14.負けたくない
実のところ、京介は流に対して迷いがあった。彼、あるいは彼女について、どういう心の持ち方をすればいいのかわからずにいたのだ。
流に怒りがないと言えばウソである。あれは突然、何の前触れもなくこの町をおかしくして、自分たちの日常を破壊した。つい先日と同じように、不愉快な目覚ましの音で朝を迎え、同居する後輩のために朝食を作り、メンドくさいと口走りながら仕事に出かけ、くたくたになって帰宅して、気合を入れて作った夕食を食べながら、録画した映画やドラマを観て、明日も仕事かと憂鬱な気分になりながら眠りにつく。そういう平穏なルーティンは、この怪異を解決しない限り取り戻すことはかなわないだろう。
だが、流に対して憎しみがあるかと聞かれたとしても、はっきりとした答えを出すことはできない。いまいち釈然としないのだ。
流が行ったことは許されることではない。惨たらしくも人を“材料”にして儀式を行った。多くの人間の生命を“神を蘇らせる”という願望のために踏みにじった。
人の命は尊重されるべきである。少なくとも、何かを成し遂げるための材料として消費されていいものではない。
それは極めて一般的な価値観だ。人間を人間たらしめる基本的な考え方である。それを侵してしまうものがあるとすれば、それはもはや人間ではない。獣だ。
考えず、感じず、満足せず、際限ない。生きているから生きているだけの何か。
しかし、流は獣には見えない。
あれには宗教がある。神がある。この地球上で、宗教を持てる動物は人間だけだ。見えない何かを心の拠り所にする。ある意味で、神を信じることはもっとも人間らしい行為であると言えるだろう。
京介は、流の中に、いわゆる人としての良心があることを期待していた。
生身の人間を材料にして、神を蘇らせることに少しでも罪悪感のような、良心の呵責を抱いていれば、自分はあれを憎まずにいられる。平和的にすべてを解決できる。
人を憎むことは、出来ればしたくない。嫌いであってもいい、そりが合わないのに無理に仲良くする必要はない。
だが、憎むことだけはしたくない。憎しみは圧倒的だ。すべてを曇らせる色付きの眼鏡だ。憎しみに駆られては、まともにものを考えることができなくなる。
もし流が、本当はこんなことをしたくないと思っていたら? このままでいいのかと迷っていたら? 性善説に則った希望的観測に違いないことはわかっていたが、そういう期待が京介に迷いを生ませていた。
一夜明け、出来る限りの備えをして家を出た。とは言っても、昨日屋敷を訪れた時と同じ装備だが、気の持ちようはそうはいかない。昨日は怪物と出会った時のことを考えてナイフなんて物騒なものを持ち歩いていたが、今日のそれは流を相手取るための対抗手段である。
もちろん対話で解決できればそれでいい。それでいいのだが、荒っぽい手段で彼、ないしは彼女と争わなければならないのであれば、相手が未知の手段を用いてくる可能性がある以上、それなりに大げさな準備をしていたって不足はない。
「お屋敷に行くまでが怖いわ。あのヒルみたいなヤツにどこで襲われるかわかんないもんね」
「戦闘になった場合、わたしは戦えないからなぁ」
赤い壁を避けながら、住宅地を進んでいく。昨日と同様に空には厚い雲がかかっている。時刻は午前10時。それなりに日が差してもいい頃合いだが、不安になるほどの薄暗さが不気味である。気温は非常に低い。怪物にやられたせいで厚手のジャケットを一枚ダメにされてしまったのが随分と手痛い。代わりに別の上着を着てきたが、お気に入りを一着失ってしまったという点では非常に気が滅入る。怪物目掛けて投げたスマートフォンも、結局おざなりになってしまった。
「なにドヤ顔してんだ」
どこか誇るようなそぶりで自身の非力さをアピールする田中に対し、蒼はぺっと吐き捨てた。出会って1日と間もないが、随分と仲良くなったようだ。
もし蒼が田中のことを嫌っているのならば、返事なんてしないだろうから。
田中は得体の知れない何かだが、少なくとも悪いヤツではない。最初に出会った時はその容貌にひどく驚かされたものだが、今では愛らしく見えている。不気味なマスコットをかわいいと思う感じに近い。
彼の正体はよくわからないが、彼のことは信頼している。蒼とも仲良くなれているようだし、命だって助けられた。彼には感謝している。
同時に、どういう仕組みかはわからないが、自分を助けてくれたせいで一回り小さくなってしまった姿に、申し訳ない気持ちがあるのも事実だ。彼が自分たちを助けてくれるように、自分も彼の助けになってやりたい。田中、なんて仮の名前ではなく、本当の名前で呼んでやりたい。
当の田中は、蒼のすぐそばを這いずりながら、HPはゴミだがMPは高いぞー、とカラカラ笑い声をあげている。
初めて会った時から思っていたことだが、彼の言動には異形らしからぬ人間味がある。もしかしたら、元は同じ人間なのかもしれない。いや、人間はスライムにはならないが。
少なくとも人間の社会に長いこと身を置いていた存在であるのは間違いないだろう。
2人の様子を眺める京介から、自然と笑みがこぼれた。
しかし、ふと前方に視線を戻した途端、その笑みは凍り付いた。
「ごきげんよう」
誰もいない住宅地、その路地の真ん中に佇む黒い人影。絵画の中から飛びしてきたような眩い姿に目がくらむ。長い金色の髪に真っ赤な双眸。
「流!」
突然現れたそれに対し、京介は身体を硬直させた。全く人の気配なんてなかった。ホントに。それは降って湧いたようにこの場所に現れた。
前方からかけられた上品な声で、蒼や田中も流の存在を認識する。
「お前が流か」
威嚇するような唸り声で田中が吼える。
警戒心を隠すことさえせず、露骨に敵意を向ける異形の生物に、流はまったく怯まなかった。それどころか、つぼみがはじけて大輪を咲かせるようなまぶしい微笑みを彼へと向けた。曇りのない、純粋な笑顔。
「来ると思っていたから、こっちから来ちゃったわ」
この世で最も美しいかもしれない笑顔のまま、流は口を開く。ずっと秘めていた想いを伝えるときのような、ひた隠しにしていた恋心を溢すような口ぶりで、それはこう言った。
「じゃあ死んで」
聞き間違いではない。それは死ねと言った。耳を疑う余地すらなかった。流を取り囲むように真っ赤な液体が宙に浮く。それらは無数の球体であった。球体はぐにゃりとその姿をゆがめ、針のように鋭利な姿に変わるや否や、こちらに驚く暇さえ与えずに、京介たち目掛けて放たれた。長さ10cmほどの凶器。とてもじゃないが避けられない。死ぬ。確実に死ぬ。蒼や田中は後ろにいるが、その盾になって彼らを守ることさえできない。
もうダメだ。
そう思った刹那
「危ない!」
田中が前へと飛び出し、京介たちの盾になるようにスライム状のからだを大きく引き伸ばす。
無数の星のように空中に散らばり、射出された針は壁となった田中に容赦なくその先端をぶつけ、ガラスのように砕け散った。
一瞬の出来事だった。声さえ出ないほどに。
襲い来る針をしのぎ切った田中はからだを元の半球体へと戻すと、アスファルトの上をボールのように力なくバウンドする。
「田中さん…!」
京介がそれを受け止める。
「…どうやらタンクもできるみたいだ」
京介に抱えられ、目を回すように黒目をぱちくりさせる。強がってはいるが、かなり堪えたようだ。
ヤツは自分たちを殺す気だ。そして不幸なことに、未知の力でその目的を達成しようとしている。ポケットナイフなんて何の役にも立たない。あんなの反則だ。メチャクチャだ! 悪い予感が当たってしまった。
焦りが思考を鈍らせる。考えろ。どうするべきだ。立ち向かうことはできない。さっきの針がまた飛んでくる。じゃあ逃げる? どうやって。
心臓をわしづかむ恐怖にあらがうだけで手いっぱいだ。ここからどうするべきかを考えなくてはならないのに、その答えを出すことができない。
こんなのどうしたらいいんだよ! どうしたら…
「ふざけんな。お前が死ね」
ぐるぐると思考する京介をよそに、蒼が流の方へ駆け出した。
バカ! 死ぬじゃん
制止しようと手を伸ばす。蒼は気にも留めない。激しい怒りに駆られ、一直線に流を目指す。そして、走り出した勢いをそのままに流に殴りかかった。
「あら、怖い」
その拳は流には届かなかった。流は寸前で蒼の手首を掴み、その動きを止める。
まばたきをする間もなく、蒼の背後に球体が現れ、流の懐に入り込んだ蒼の無防備な背中目掛けて撃ち込まれた。
京介はついに気が狂ってしまうかと思った。神がどうとか、そういう意味不明な出来事に巻き込まれてもなお、正気を保っていられたのに。
名前を叫んでも意味はない。走り出そうとしても間に合わない。
死を覚悟した。蒼の死を。
銃弾のような殺意そのものが蒼の心臓を的確に貫くのは明らかだ。もう避けられない。どうにもできない。そう、確かに明らかだったのに
「…は?」
目を疑った。疑問符を口にしたのは自分か、はたまた腕の中の田中か。それすらもわからない。
俺は今何を見た?
「先輩を巻き込みやがって。お前だけは殺す」
流が放った針は、蒼を貫くことはなかった。
どういうわけか、彼の背に切っ先が達する直前、何かにはじかれたように針は砕け散った。
「その先輩に見られてしまったのはいいの?」
「いいわけない。お前のせいだぞ」
見られた? なにを。
「怒らせちゃった? ごめんなさいね」
流はからかうようにくすくすと笑うと、真っ黒なコートのすそを翻して踵を返す。そして、京介たちがいるのとは逆方向に走り出す。
誘われているようだ。追いかけろと。
蒼はそれを理解したうえで後を追った。
「蒼ちゃん!」
引き留めようと京介が呼びかける。が、その声は届かなかった。たった一瞬で彼の背中が遠くなる。
「追いかけるぞ。走れ!」
腕の中で目を回していた田中が叫ぶ。そうだ。追いかけなくちゃ。ここで立ち止まったらダメだ。
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