当たることがあった。だって、ついさっきやられたんだ。
杭を持っていない左の手が、無意識のうちに右の脇腹を押さえる。
ふぅ。また息を吐いた。
膝をついた人影の元へ歩みを寄せ、その目の前で膝をつく。右手に握りしめた杭の感触を確かめる。冷たくて、はっきりしていて、なんだか痛いくらいだ。
怖いなぁ。うまくいかなかったらどうしよう。
痛いんだろうな。もしかしたら死ぬかも。
血管のみで形成された異形の神が顔を上げた。何かを期待しているような感じだ。でも、違うんだ。俺はお前のために何かをしてやるつもりじゃない。
京介は、自らの首に杭を当てがった。
ぐっと力を込める。一発だ。一発で済ませろ。下手に長引くとこっちがマズイ。大丈夫。さっき流にやったようにすればいい。簡単だろ。
ヴェールが微かに揺れ動く。不可思議な布を一枚挟んだ向こう側の、何重にも絡まった血管のさらにその奥。うみなりの底の底を目で探す。
世界は海で満たされた。文字通り、海というヴェールにすっぽりと覆われた。うみなりこそが海の中心点。この世界で一番深い場所だ。きっとそこにいるんだろう。そこまでたどり着くことができれば
「…!」
自らの首、皮膚と肉、血管を断つ。
痛いというより熱い。自分の中の何か大事な部分が、傷口から失われていく。
『…』
異形の姿が強く瞬いた。心配してくれているのか? 反面、手元にある杭は不満そうにその光を弱める。こんなものを切らせるな、と、怒っているのだろうか。
そうだよな。これに与えられた役割は人を切ることではない。でも、ちょっとは堪えてほしいな。
京介は杭の訴えを無視し、抑え込むように強く握る。
どんどん目の前が暗くなる。何だか寒い気がしたけど、徐々にそれすらも感じなくなっていく。
「大丈夫」
はっきりと言いきったつもりだが、実際は空気を漏らしただけだ。
「…」
手に力が入らない。手どころか、全身がうまく動かない。
それでも必死になって、人影の首に手を伸ばす。
それの肩を抱き、胸に顔を埋める。
冬の海のような冷たい感触が、自分がまだ生きていることを教えてくれる。今俺はどういう顔をしているのだろう。
深海のヴェールが、京介の流す血で赤く染まっていく。布を伝って、内側の部分に血が沁み込んでいく。
さぁ、混ざり合うんだ。
俺の血をうみなりに明け渡す!
俺たちは混ざり合って、どっちがどっちかわからなくなるんだ。
不意に、目の前が暗くなる。ブラックアウトだ。何か奇妙な浮遊感が全身を包み込む。
落下だ。俺はうみなりの中に落ちていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます